「よお」
「山口さんおつかれさまです」
セメントを作る機械があって、そのプールに西野を埋める話をされたのが、3日前だ。
今日がリハーサルで、明日が決行。つまり異常なほど、山口は人の命を軽んじていた。
「廃棄スイッチの5分後にあのデブを呼び出せ」
点検業務の最中、俺の耳元に唇が付きそうなくらい近づけて、山口は言った。
「13回目です。さすがに分かってますから」
「数えてんじゃねえよ」
山口の蹴りが俺の尻を痛めつけた。「縁起のいい数字だろ」
「はい」
山口は悪魔の下っ端みたいな品の無い笑いを浮かべた。
「スイッチから10分後、ブロックを運ぶアームがちょうどデブの頭をぶん殴る。セメントは1時間かけて分解されるから確実に窒息死だ。労災ってことでおまえも俺も手を汚さずに済む」
「確かにあのアームの動きは普段から危ないって言われてますね」
スイッチひとつで西野は死ぬ。死刑執行人のような複雑な心境だった。
「心配するな。アームのスイッチを押すのは俺だからな」
そこでもう一度俺を蹴って、歩いていった。
あんなに暴力的なくせに、なぜ俺に協力を求めるのか。尻が理不尽だ。
nextpage
定時を過ぎ、廃棄スイッチを押して5分後、電話で西野を呼び出した。30秒ほどで奴は来た。
「何かあったか?」
「何か変わったことないかなって」
「なんだそりゃ。今日も1時間くらいで終われそうだよ」
「そうじゃなくて。日常的な話だよ」
「ああ、あるにはある」
「なんだ?」
そう言うと西野は笑った。
「まだ言えないよ」
「言えよ」
明日死ぬんだぞおまえ。
「気が向いたらな。もう戻っていいか?早く帰りたいんだ」
そうして西野と入れ違いで山口がやってきた。
そのときの山口には西野の姿が全く視界に入っていないみたいで、俺は感服した。
「この計画は完璧だ。シンプルイズベストだ」
「山口さんおつかれさまです」
「びびってるのか?」
「はい」
「でもやれ。おまえの借金をキレイにするには、あいつをやるしかないんだぞ?」
「はい」
俺はここで働く前に作った借金を肩代わりしてもらった。
西野もだ。馬鹿げたことに、当時の俺は山口をいい人と思ってしまったんだ。
それからは事あるごとに俺を殴り、サイフから金を持っていく。
誰も逆らえなかった。これが世間というものなんだと言い聞かせた。
nextpage
「山口が事故に遭った」
俺は耳を疑った。
「ケガの状態はどうなんですか」
西野の質問に、所長は<ケガじゃない>と怪訝になった。
粉砕機に服をはさみ、そのまま上半身全部を巻き込まれたらしい。
残業で誰もいないときに起きたため、詳細が分からなかった。
朝一で出勤した社員が、なおも奴の体を飲み込もうとしている粉砕機から、下半身を引きずり出したそうだ。
朝礼でそれを聞かされ、俺も含め社員の多くは弁当が食えなくなった。
俺には喜びも悲しみも無かったが、面倒なことが減ったとは思った。
nextpage
山口が死んだことで、俺の借金も消えた。今日が決行日だったのに。
「今日は何だ」
「別に」
それでも俺は奴の指示通り西野を呼び出した。
もちろん殺すためじゃない。とりあえず指示には従ったぞ、とどこかに言い訳がしたかった。幽霊になって出られても困る。
西野は昨日と同じ場所に立って、溶けた灰色のチョコレートのようにうごめくセメントに向かって呟いた。
「女房に子どもができたんだ。男の子」
俺の心臓が何かに噛まれたように痛んだ。
「おめでとう」
「社長から仕事の一部を分けてもらってさ、独立してやっていくつもりだ」
「そうかい」
「おまえも来るか?」
俺はふっと西野の横顔を見た。どういうわけかその瞳は寂しげに見えた。
「俺にはここが合ってるみたいだ。気持ちだけ受け取っとくよ」
変な間が生まれた。
このまま別れたら、どうにも釈然としない気がしてきた。
一つだけ聞きたかったんだ。山口のことを。
お互い腹を割って話そう。俺たちが、成りたくないものに成る前に。
「なあ、西野」
西野が顔を向けたとき、柔らかい風が後ろから吹いた。
nextpage
ズゴンという音とともに西野がセメントプールにダイブした。
何か叫ぼうとしていたようだが、あっという間に口を塞がれ、何を言っているのか分からなくなった。
深くゆっくりと沈んでいく姿を前に、俺は冷や汗を流しながら<おい大丈夫か>と棒読みした。
なんてことはない。背中がうすら寒かったんだ。黒っぽい何かが俺を見張っているような気がして。
だから西野が見えなくなるまで、俺は直立したまま声をかけ続けていた。
nextpage
それから俺は何も告げずに遠くへ引っ越し、可も不可もない生活を送っている。西野の家族がどうなったかなんて知らない。
誤作動による事故ということになっているが、それでいいと思う。
あのときの俺に、アームの動作スイッチがある制御室を調べる勇気は無かった。
nextpage
あの日を堺に俺は自分の感情の器に蓋をし、二度と届かない場所に沈めてしまった。
ただ未だ、ドロドロしたものを直視することができない。
作者ホロクナ
誰が善で、誰が悪なのか分からなくなることがあります。
この話も深読みしてもらえたら幸いです。