「あんさん、いま絶対にうしろを振り返ってはいけんどー」
休みの日に近所のおじさんと立ち話をしていたら唐突に目の前でそう言われた。反射的に後ろを振り返ろうとした俺の体を、おじさんの手が制止する。
思いのほか強いその力に圧倒されていると、おじさんはそのまま俺の背後へと視線を巡らせた。
右から左へゆーっくりと。こんどは上から下へゆーっくりと。そしてまた上の方へゆーっくりと。
「もう、大丈夫じゃでー」
許しがでたので後ろを振り返ってみたものの、そこには何の異変もなく。ただただ見慣れたいつもの住宅地の一角があるだけだった。
おじさんは「若いあんさんがあんなモノを見てしもうたら大変じゃ。ワシみたいなロクデナシになってからではもう手遅れじゃからのー」と、謎の一言を残して歩いていった。
あんなモノって…いったいなんだったんだろう?翼音なんかは聞かなかったけれど、まさかあの時、俺のすぐ後ろに大きくて危険な鳥獣でもいたのだろうか?それともただ担がれただけか?
家に帰ってからもしばらく考えていたのだが答えは出ず、昼食時、妻におじさんの話をしてみた。すると俺の思っていた返しとは全く違う反応が返ってきた。
「白髪混じりの?華奢で丸眼鏡で、大きなホクロから一本毛のはえた人の良さそうなおじさん?そんなおじさん近所にいたっけ?」
そう言われてみるとなるほどと思った。確かにあのおじさんがどこに住んでいるのかも説明出来ないし、何をしている人なのかも分からない。うん、名前も知らない。
てっきり近所のおじさんだと思っていたけれど、それは単なる俺の思い込みだったようだ。はたして俺はついさっきまでどこの誰と話をしていたんだろう?もういい加減、おじさんだったかどうかすらも曖昧になってきた。
あの人があの時、俺の後ろに何を見ていたのかも気になるけれど、それよりももっと先に、薄れゆく記憶の中からおじさんがいったい何者だったのかを探り当てた方がよさそうだ。
もしかして俺は、所謂、白昼夢とかいうやつを見たのだろうか?考えるうちに、もうすっかりあの人の輪郭さえも思い出せなくなってしまった俺だけど、おじさんのあの低くて野太い声は、いまだに俺の耳の奥にこびり付いている。
「いま振り向いたら、あんさんは終わりだでー」
万が一にもあの時、本当に俺の後ろに危険な何かがいて、知らないうちに危ないところを救ってくれていたんなら、ここは素直に一言お礼を言っておくべきだろう。あれから二時間はたつけれど、まだおじさんは表にいるのだろうか。
カーテンを少し開けて、さっきおじさんと話していた通りに目をやると、薄い桃色のワンピースを一枚だけ纏った白髪のおじさんが、髪を振り乱しながら、道路の真ん中でキレッキレのロボットダンスを披露していた。
満面の笑顔が気持ち悪い。近くを通る子供たちが泣いている。屋根を見やれば普段は穏やかな猫たちも毛を逆立てて威嚇している。
そして俺の視線に気づいたおじさんは、突如、エアー階段から、RYUSEIのランニングマンに切り替えて、そのピンと伸ばした指先を俺の方に向けてきた。
「こっち見んな!」
もはやこれが事件になるのも時間の問題だろう。一刻の猶予も許されない。
俺はカーテンを閉めて、台所で洗い物をする妻に叫んだ。
「おい!通報、通報!!」
了
作者ロビンⓂ︎
ひ、人怖です…ひ…