由真は、駅のトイレで入念に手を洗っていた。
あのじっとりとした、脂ぎった手の感触がまだ残っているようで、気持ちが悪かったのだ。
由真は、あるテレビ局の記者として働いていた。
大物官僚から、何とか有益な記事になりそうな話を聞きだしたい気持ちから、不本意ながらも、その官僚に名刺を渡したところから、それは始まった。
由真は、その官僚から気に入られてしまったのだ。ことあるごとに、呼び出され、さも今問題視されている首相に対しての忖度についてあったかなかったかについて話すふりをしながらも、セクハラを受けるというのが常になっていた。
セクハラについて、上司に相談しても、記事を取りたければ、それくらい我慢しろと言われるのがオチである。
今日は、本当にひどかった。いつもなら、セクハラ発言を繰り返すだけのその官僚は、お酒が入って大胆になったのか、手を握ってきたり、頬にキスをするといった行為に及んだ。
本来ならそのキスされた顔も洗いたかった。まさに、スカートの中に手を入れられそうになった時、とうとう我慢できずに、由真はその店を飛び出したのだ。
千鳥足で、その官僚は追ってきたが、シラフの若い女にはとうてい追いつけるはずもない。由真は泣きながら、店から持ち出したおしぼりで、顔や太ももを拭いた。
「何で私が、こんな目に・・・。」
鏡を見れば、頬はやつれ、髪は走って逃げた所為か、ぼさぼさに乱れていた。
こんなことをされるために、私は記者になったのではない。憧れて就いた職が、今私を疲弊させている。こんなはずじゃなかった。由真は、理想と現実のギャップに心底疲れていた。
何とか、最終電車に乗ることができた由真は、電車の座席に座ると、すぐに深い眠りについてしまった。しばらく電車に揺られ、由真は目をさました。
いけない、居眠りしていた。ここはどこだろう?見慣れぬ車窓に、由真は完全に駅を乗り過ごしてしまったことに気づいた。
「おじょうちゃーん、どこまで帰るんだい?」
目の前に、ニタニタと嫌らしい目で自分を見つめる、禿げで太ったオヤジがいつのまにか立ちはだかっていた。これは、まずいことになった。完全な酔っ払いだ。無視していると、さらにオヤジは顔を近づけてきて酒臭い息を吐きかけてきた。
「無視しなくてもいいだろう?なあ、お嬢ちゃん。おじさんとどこか良いところに行こうか?」
オヤジは、そう言うと馴れ馴れしく肩に触れてきた。
「や、やめてください!離して!」
そう叫ぶと、ますます面白そうにそのオヤジは頬を緩めた。
「怒った顔も、かわいいねえ。ねえ、おごるからさ。どこか落ち着けるところで、ね?」
今度は腕を掴まれた。今日はなんて日なんだろう。最悪。誰か、助けて。
由真は周りを見回すが、こんな時間に電車に乗っている人たちも、同様に酔っていて、寝ているか、かかわりたくないために寝ているふりをしている人たちばかりである。
絶望的な気分になったその時だった。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、次の駅で降りていただけますか?」
若い青年の声である。車掌さんだ。助かった!
「なんだ、貴様!せっかくいいところなのに、邪魔するな!」
そのオヤジはその青年に殴り掛かりそうな勢いで飛び掛かった。
ほんの一瞬の出来事だった。そのオヤジの首を片腕で挟み込むと、ぐっとその青年は力をこめた。
グキリと音がした。そのとたん、オヤジの全身から力が抜けて、その場に倒れ伏した。
こちらを向いたオヤジの首は完全におかしな方向にねじ曲がっていたし、泡を吹いて白目を剥き、由真が見ても、その目にはもう生気がないことを見て取れた。
「キャー!」
由真はあまりの異常な光景に叫び声をあげた。
すると、青年は、涼しい顔で去って行き、大きなトランクにキャスターがついた物を引きずって引き返してきた。倒れたオヤジを、軽々と抱え上げ、ごみでも捨てるようにそのトランクに放り込み、去っていった。
「ひ、人殺し!」
青年の背中にそう叫ぶと、青年はくるりと振り返ってこう言い放った。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、お静かに願います。」
「そういう問題じゃないでしょ?酔っ払いだけど、殺すことはないじゃない!」
青年はキョトンとした顔をして、首をかしげた。
「ごみを処分して何が悪いんです?」
由真は言葉を失った。この車掌は壊れている。
「け、警察、誰か、警察呼んで。」
そう騒ぎたてる由真の口を、誰かがふさいだ。
「あんた、バカか。殺されるぞ。」
その誰かが、由真の耳元でささやいた。
「すみませんねえ、うちのバカ娘が騒いで。お騒がせしました。」
その男がそう謝ると、その車掌は何事もなかったかのように、その車両から出て行った。
その様子を見届けると、その年配の男は、ほっと息をつく。
「おじさん、あの車掌さん、人を殺したんですよ?警察に届けなくていいんですか?」
「何を言ってるんだ、あんた。あの男は殺されて当然の行為をしたんだから仕方ないだろう?」
「殺されて当然って・・・。ただの酔っ払いじゃない。」
「でも、あんたは助かっただろう?」
「ええ。でも・・・。」
「あんたは、どこから来たんだい?この国の法律を知らないのか?」
「法律?」
「ああ。暴力追放法案が施行されてもう10年になるってのに。」
「暴力追放法案?」
「そうだよ。暴力は絶対に許されない。それが暴行であったりセクハラ、パワハラであっても。とにかく、人に危害を加えそうな人間は、瞬時に監視カメラでとらえられて、処刑されるんだ。」
「そんなバカな。」
「だから、あんたが酔っ払いに絡まれても、きっとあいつが来て処分してくれるから、皆安心してたんだよ。」
「あの車掌さん?」
「そうだよ。あいつは人間じゃない。人型だ。」
「人型?」
「そう。この国のマザーが産んだ人型だ。死んだ人間のデーターは、この国のマザーにいったん保存されて、感情を持たない人型として、生まれ変わるんだよ。」
由真には何がなんだかわからなかった。このおじさんも頭がおかしいのだろうか。
でも、おじさんは私を助けてくれた。
由真は、とうとう乗り過ごして、終着駅に降り立った。
駅には、誰一人おらず、駅のホームの壁には、大きなアイドルっぽい女の子のポスターが貼ってあり、「セクハラ、ダメ!絶対!」というロゴが大きく描かれていた。
そして、ホームの電光掲示板には、きさらぎ駅の文字が。
「きさらぎ駅?」
聞いたこともないような駅名だ。
仕方なく、由真は、駅のホームから改札口を通って、情報を得るべく、駅の路線図を見ようと、あたりを見回した。ところが、路線図どころか、その駅には時刻表すら見当たらなかった。
「ここは、どこなの?」
由真は泣きそうなか細い声で、一人つぶやいた。
「あんた、まさか、異界から迷い込んだのかい?」
ふいに後ろから声をかけられて、由真は飛び上がるほど驚いた。
先ほど、由真を助けてくれた、あのおじさんだった。
「異界?」
「ああ。俺も、長く生きてるからな。たまに、そういう人間に出会うことがあるのさ。これで、二回目だな。」
「わからないわ。」
「あんた、何か悩みがあるんだろう?」
そう言われ、由真は、今日の出来事を思い出した。
「自分の世界で迷いがある人間が、たまにこうやってこちらの世界に来てしまうことがあるんだよ。」
「私、どうすればいいんですか?」
由真はベンチに腰掛け、思わず涙をこぼした。
「あんたの好きにすればいい。」
由真は、顔をあげると、おじさんは、にっと笑った。
私の好きなように?
「始発を待って、お帰り。」
そう言うとおじさんは、手を振って、駅を後にした。
由真は、半信半疑で始発を待って、電車に乗った。
すると、車窓は見慣れた街の風景をうつしはじめた。
ああ、無事帰ることができたんだ。
その足で、由真は出社し、またその夜に、官僚から呼び出しを受けた。
呼び出されたバーでは、その官僚はもうすでに、出来上がっており、上気した顔でいやらしい目を由真に向けて隣に座るように、席をすすめ、いきなり肩を抱いてきた。
その刹那、由真は、立ち上がり、官僚の頬を打っていた。
「な、何をするんだ!お前は!」
「そっちこそ、何をするんですか!馴れ馴れしい!女だと思って、なめないでくださいね!」
そう吐き捨てると、店を出た。
無論、官僚からは苦情の電話が会社に入り、上司には叱責された。
由真は、バッグからある封筒を取り出すと、その上司の机に叩きつけた。
「本日限りで辞めさせていただきます。」
由真の心は、晴れ晴れとしていた。
ここだけじゃない。
私の生きる世界は、こんな狭い世界じゃないんだ。
由真は、さっそうと会社を後にした。
数日後、テレビではあるニュースが画面を賑わせていた。
由真にセクハラを働いていたあの官僚が、絞首刑に処せられたというニュースだった。
車窓はいつもののどかな街の風景を映しては流れていく。
「よかったのかい?あんたは、これで。」
「いいのよ、おじさん。私、あの世界には、もう未練はないから。」
作者よもつひらさか