「バタンッ」
と、何かが閉まるような音で意識を取り戻すと、古びた扉が視界に入った。
寝起きのように、頭はぼんやりしており、考える気力さえ浮かんでこない。
取り敢えず、辺りを見回してみると、扉の他に、蜘蛛の巣だらけのシャンデリア風の灯り、所々が朽ちている箪笥に本棚、そして私が座っている、元が何色かも分からない絨毯が目に入った。
一目瞭然で、今は人は住めたものじゃない事は分かった。
しかし、何故、私はこんな所にいるのか。
どうやって、来たのか。
肝心な事が、全く分からない。
ぼんやりとしている頭を、どうにかすべく、微かな灯りが漏れる窓へと近づくと、綺麗な満月が漆黒の空に浮かんでいた。
月明かりに照らされた地面は遠く、ここが1階ではない事を教えてくれた。
窓を開けようにも、窓枠などは錆びなどの劣化が激しく、いくら力を入れても開くことはなかった。
窓を開けることは諦めて、部屋の中に視線を戻すと、扉の側に何かが落ちている事に気がついた。
近づいてみると、所々がボロボロになった、赤いショルダーバッグが落ちていた。
手にとって、中を見た瞬間、
「あっ!」
と言う、驚きとも歓声とも取れる声が口から漏れた。
鞄の中に入っていたのは、お清めの塩と水、そして私の名前が彫られたお守りが入っていた。
生まれつき霊感があった私を心配して、母が持たせてくれた鞄だった。
「懐かしい」
と思う反面、鞄が何故ここにあるのかの方が気になった。
記憶が正しければ、この鞄は別の怪異で、私の身代わりに無くなってしまったものであった。
そこで、ふと思う。
今、昔の記憶は思い出すことが出来たのに、ここ最近の記憶のみが思い出せないのは何故か。
考えてみたけれど、その答えすらも分からなかった。
「じっとしてても駄目か」
そう考え、私は思わぬ再開を果たした鞄を持ち、唯一開きそうな扉を開けてみた。
古びたドアノブに手をかけ押すと、
「ギイィ…」
と、軋んだ音と共に、扉は開いた。
何処まで続いているのか、分からない程長い廊下に、部屋の中と同様の、色褪せた絨毯が敷かれていた。
等間隔に設えられた窓からは、月の光が入り、全くの暗闇でないだけ救いであった。
左右に広がる廊下を前に、
「どちらに進めば良いのか」
と、暫く考えた末に、勘で、左側から進む事に決めた。
色褪せてはいても、ふかふかの絨毯の為か、自分の歩く音すらも殆ど聞こえない。
たまに自分の衣服が絨毯に擦れ、
「ヒュッ」
とか、
「スルッ」
みたいな音が聞こえるだけで、殆ど無音に近い。
そうなると、意識が音に集中してしまう。
足を動かす。
「ヒュッ」
と、鳴る。
足を動かす。
「ヒュッ」
「スルスルッ」
と、鳴る。
足を動かす。
「ヒュッ」
「スルスルスルッ」
と、鳴る。
ここで違和感に気づく。
自分の服装を見る限り、足以外、絨毯と接点がないにも関わらず、布を擦り合わせたような音が、重なるように聞こえることに。
足を動かす。
「ヒュッ」
と、擦れる音が鳴る。
続けて後方から、
「スルスルスルスルッ」
と、布を擦り合わせたような音が鳴る。
足を止める。
後方から、
「スルスルスルッ」
と、音が鳴り続ける。
思いきって振り返ると、長い廊下の奥、暗闇の中に、白い人のようなものがいた。
それは、絵本の中に出てくるお姫様が着ているような、綺麗な真っ白のドレスに身を包み、頭から細かな刺繍が施されたヴェールを被っていた。
おしとやかに前に重ねられた両手にも、刺繍入りの手袋を着けており、肘辺りまでが隠れるようになっていた。
昔、母が見せてくれた、結婚式の時に花嫁が着るウエディングドレスに、とても似ている事を思い出す。
ここまでなら、綺麗な純白のドレスに身を包んだ、花嫁らしき人と考えられるが、一目見た瞬間、人ではない事は明白であった。
何故かと言うと、手袋で隠していない腕が、純白のドレスよりも、さらに白く発光するように、輝いていたから。
如何に、色白の人だろうと、あそこまで輝くのは異常だった。
それに、こんな古びた所に、花嫁がいる事もあり得ない。
そんな事を考えている間に、数十メートルあったお互いの距離が、数メートルになった頃。
「スルスルッ」
と、近づいてきていた、花嫁が止まった。
相手の表情ぐらい見える距離のはずなのに、ヴェールの為か、または顔が無いのか、まったく見えなかった。
逃げることも出来ず、近づくこと出来ず、無音の空間で硬直状態が続いていた時。
花嫁に異変が起きた。
花嫁の純白のドレスに、紅い点みたいなものが現れた瞬間、そこを中心に紅がじわじわと、広がり始めた。
ヴェールにも、手袋にも、そして腕にも紅は広がっていった。
純白のドレスに広がる紅を見ていると、先程思い出したくても、思い出せなかった最近の記憶が、じわじわと戻ってきた。
「セラちゃん、幽霊見に行かない?」
その言葉が頭の中に響いた瞬間、1週間程前の記憶が甦った。
それは小学2年生の頃、同じクラスの莉桜(りお)ちゃんに言われた言葉だった。
莉桜ちゃんとは、特別仲が良いという訳でもなく、たまに遊ぶぐらいの間柄だった。
そんな莉桜ちゃんから、地域で少し有名だった、お化け屋敷に行かないかと誘われた。
お化け屋敷と言っても、実際に行った人から幽霊を見たと聞いたことはなかったし、草が鬱蒼と茂る薮の中に、今にも壊れそうな洋館が建っていたのを、誰かが発見し、お化け屋敷と命名しただけであった。
だが、それでも私は断った。
わざわざ、そんな所に行かなくても、幽霊なんてあちこちに居るし、お化け屋敷に幽霊がいるとしても、私が訪ねていく事になんの利益もない。
それに、お化け屋敷や肝試しの類いを、私は嫌っていた。
私が断ると、
「じゃあ、他の子と行く」
と、莉桜ちゃんは直ぐに諦めてくれたから助かった。
「もうこの件に関わることはないだろう」
と思い、私は仲の良かった友達と一緒に帰った。
次の日、学校に着くと、莉桜ちゃんの姿が見当たらない。
やがて、朝礼が始まり、先生が出席を取り始めた。
先生曰く、莉桜ちゃんは体調を崩したらしいとの事だった。
「元気な莉桜ちゃんにしては珍しいな。でも、何日かすれば治るだろう」
と、その時の私は考えていた。
莉桜ちゃんの家は、私の通学路のさらに先に行った所にあり、私の家から10分もしない程度の近さにあった。
なので、先生から莉桜ちゃん宛ての連絡帳を預かることは、ほぼ予感していた。
いつもの通学路を通り、一旦自分の荷物を置いてから、莉桜ちゃんの家に向かう。
たまに遊んでいたので、何処に莉桜ちゃんの家があるのかは、分かっていた。
難なく莉桜ちゃんの家に着き、チャイムを鳴らす。
「はい」
と言う声と共に、扉が開くと、青白い顔をした女性が姿を現した。
一瞬驚き、後ずさってしまったが、面影から莉桜ちゃんのお母さんである事がわかった。
莉桜ちゃんのお母さんは、いつも元気という言葉が当てはまるほど、活発な人で、常に笑顔だった為、この豹変ぶりには大変驚いた。
「大丈夫ですか?」
と、声をかけつつ、連絡帳を渡すと、
「大丈夫…ありがとね」
と、言いながら連絡帳を受け取り、弱々しい感じで扉の奥に消えていった。
「莉桜ちゃんの看病に疲れてるのかな」
と思うことにして、その日私は帰った。
それから3日間、莉桜ちゃんは休み続け、私は連絡帳を届け続けた。
莉桜ちゃんのお母さんも、日に日にやつれていき、3日目には玄関先にも来れないらしく、インターホン越しに声を聞いたぐらいだった。
莉桜ちゃんの具合の様子などを聞いてみたが、詳しい事は教えてくれなかった。
「お大事に」
と、言って帰ろうとした時、
「セラちゃん、莉桜は具合悪くなる前の日に、何処か行くって言ってた?」
と、聞かれた。
私は何も悪いことはしていないのだが、一瞬ドキリとしてしまった。
「えっと…たしかお化け屋敷に行くって言ってました。薮の中にある洋館の。」
「でも、実際に行ったかどうかまでは分からないけど」
と、言うと、少しの間を置いて、
「そう…ありがとね」
と、弱々しい返事が帰って来た。
元気にならない莉桜ちゃんを心配していたせいか、その日、不思議な夢を視た。
燦々と照りつける太陽のもと、広い草原を莉桜ちゃんと二人で走っている。
すると次第に、前方に建物が見えてくる。
今にも壊れそうな洋館が現れ、扉を開けて、莉桜ちゃんが中に入っていく。
「こっちだよ」
と、莉桜ちゃんが扉に半分隠れるように、笑顔で手招きをしている。
勇気を出して、足を踏み出した時、莉桜ちゃんの背後の闇から、紅い手が伸びてきて…
という所で目が覚めた。
その日は、夢の内容ばかりを考えていた。
未だに、元気にならない莉桜ちゃんの事、お化け屋敷と呼ばれる洋館、そして、暗闇から伸びてきた紅い手について。
あの紅い手は何だったのだろうか。
あれが莉桜ちゃんが元気にならない原因なのか。
現実で、お化け屋敷と呼ばれる洋館に行けば、解決出来るのか。
でも、私が行った所で何が出来るのか。
あの紅い手が怪異だとしても、私には解決する術がない。
私に出来ることは、視る事と話す事ぐらいである。
そんな私が行った所で、莉桜ちゃんの二の舞になるだけではないか。
そこまでの考えに至り、私は洋館に関わることは止めた。
「私はまだ巻き込まれていない。今ならまだ引き返せる」
と、思っていた。
でも実際には、この時にはもう私は完全に巻き込まれていた。
その夜ベッドに入った記憶を最後に、私はここにいる。
そして、今に至る。
記憶が全て戻り、再び花嫁に視線を向けると、純白だった花嫁は血のような赤黒い色に変わり、深紅の花嫁となっていた。
ドレスやヴェールの端から、赤黒い雫が落ち、色褪せた絨毯を紅へと染めていく。
前に重ねられた手を解き、花嫁が両腕を広げる。
紅い雫が花嫁の腕を伝い、手の先からポタポタと落ちていく。
「おいで」
地の底を這うような、低い声が響く。
「おいで」
もう一度聞こえた時、私は震える身体を勇気づけて、花嫁に背を向けて走り出した。
暫く走り、後ろを振り返ると、花嫁は動いておらず、両腕を広げたまま立っていた。
それでも油断はできないと、前に向き直り、走り続ける。
長い廊下に私の走る音と、息づかいだけが響いている。
先の見えない廊下の先が、出口だと信じて走り続けた。
しかし、何時からだろう、私の走る音と息づかい以外に、
「ヒュッヒュッ」
という音が紛れ込むようになったのは。
背後から嫌な気配がする。
振り向かなくても、花嫁が追ってきているのは分かった。
だから、前だけを見て無我夢中で走り続ける。
振り返ってしまったら、恐怖で足が止まってしまうだろうから。
しかし、必死に走ってはいるが、花嫁との距離は離れることはなく、寧ろ、先程よりも禍々しい気配が近くなっている。
足の速さには自信があった。
学年内ではトップ3を争うほどであったし、少し先の話をすると、県大会にだって出たことがある。
小学2年生の脚力では、大人に負けてしまう事もあるかもしれないが、花嫁には勝てるだろうと思っていた。
だが、相手が人間ではないという考えを忘れてしまっていた。
「ヒュッヒュッ」
という音が、すぐ側まで近づいてきている。
「捕まる!」
と思った時、脇に抱えていた鞄から何かが転がり落ちた。
「ガチャンッ」
という音で、お清めの水を入れていた瓶が割れたことが分かった。
音に驚き、振り返ると、もう1つ落ち、宙を舞っていたお清めの塩が花嫁に当たるところだった。
猛然と走ってきた花嫁に、お清めの塩が当たると、
「ぎぃっ!」
という悲鳴をあげて、花嫁が苦しみだした。
片方の手で、ヴェールの上から顔を押さえ、もう片方の手は、まだ私を捕まえようとしているのか、虚空を掴みながら、乱暴に振り回していた。
「逃げ切るなら、今しかない」
と思い、前方に視線を戻すと、今まで似たような扉ばかりが続いていたのに、他とは違う少し大きめな扉が1枚ある事に気がついた。
その扉まで走り、ドアノブに手をかけ押し開く。
扉は難なく開き、部屋に入る事が出来た。
そして目に飛び込んできたのは、1階へと続く広い階段と、その先にある出口と思われる、大きな扉。
素早く階段をかけ降りて、持っていた鞄を側に置き、扉を押し開きにかかる。
「ギイィ…」
という軋みをたてながら、扉がゆっくりと開く。
扉が大きすぎるせいなのか、いくら力を入れても開く速度は早くはならなかった。
力を緩めることなく、後ろを振り返ると、階段を花嫁がかけ降りてくるところだった。
乱暴に腕が回される度に、辺りに紅い雫が飛び、深紅色へと染めていく。
「早く!早く開いて!」
焦りばかりが募るが、扉はゆっくりと開き、まだ子供の私でも通ることは出来ない。
周りがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
ゆっくりと開く扉。
階段を降りた花嫁が、私に向かって走ってくる。
辺りを深紅色に染めながら。
血のように紅い手が、私を捕らえようと眼前まで迫った時。
扉を押し開けていた手を、誰かに捕まれた。
「グイッ」
と、強い力で、開いた扉の隙間に身体ごと引っ張られる。
花嫁の手が、私を捕らえられずに、空をきる。
扉の隙間を潜り抜けた瞬間、眩い光が辺りを包み込んだ。
あまりの眩しさに目を瞑る。
瞼の裏に感じる光が、徐々に弱くなってきた頃、目を開けると、見慣れた自分の部屋の天井が見えた。
跳ね起きると、自分のベッドが目に入り、寝ていた事が分かった。
時刻を確認すると、朝の7時過ぎであった。
漂ってくる朝食の香りに、現実に戻ってきたのだと安心し、
「はぁ…」
と、ため息が漏れた。
起こした身体を再びベッドに沈ませる。
早鐘のように打つ心臓が、落ち着くのを待ちながら、
「最悪な夢だった」
と、結論付けて、洋館についても、深紅の花嫁についても、考え関わることを止めた。
翌日、学校に着くと、教室に元気な声が響いていた。
声の主を見なくても、莉桜ちゃんの声である事は明確だった。
私を見つけると、莉桜ちゃんが駆け寄ってきて、心配してくれた事と、連絡帳を届けてくれた事に対してお礼を言われた。
「具合はもう大丈夫なの?」
と聞くと、
「今はもう元気!具合悪くて寝込んでたのは覚えてるんだけど、寝込んでた間の記憶が思い出せないの。なんか、不思議な夢をずっと見ていたような気がするんだけど」
「そっか」
とだけ答え、深くは聞かないようにした。
それから朝礼が始まるまで、他愛のない話をしながら、お互い笑いあっていた。
数年後、詳しい理由は知らないが、洋館は取り壊された。
更地になった土地に、スーパーマーケットが建つと噂が流れ、看板が立てられたりもしたが、延期や中止が相次ぎ、未だに更地のままだという。
作者セラ
長いお話になりました。
こんなに長くする筈ではなかったのに。
8月中に、もう1話ぐらい投稿出来たらなと思っております。
誤字、脱字あるにも関わらず、毎回読んでくれる方、怖ポチをくれる方、目に留めて読んでくれる方、本当にありがとうございます!