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あの夏の日の勇気を私は今でも忘れない

長編8
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あの夏の日の勇気を私は今でも忘れない

恨めしいほどに照りつける太陽。

憎らしほどに真っ青に輝く海。

潮の満ち引きが、裸足の素足に絡みつく。

私は、波の飛沫が混じる透明な海の中に浸かった色白な足を見下ろす。

あと一歩。

あと一歩、前に踏み出す勇気が欲しい。

それがあの日、私を助けてくれた『彼』の…、名も顔も覚えていない『彼』の勇気に報える、最良の方法だと思う。

私は、海が苦手だ。

水の中に入る事すら嫌いだ。

小学生の頃。

海水浴に行った私は、海で溺れかけた。

泳ぎは得意なはずだった。

見渡す限りの水平線は穏やかであり、高波も見えなかった。

それでもなぜ溺れたのか、今もわからない。

私の身体は、海に飲まれたまま波に攫われ、沖まで流された。

もうだめだ。そう思った時。

力強い腕が私の身体を掴んだ。

溺れた私を助けたのは、一人の男性だった。

その男性は、海の中で意識を失いかけていた私を抱え、沿岸まで運んでくれた。

男性は、波を掻き分けて駆けつける両親に私の身体を預ける。

その後、両親の介抱のおかげで、私は一命を取り留めた。

安堵した両親は、私を助けた男性を礼を言おうと浜辺を探した。

しかし、結局その男性の姿は見つからなかった。

慌てる両親の傍で、その男性はいつのまにか姿を消したらしい。

私もその男性の顔は覚えていない。

唯一記憶にあるのは、幼い私の身体を抱き締める、その『彼』の力強い腕だけだ。

『彼』がいなければ、私は確実に死んでいた。

私が助かったのは、名も顔も知らない『彼』のおかげであり、運が良かっただけなのだ。

その出来事があってから、私は海に近付かない。

泳ぐ事も、水着を着る事もなかった。

怖かったのだ。

あの時、私が溺れた理由は、今でもわからない。

けれど、一つだけ気付いた事がある。

海から引き上げられた私の足首に、痣ができていた。

その痣の形はまるで、私の足首をがっちりと掴んでいるような、人の手の形をしているように見えた。

この痣と、私が溺れた事は、

きっと、

たぶん、

おそらく、

関係ないと思う。

夢を見た。

ゆっくりと海を泳ぐ、幼い私。

砂浜では家族が手を振っている。

立ち泳ぎながら私も手を振り返す。

塩辛い海水が私の口元を舐めた。

澄み渡る空。水面の遙か先の水平線。

近所の市民プールとは違う、自然がつくる圧倒的開放感。

海に来て、良かった。

だがその時、

私は突然、海の中に引き摺り込まれた。

唐突に浮力を失い、頭まで海中に浸かる。

顔面を覆う海水が呼吸を遮断する。

私は両手両足を必死に動かして海中から脱出しようとがむしゃらにもがく。

だが片足だけが私の意思を無視して動かない。

いや、動かないのではない。

掴まれているのだ。

何者かが、私の足を捕らえて、海の底に引き込もうとしているのだ。

海中でもがき苦しむ私の視界の先で、海の底の闇の中の小さな瞳が私を見詰めているのが見えた。

…。

…。

ハッ!

自室のベッドで私は眼を覚ます。

夢だ。

あの時の夢だ。

夢だ。夢なんだ。

全身が汗まみれだ。胸元に滴る汗がパジャマを滲ませる。

ふぅ…。

ため息を吐いた私は、部屋の窓を開けて外気を入れる。

月の綺麗な夜だった。

夏に生温い夜風が私の部屋の淀んだ空気を入れ替える。

天気予報によれば、しばらく快晴が続くらしい。

世間は絶好の、海水浴日和である。

トラウマ。

心的外傷。

海は、私にとってのトラウマである。

だが、あれから十年余りが経ち、小学生だった私も、今は立派(?)な社会人となった。

大人になり、社会に揉まれれば、考え方も変わる。

今、私はもう一度、海に行こうと考えている。

恐怖を乗り越えてトラウマを克服したい。

勇気を出して。

だが、トラウマを克服をしようと考えた理由は、そんな情緒的なものではない。

社会人となり、交友関係も広がり、「海が嫌だ」「水が嫌い」などと言ってられなくなった。

水を怖がる私の言動は陰気と捉われ、つまらない女だと認識された。

付き合いの悪さは人間関係に直結する。

お洒落な水着も着たいし、友人とも遊びたい。

彼氏も欲しい。

そんな俗な事を考えていた矢先、私の海嫌いを知らない知り合いから「海水浴に行こう」と誘われた。

…いい機会かも知れない。

私は勇気を出して、友達の誘いに乗る事にした。

友達と一緒に訪れた海水浴場。

そこは奇しくも、過去、私が溺れた海と同じ場所だった。

友達には私の過去の事は話していない。友達に他意はない。

今日、私がこの海水浴場を訪れたのは、ただの偶然である。

だが…。過去を乗り越える場所として、この海はちょうどいいのかも知れない。

この偶然を私は前向きな形で捉える事とした。

浜辺に着いた私は、水着に着替え、ゆっくりと砂浜を踏み締める。

波打ち際の一歩手前。

ここから一歩踏み出せば、そこには海水がある。海がある。

私は喉をごくりと鳴らして、唾を飲み込み。

さぁ。一歩を踏み出せ。

勇気を出せ。

成長しろ。

私は、自分の足元に目を向ける。

大丈夫。

もう、足首の痣は消えている。

ヒヤリとした海水の冷たさが、私の足を包んだ。

波が私の腰を濡らす。

…気付いた時には、私は胸元まで海に浸かっていた。

ゆっくりと海を泳ぐ私。

砂浜では友人が手を振っている。

立ち泳ぎながら私も手を振り返す。

塩辛い海水が私の口元を舐めた。

澄み渡る空。水面の遙か先の水平線。

海に来なければ味わえない、自然がつくる圧倒的開放感。

海に来て、良かった。

本当に、良かった。

これでやっと、私は前に進める。

…あの時の勇気を私は一生涯、忘れない。

一緒に来た仲間達とビーチバレを楽しんだ。

サンオイルを塗って砂浜に寝転び太陽の光を浴びた。

海の中で海水を浴びせ合ってはしゃいだ。

胸元に浮かぶ水滴は、汗か海水か。

ひとしきり海水浴を楽しんだ仲間達は、浜辺で休憩をとりに行った。

けど、私はまだ、海に浸かっていたかった。

私は仲間達から離れ、一人で泳ぐ。

一人で、海の楽しさを、そして、自身のトラウマを克服した喜びを味わっていたかった。

…。

その時である。

…〝助けてくれ〝

声が聞こえた気がした。

助けを求める声だ。

波に身を揺られながら、私は周囲を見渡す。

ふと、沖の向こうに何かが浮き沈みしているのが見えた。

私は目を凝らす。

それは、人だった!

男性がうつ伏せになったまま、流されている!

裸の上半身がぷっかりと海を漂っている。

…どうしよう。人を呼ぼうか…。

だが、浜辺は遠い。目を離した隙に男性の姿を見失ってしまうかもしれない。

その時、男性の腕が動いた。

もがき苦しむように水を掻いている。

溺れているのだ。

助けを求めているのだ。

私の脳裏に、過去、自身が溺れた時の恐怖が浮かぶ。

そして、私は決意した。

助けよう!

海で苦しむ人を放ってはいけない!

『彼』だって、そうした!

そう決めた私は、溺れる男性に向かって泳ぎ出した。

…この時の勇気を、私は決して、絶対に、忘れない。

波を掻き分け、全速で泳いだ。

だが、男性の元にはなかなか辿り着かない。

泳いでも泳いでも、男性の姿は遠い。

なんで! なんで近付かないの!

まるで私が進んだぶんだけ、男性自身が流されているようだった。

助けなきゃ!

助けなきゃ!

でも、でも…。

間に合わないかもしれない。

そんな弱気な予感が頭をかすめる。

その時である。

視界に先で、男性の右腕が水面から這い出て、私に向かって手を伸ばしている姿が見えた。

あの溺れる男性も、私の姿に気付いたのだろう。

助けを求める姿に勇気付けられた私は、決意を新たに、波を掻き分ける腕に力を入れる。

…あの時の勇気を、私は忘れない。

…忘れることなんて、できる筈がない。

声が聞こえた。

『嫌だ嫌だ…

『帰りたい…

『冷たいのは嫌だ…

『一人は嫌だ…

『あの時、見えたんだ…

『小さな足に絡まったアイツらを…

『このまま流されるには嫌だ…

『帰りたい帰りたい…

『食われたくない…

『なんで、こんな…

『助けなきゃ、よかった…

『痛い…

『寒い…

『冷たい…

『帰りたい…

海を掻く私に男の声が聞こえた。

助けを求める声だった。

待って!

行かないで!

私が、あなたを助けるから!

心の中で私は叫ぶ。

その時、不思議なことが起こった。

あれほど近付けなかった彼が、す〜っと私の元に流れてきたのだ。

良かった! これで助かる!

彼の腕が、私に向かって伸びる。

私も手を伸ばす。

二人の手が触れようとした瞬間。

私は、見た。

彼の、顔を。

暗い穴だけになった、彼の両眼を。

その穴の中の闇に潜む、小さな瞳を。

私は息を飲む。

私が触れた瞬間。

彼の腕を抱き寄せた瞬間。

気付いた。思い出した。

…その腕はあの、幼い頃のあの時のこの海での過去の私の記憶の中にある『彼』の力強いあの腕の…、その、

グローブのようにふやけたその腕は肩の根元からズボリと抜け落ちた。

私が伸ばした手はそのまま指先から、『彼』の身体にズブリと埋まる。

目の前の僅か数センチの距離で、『彼』の姿を、私は凝視した。

腐敗ガスで膨張し触れれば崩れる程に腐敗した全身は白く石鹸のように脆く、その、皮膚の剥がれ落ちた腕には藻屑が覆い、肌を食い破るフナムシの群は腐った内臓を餌にして、あの、腐敗の進んだ無残に膨らむ彼の、嫌、顔面の髪は全て抜け落ちて肉の隙間から白い頭蓋骨が覗いている。

腐り落ちた二つの瞳の中で蠢く蟹の群。その幾数個の小さな瞳の塊が、私をじっと見ていた。

言葉を失い、息する事すら忘れ、私は海の中で立ち竦む。

グラリ。

『彼』が、動いた。

長い時間を海水に曝されて半ば腐液と化した『彼』の身体が腰からポキリと折れて、私に向かって倒れ込む。

私は、『彼』を、全身に、浴びた。

ひゅうと息を飲む。

同時に海水を飲み込んでしまう。

腐った『彼』の身体が溶け出した、その海水を。

呆然とする私の腕の上で、一匹の蟹がカサカサと笑っていた。

あれから数年が経った。

私はあの時の勇気を今でも死ぬほど後悔している。

漏らした吐息には腐臭が混じる。

今でも私の指先からは腐った肉の臭いが消えない。

…消えてくれない。

Concrete
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