夏休みは、実家に帰る予定ではなかった。
大学に進学して、すぐに彼女ができて、昨年も一昨年も彼女と過ごしていたが、今年の夏休みになる前に振られてしまった。
元々、地元は田舎で何も無いところだからあまり好きではなかった。
今まで親に何と言われようとも帰郷しなかった息子が、急に帰ってきたので、最初は母親も嬉しそうではあったが、息子の居る生活に慣れてしまったのか、長期にわたって実家に居ると余計な家事が増えると、愚痴を垂れてきた。
こんな扱いを受けるのなら、帰郷せずにバイトでもしていればよかった。しかも、何かと言えば、ブラブラしているんだからと、野暮用を押し付けられた。今日も、その野暮用に駆り出されることになる。
「ねえ、絹代ちゃんと全然連絡が取れなくなったの。アンタ、様子を見に行ってくれない?」
「え?絹代叔母さん?へぇ~、電話魔の叔母さんが連絡をよこしてこないとは珍しいね。」
「そうなのよ。変でしょう?」
絹代叔母さんは、母の妹で、独身。山奥で一人暮らしをしている、ちょっと変わり者の叔母さんだ。一人で暮らしている割には、寂しがり屋で、しょっちゅう母に長電話をしてきていたのだ。
「で?何で俺が見に行かなくちゃならないわけ?」
「だって、アンタ暇そうじゃん。」
悪かったな、暇で。地元で就職している仲間も、さすがに平日は遊びに付き合ってはくれない。
「母さんは、行かないの?」
「嫌よ、あんたの運転の車に乗るなんて。」
「信用無いな、俺。」
「ちょっと仕事もシフト、しばらく変われそうにないし。」
母はいまだに看護師として、働いているので夜勤もある。
俺は、仕方なく、叔母の住む山奥まで車を飛ばした。母親にスピードは出すなと言われたものの、こういう山道は俄然燃える。コーナーを攻めるのは楽しい。
車に乗ると人格が変わってしまうところが、母が俺の運転する車に乗りたがらない理由だ。
山道のドライブを堪能した俺は、叔母の家を訪ねた。
「こんにちは~。」
呼び鈴なんて洒落た物も存在せず、もちろん鍵も掛かっていない。
引き戸をガラガラと開けると、奥の台所から、エプロン姿の叔母が出てきた。
「あらぁ、祐樹君?大きくなっちゃってえ~。いらっしゃーい。よく来たわね。」
なんだ、元気そうじゃないか。以前より、少し老けたが、相変わらず和やかな笑顔で迎えてくれた。
絹代叔母さんは、気の強い母とは正反対の性格で、温和でおっとりしている。
「あら?和代ちゃんは一緒じゃないの?」
「うん、母さんは俺の運転する車には乗りたがらないんだ。」
「まあ、そうなの?」
「叔母さん、母さんが心配してたよ。全然連絡くれないって。」
「あら、ごめんなさいね。最近、家族が増えちゃって。ちょっと忙しくなったから。」
「えっ?家族って?叔母さん、結婚したの?」
母からは、結婚しないのは大の男嫌いだからだと聞いていたので正直驚いた。
「まさかぁ。この年であるわけないじゃない。違うわよ。」
「じゃあ、家族って?」
「あのね、私、毎朝神社までお散歩してるんだけど、その神社でね、この子を拾ったの。」
そう言うと叔母は、外の犬小屋を指した。
ああ、なるほど。犬を飼い始めたのか。確かに、愛犬家は犬を家族と言うよな。
俺は庭にしつらえてある、真新しい木製の犬小屋の中を覗き見た。
「ほら、ポチ、出ておいで。」
叔母さんは手を叩きながら、庭に出ると小屋の前に立った。
だが、中から犬が出てくる様子はない。
「よーしよしよし。いい子だねえ~。」
そう言いながら、叔母は何もない空間を撫で、さもそこに犬がいるかの如くしゃがんで何もない空間を抱きしめた。その光景はかなり異様で、俺は立ちすくんでしまった。
「祐樹君、かわいいでしょ?この子。」
俺は、嬉しそうにまだ何かを可愛がる叔母にそう問いかけられ、言葉を失ったままだった。
「どうしたの?祐樹君。」
「あ、あの、叔母さん・・・。犬ってどこにいるの?」
「何言ってんの。ほら、ここに居るじゃない。祐樹君のこと、気に入ったみたい。すごく尻尾を振ってるわ。」
俺は、思った。叔母さんは壊れてしまったのだと。
こういうのを何ていうんだろう。若年性認知症?
叔母はありもしない犬を懸命に愛で撫でまわしている。
これは大変なことになった。早く、母に報告しなくては。
俺は、早々に引き上げようとすると叔母はもっとゆっくりしていけばいいのにと引き留めたが、一刻も早く母に相談しなくてはならないと、急いで帰宅した。
「絹代ちゃん、どうだった?」
家に帰ると、母に問われた。
「叔母さんは元気だったよ。でも、母さん、叔母さんヤバいよ。」
「え?元気なのにヤバいってどういうことよ。」
俺は、今日の叔母の様子を全て母に話した。
「嘘でしょう?」
母は俄かには信じられないようで、何度もその言葉を口にした。
「とにかく、近いうちに絹代ちゃんに会って、病院に連れていかなくちゃ。」
数日後、父の運転する車で俺と母と三人で叔母の家に向かった。
「あらぁ、お揃いで、どうしちゃったの?」
普段と変わらない様子に、母は一瞬安堵した表情で叔母を見た。
「まぁ、上がってよ。お茶でも出すから。」
俺たちは、叔母にお茶を出してもらいながらも、いつあの話を切り出そうかとタイミングを計りあぐねていた。本当に叔母は壊れているのか。俺は両親から懐疑的な目で見られた。
「あ、そうそう。私にね、新しい家族ができたの。紹介するね。ポチよ。」
叔母は立ち上がると、庭に出て犬小屋の前で、また手を叩く。
「ほら、ポチ、出ておいで。うーん、いい子ちゃんね~。」
そう言いながら、何もない空間を撫でまわす。
ここにきて、初めて叔母の異常に気付いた母が、静かに近づいて行った。
「あのね、絹代ちゃん、ポチなんて、どこに居るの?何もいないよ?」
「やだ、和代ちゃんまで私をからかって。もー親子で、酷いわねえ、ポチ~。こんなに可愛いのに。」
「ねえ、絹代ちゃん、私と一緒に病院に行こう?」
叔母はキョトンとした顔をした。
「え?なんで?私、どこも悪くないわよ?」
母は慣れた様子で、叔母を諭す。
「絹代ちゃんもいい年だからさ、一度人間ドックやっといたほうがいいよ。ほら、ガンなんかも、早期に発見できれば治るらしいから。うちの病院で安く受けられるようにしてあげるから。ね?」
母は機転をきかせた。
「そうねえ。考えておくわ。」
「ダメよ、こういうことは早いほうがいいから。私、予約とっておいてあげる。」
半ば強引に母は、病院へ行くことを決めた。
数日後、検査の結果、叔母は認知症ではないことが判明した。
「認知症じゃなければ、じゃああれは何なの?」
母はわけがわからず、悩んだ。
「あのさ、犬のことなんだけど、叔母さん、なんか神社に散歩に行ったときに拾ったって言ってたんだよね。」
「どういうこと?」
「つまりさ、叔母さん、何かに憑かれちゃったんじゃないかな。」
母の顔色がさっと青くなった。
「どうすればいいんだろう・・・。」
母が俯いていると、父が言った。
「あの犬小屋を処分してしまおう。知り合いにお坊さんがいるから、何とかしてもらおう。」
俺たちは叔母を騙して、母に映画にでも行こうと連れ出してもらった。
叔母は、ポチの世話のことを気にしていたが、俺と父が面倒を見るという事で納得した。
俺と父と坊主の三人で、叔母の家へ向かい、庭の犬小屋の前に立つ。
すると、犬小屋の中から低くうめく声がした。
「うぅぅぅうううううっ」
とても犬の声には聞こえなかった。坊主は一心不乱にお経を唱え始めた。
俺と父は、その犬小屋に塩と清酒を振りかけようと近づいた。
「痛っ!いたたたた!」
父親が何かに弾かれたように、犬小屋から離れた。
「ど、どうした?父さん。」
「何かに、噛まれた!」
そう言いながら、手を押さえていた。
「え、まさか。」
俺がその押さえた手を見ると、確かに噛まれた痕がくっきり残っており、そこから血が滲んでいた。
「と、父さん、これ、犬じゃない。」
その歯形は、明らかに人間のものと思われる歯形だった。
「い、痛い!」
今度は俺のふくらはぎに激痛が走った。
「うぅううううううぅうううっ」
何かが低くうなりながら、ぬるい吐息が首筋にかかった。
「離れて!」
坊主が叫んだ途端、パンっと数珠が弾けた。
痛むふくらはぎを見ると、やはり人間の歯形がついて、血が滲んでいた。
「嘘だろう?」
俺は、今起きていることが信じられず、震える声でつぶやいた。
「これは私の手には負えない。ここはひとまず、退散しましょう。」
俺たちは、逃げるように叔母の家から離れた。
「あれは動物なんかじゃありません。悪意のある霊です。」
坊主の話によると、あの神社は、元々、罪人の処刑場があった場所で、その霊を弔うために建てられたのだそうだ。叔母に憑いていってしまったのは、その罪人の霊なのだろうか。
叔母には、再三、あの犬小屋を処分するように伝えたが、何故ポチにそんな無慈悲なことをするのかと、怒って俺たちとの縁を絶ってしまった。
それから、一か月後、叔母の死を知った。
死後約一か月経っていた。
つまり、俺たちと縁を切ってすぐに死んだということになる。
その死に様も、異常だった。
あちらこちらに、何かに噛まれたあとがあり、それがやはり人間の歯形だったという。
警察の捜査も難航し、結局は何もわからなかった。
警察から聞いた言葉が俺は今も忘れられない。
「でも、時々あるんですよね。こういうの。」
作者よもつひらさか
以前書いた「ポチ」とは、また違うお話です。