今日も失意のうちに、車窓にうつる冴えない男を見つめている。
その冴えない男は、誰あろう、この俺。
ハローワークに通い詰めるも、なかなか良い職はなかった。
そもそも、良い職とは何だろうか?
遣り甲斐のある仕事?
今まで一度足りとも、そんな仕事に就いたことがない。
所詮会社にとって、人は歯車でしかない。
合わない部品は挿げ替えられる。それだけの話だ。
合わない部品は、稼働には問題のない場所に置き換えられる。
今の世の中、そう簡単に人を切ることはできない。だが、朽ち果てさせることはできる。
俺もその一人で、圧力をかけられ続けて、辞めざるを得ない方向に向けられ退職した。
世の中、不公平だ。口ばかりで世渡りの上手い者は出世して行く。
真面目一本のやつが失敗すれば罵倒されるが、普段から上手くコミュニケーションをとってるやつらは、失敗しても、次は気をつけろよ、で済まされる。
そんなことを今更くよくよ考えても仕方がないのだけど。
目の前には、さまざまな年齢の人々が座っていて、皆一様にスマートホンの画面に見入っている。
その中でひとり、中学生が熱心に文庫本を読み耽っていた。
今時の学生にしては珍しいなと思ったくらいで、さして興味もなく、俺は目を閉じた。
少し眠っていたようだ。
寝過ごしたかと腰をあげたが、メロディーとともに自宅最寄りの駅のひとつ前の駅だと気付き安心してまた腰を落ち着けた。ふと目の前を見ると、先ほどまで中学生が座っていた場所に、先ほどまで彼が読み耽っていた文庫本がポツンと置かれていた。
なんだ、あれほど熱心に読み耽っていたのに、忘れたのか。それとも、読み終わって興味を失い、その場に捨てて行ったのか。
俺は、妙にその本が気になり、誰も見ていないのをいいことにその本を自然な素振りで拾った。
駅のホームに降り立つと、俺はその本のページを開いた。
「えっ?」
パラパラっとめくった時点で、その本には何も書かれていないことに気付いた。
でも、確かにあの学生は熱心に読んでいたのだ。何度も何度もページを繰りながら。
本屋で買えば必ずもらえる無機質な紙のカバーがつけられていたので小説か何かだと思っていた。
何も書かれていないわけではなかった。
表紙をめくった1ページ目に何かが記載されているのに気づく。
「これは、あなたの本です。さあ、記念すべき1ページを書きましょう。」
やられたなと思った。これは、ひと昔前に、巷で流行った「自分の本」ってやつか。
それをさも小説を読んでいるかのように、あの小僧は演技していたのだ。
だが、こんなことをして何が面白いのか。自分の手を離れてしまえば、たとえばこれを拾った人間が何を書いたのかなんてわからないじゃないか。
そう思いつつも、俺はなぜかその本をカバンにしまい込んだ。
もうハローワークに通うのも疲れてしまった。
どうせ30半ばで雇ってくれる所なんて肉体労働で薄給な場所しかない。
こんな貧弱な俺に務まるはずがない。
俺は流れるようにアルバイトを転々とする生活を送った。
生活はほぼギリギリだったが、それでも俺は元々の悪癖をやめられなかった。
以前の職場の仲間に誘われて行ったパチンコが忘れられなかった。
いわゆるビギナーズラックというやつで大当たりしてから、ずっぽりハマってしまったのだ。
アルバイト仲間にも借金をして嫌われるから、俺は長く同じ場所では働けなかった。
そして、ついに俺はしてはならない所から借金をする羽目になる。
自業自得と言われれば仕方ない。
闇金の借金取りというのをナメていた。
きっと捕まれば殺されるだろう。
内臓の一個でも売って金を作れなんて、そんなのは大袈裟な話だと思っていた。
それどころか、俺はそれ以上の選択を迫られていたのだ。
死んでも金を返せ。
もう俺はお終いだと思った。
俺は、ホームセンターで包丁を万引きした。
暗鬱とした気分で包丁を忍ばせたカバン一つで電車に揺られている。
カバンの中を確認する。ギラリとむき出しの刃が電車の光に反射して鈍い光を放つ。
もうこれで俺の人生はお終いだ。ろくな人生ではなかった。
職場を追われ、アルバイトを転々とし、終いには闇金から借金をしてヤクザから追われる生活。
気付けばもう初老。車窓には、まだらに禿げた自分の情けない前髪がダラリと貼り付いている自分の姿が映し出されている。
古びたカバンのファスナーを閉めようと今一度カバンに目を落とすと、ふと包丁の横に、あの古びた本があるのを確認した。ああ、あの何も書いていない本か。俺はその本をカバンから取り出すと、自分の座っていた場所に置いた。なるべくすぐに包丁を取り出せるようにしておかなければならない。
席を立ち去ろうとした時に、俺は呼び止められた。
「おじさん、本、忘れてるよ?」
中学生くらいだろうか。少年だ。あの時、熱心に何も無い本を読む演技をしていた少年と同じくらいに見えた。俺は悪戯心が起きた。
「それ、やるよ。もう読んだから。」
ニヤリと笑うと、
「いいの?ありがとう。」
と少年は笑った。
俺は心の中でほくそ笑んだ。
あの時騙された仕返しをした気分になった。
何も書かれてないとも知らずに。
ざまあみろ。
俺はホームに降り立つと、走り出した。
「こんなに面白いのに?」
少年は不気味に笑った。
「お前、本当に本の趣味悪いな。」
悪友は、その本を閉じて返してよこした。
「放っとけよ、お前こそ、趣味悪いじゃん。」
「マジで、こんな敗退的なの、どこがいいんだよ。」
「お前のこそ、最終的に主人公、自殺しちゃうじゃん。趣味わりぃ~。」
「うーん、この話はちょっとハズレだったかもしれん。苛めを受けて、親にも暴力を振るわれて、逆襲する展開を想像してたんだけどなー。」
「でも、この『旅する本』ってすげーよな。」
「ああ、どういうシステムになってるのかわかんないけど、拾ったやつの人生を丸ごと小説にしちゃうんだもんな。」
「そして、必ず自分の手に戻ってくる。」
「人生という旅を経てな。」
「おい、上手いこと言ったとか思ってるだろ。」
「バレた?」
「しかし、あのオヤジ、あの後ホームに走って行って、通り魔事件起こすとは想定外だったな。」
「人生とは小説より奇なりって言うだろ?」
「まあな。おい、あのオバサン、かなり生活に疲れた顔してね?」
「お、ホントだ。」
「カモじゃね?」
「かなり面白い物が読めそうだな。」
「オヤジの物語も読んだことだし。デリートして置いとくか。」
「拾ってくれればいいけどな。じゃ、俺そろそろ元の世界に戻るわ。」
「おう、じゃあな。」
女は悩んでいた。
急に主人の兄が亡くなり、やむなく姑を引き取ることになったのだ。
姑は初めの頃こそは、しおらしく世話をかけてすまないねと言っていたが、だんだん家事にも口を出してくるようになり、ここ最近は孫の顔を見たいとうるさく言うようになったのだ。
孫ができないのは、あなたの所為よと面と向かって言われて悔しかった。
うちだって、悩んで苦しい不妊治療だってやってきたのにそれでもダメだったのだ。
どうしようもないことで責められて、殺してやりたいとすら思ったこともある。
ため息をつきつつ、前を見ると電車の座席には、老若男女いろんな人々がスマホの画面に見入っていた。誰もかれもスマホね。うちなんてスマホすら見る暇もないのに。なんだか自分以外の人間が皆、呑気に暮らしているようで羨ましい。その中で一人だけ、熱心に本を読み耽っている少年が居た。
中学生くらいかしら。さほど興味もなかったので、しばらく車窓をながめていると、いつの間にか、その少年は居なくなっていて、座席には先ほどまで読み耽っていた文庫本が置いてあった。
あれほど熱心に読んでいたのに忘れていったのかしら?
こんなの、忘れ物として届けるまでもないかな。
そう思いつつも、女は気になり、手にとってページを開く。
その1ページ目にはこう書いてあった。
「これは、あなたの本です。さあ、記念すべき1ページを書きましょう。」
なんだ、自分の本じゃない。騙されたわ。
女は自分の降りる駅に近づいたので、そのままその本をバッグにしまった。
作者よもつひらさか