「突然のお手紙、失礼いたします。私、x県〇〇村長の加藤と申すものです。早速ですが、本題に入ります。来月、村の中心ともいえる〇〇神社の建て直しが行われます。普段は奥にしまわれている御神体も表へ現れます。そこで、その過程を取材していただきたい、と思い筆をとった次第です。勝手なお願いというのは重々承知ですが、ぜひ廃れた〇〇村の復興をお手伝いいただけないでしょうか」
このような図々しい手紙が「灯篭」の編集部に届いたのは、丁度ひと月ほど前の七月のことだった。
すぐにその手紙は「灯篭」の中を周り、記者である私の元にも流れ着いた。正直言って、当初の私はこの手紙について否定的だった。
廃れた村を救うも何も、「灯篭」自体も俗にいう人気のない雑誌というやつで話題性があるかわかったものではない。また当然ながら、廃れた村など取材したところで「灯篭」にとってなんの得もない。
しかし退屈という病魔に侵された編集部は、私を〇〇村へ派遣させることにしたというのだ。びっくり、というより呆れたものである。
あいにく私には「灯篭」以外に寄るところがないため、従う他なかった。手紙に記されていた神社の建て直しの日には、私は辺鄙な村へとわざわざ向かわなくてはいけなくなってしまったのだ。
そしてそれが今日である。
汽車に揺られて数時間、バスで数十分、徒歩で数時間。途方もない時間をかけて村の入り口に立った時にはすでに夕方だった。
〇〇村というのは私の予想の何倍にも奇妙な場所に存在していた。移動の不便さについては先述のとおりだが、山の中のさらに森の中にひっそりとある。森といっても杉の木ばかりが伸びている針葉樹林で、それほど派手でもない。
地図に小さく乗っていたからこそ辿り着けたものの、少し間違えれば私は山の中で熊(針葉樹林に生息するかどうかはわからないが)に食われて死んでいただろう。
しかし、驚くほど静かな村である。人どころか猫の子一匹いない。対照的に人家と思われる建物はたくさん並んでいるが、それが荒廃した印象を私に与えた。
どうしていいかわからず立ち止まっていると、向かって正面から一人の老いた男が歩いてきた。そして私の目の前で立ち止まると、微笑みを浮かべてこう言った。
「ようこそ〇〇村へ、記者さん。私、村長の加藤と申します。これからよろしくお願いします」
どうやら、この老人があの手紙の主のようだ。
「こちらこそお願いします」
挨拶に答え、私は頭を下げた。
加藤は目を細め、「どうぞこちらへ」と言うと向きを変えて歩き始める。私は後についていった。
「もしかして、建て直しはもう始まっているのでしょうか?」
茜色の空を見て不安になり、私は歩きながら加藤に尋ねた。片手には取材のための手帳がしっかりと握っている。
「いえ、まだです」
彼は振り返ることすらせずに答える。
「神社の解体が今夜に始まり、明日の朝から新しく組み立てが始まります。そしてその夜に御神体を清め、再び本殿の中に納めます」
二日がかりとは中々に驚いた。その全てを取材をするならば、明後日までは帰れそうにはないな。そんなことを考えながらペンを走らせる。
「とはいえ小さな社ですので、それほど大掛かりなものではないのですが」
加藤はそう言って笑った。
「ところで、ここまで来るのはさぞや大変だったでしょう」
加藤は唐突にそう投げかける。
「ええ、まぁ」
「私もあの手紙を届けるためにかなりの時間をかけましてね。山を降りて近くの町まで……いやはや大変でした」
「ということは、外への連絡手段というのは……」
「はい。全くありません。山奥なものですし、今までは村の中でだけで生活はできていましたから」
翁の言葉には納得ができた。舗装されていない道や、土や木だけで作られた家。山奥で寄り集まって暮らしてきたこの村は、いわば時代の流れに取り残された秘境。
思いの外収穫が多そうだ。私はほくそ笑む。
このように加藤と他愛のない閑談を続けて数分、彼が突然立ち止まった。見れば、目の前には石階段が敷かれている。角度が急な上にかなり遠くまで続いているようだ。石段を境に、鬱蒼とした森が続いていた。
「さて、行きましょうか」
加藤が階段に足をかけ、登っていく。私はそれまで通りに一定の距離をとって彼を追った。
「この階段はどこに続いているのでしょうか」
私は翁に尋ねる。彼はこう答えた。
「社です。記者さんを呼んだ目的とも言える、例の」
「もしかして山頂に?」
「いえ。この山の六合目、といったところでしょうか」
六合目、とはなんとも中途半端な数字である。あの村がどれほどの標高に位置するかはわからないが、翁の声色を伺う限りそれほど登るわけでもなさそうだ。
「なぜ社は村より上に? 村の中心に据えておけば色々と楽でしょう」
私の言葉に加藤は笑う。
「その通りですな。私にも社があのような場所にあることの理由はわからないのです。先祖が作ったものですから」
「そうなのですか。いや、考えてみれば当たり前でした。くだらないことを聞いて申し訳ない」
「いや、何も謝らなくても。明確な理由は知らないというだけでして、私個人の見解といいますか考察のようなものはあります。こんな老いぼれの考えですが、聞いていただけますか?」
「本当ですか。是非」
私は手帳に書き込めることが増えたことに感激していた。階段を登りながら物を書くことは危険なのだろうが、記者として筆を止めるわけにはいかない。
すると加藤は急に石段の一つで立ち止まり、私の方へ首を動かす。そして、こう言った。
「社が上にあるのは、おそらく猿を逃さないようにするためでしょう」
ぞわり、と鳥肌が立つのを感じた。なぜだかはわからない。本能や第六感というものだろうか。得体の知れない恐怖が、私を包んだ。
しかし、それも一瞬だった。加藤の顔を見ると、ニコニコとしているだけで敵意のようなものは全く感じられない。第六感だとか、そういった物に怯えていた私が阿保らしくなった。
それよりも、今は聞くべきことがある。
「その、『猿』というのはどういうことでしょうか?」
加藤は首を前へ戻し、足を進める。
「御神体を見ればわかるでしょう」
この後、石段を登っている間は彼から言葉が発されることはなかった。不思議と気まずさはない。鳥の声がその間を埋めてくれるかのようだった。杉の木しかないとはいえど、鳥くらいはいるものだろう。
森を抜け石段を登りきると、下の村と同じような平地が広がっていた。しかし、村とはかなり様子が違っている。
一つとしては見渡すだけで下より狭いということが分かる。というより、小さな広場くらいの大きさしかない。周りが森に囲まれており、偶然草が生えなかった土地といったようだ。
なにより違いがはっきりとしていたのは、人口の密度である。そこには、人が溢れぬばかりに密集していた。
「驚いたでしょう」
加藤が言う。
「今日は祭りですからね。下の村から皆こちらへ上がってくるのですよ」
「祭り、ですか」
「はい。神社の建て直しの間のうち一日だけ、皆日頃の仕事を忘れて遊ぶのです。とは言っても数年に一度ですし、一部の村民には特別な仕事が与えられています」
よく見れば素朴ながら屋台も並んでいる。祭りというのは間違えがなさそうだ。下の村に人がいなかったのはこれが原因だったのか。
横にいる加藤を見れば、相当な数の村人に囲まれていた。彼は村長だ。狭い村の中では人望を集めているのかもしれない。
驚いたことに、村長を囲む人々は例外なく全て老年だった。祭りで嬉々としている人々を見ても、同じようだ。このように外部と関係を遮断した村だとこうなることは必然だったのかも知れない。
加藤から突如として人が引いていった。一通りの挨拶が済んだようだ。
「では、社に行きましょうか。そろそろ日が暮れます」
「まだ先があるのですね」
「いや、あの石段を登ればほぼほぼ終わったようなものです。少し歩くだけですよ」
加藤と私は足を動かし始める。
人混みをかき分け、そして抜ける。祭囃子がだんだんと小さくなっていった。森に入り細い獣道を進む。加藤はこんな獣道一つでよく迷わないものだ、と私は驚いた。
数分後、木々の隙間から夕暮れが差し込むのが見えた。本当に少ししか歩いていないが目的地に到着したらしい。
完全に開けた場所にでると私と加藤は止まる。そこは広さで言えば畳数枚分しかないような、狭い土地だった。だが、なぜだろう。八月の真夏だというのに肌寒い。
「ほら、見てください。あれが社です」
加藤が指差す方には直方体の箱が鎮座していた。かなりの大きさで成人男性の一人くらいは入りそうなものである。外観としては箱根細工に似ている。私はそのような特徴を手帳に書きなぐる。
しかし、これが神社? 神社というにはあまりにも不自然だ。鳥居もなければ社に屋根もない。どう見てもただの箱だ。社というよりかは祠に近い。
他の側面からも見てみようと思い、裏側に回り込む。そして次の瞬間、私の目を奪ったのは社の裏側ではなかった。
社の裏側の手前、つまり立ち尽くしている加藤から見て社のさらに奥に大きな穴が空いていたのだ。深さは九尺ほどだろうか。
なんのために存在するのかわからず、ただ困惑していたその時だった。
急に耳鳴りがしたかと思うと、穴の中にそれはいた。
それは、黒い人だった。
全身が黒い、闇の色。目も鼻も口を見当たらない。ただ人としての輪郭がそこにある。それは、足を折り曲げ穴の底に座っていた。
それは、顔をゆっくりと上げる。あと少しで、目(があると思われる位置)が合ってしまう。その直前。
耳鳴りが激しくなり、あまりの大きさに目を瞑る。途端、それは止んだ。目を開けると、黒い人影は姿を消していた。
あれは、なんだ? はっきりしているのは、あれは自然界によくいるものではない。もののけや、幽霊の類だろう。
なぜか恐怖は感じない。どちらかというと困惑に近い。あの黒い影からは明確な敵意のようなものを感じなかった。あくまで直感ではあるが、あのような存在にはそれ以外に考察のしようがないだろう。
ぼんやりとしていると、加藤が私の肩を叩いた。
「どうしましたか?」
私はこの質問にどう答えようか少々迷った。どう伝えればいいか、わからなかったのだ。
「いえ、特には。ところでこの穴は?」
私は話を移すことにした。あの黒い影は私の疲れが見せた幻覚、ということにしておこう。
ああ、これですか。加藤が呟く。
「御神体を『作る』時に必要なものです」
私は思わず繰り返す。
「御神体を、『作る』?」
そういう分野に疎い私でも、祀る対象は作るものではないということは理解できる。神道であるならばなおさらだ。
「作る、という話はあまり聞きませんが……。この村は別なのでしょうか?」
加藤は笑う。
「ははは、そうでした。説明するのを忘れていました。『神社』とは言ってはいますが、実はこの社で祀られているのは神道の系列にあるものではないのです」
それを聞いて私は首をひねった。
「といいますと、御神体というのは一体なんなのでしょうか?」
加藤の顔から笑みが消える。
「それを聞きますか」
彼の声は真剣なものだった。私は無言で頷く。記者として聞いておかなければならない、そんな気がした。
加藤はゆっくりと口を開ける。
「あれは、神というより呪物に近いものです」
「呪物? それはどのような––」
私が質問を重ねようとした、そのときだった。祭りの広場の方からこちらへ二人の男が入ってきたのだ。二人とも老人で、白い着物を纏っている。一人は工具を、もう一人は木材を担いでいた。
「建て直しが始まるようですな。さて、この話は一旦区切りましょう」
加藤が言った。上を見れば空はもう紫色に染まっている。話の続きは後々になりそうだ。
白い着物の男たちは何も言わずに社に近づくと、背負っていたものを地面に置く。そしてすぐに工具を持つと、手際よく解体を始めた。彼らが建て直しをする職人だろう。
私と加藤は横でその様子を見ていたのだが、見事なものだった。あっという間に箱型の社がバラバラにされていく。工具と社のぶつかる音が森に響いた。体力を使うようで、白い着物は汗で濡れていた。その熱気に、私まで興奮してしまう。
一時間ほど経っただろうか。すっかり日が暮れ、私の目は暗闇に慣れ始めていた。
カン、と乾いた音を最後に職人たちの手が止まった。社は完全に崩れ、周りにはその残骸が散らばっている。
かつて社があった場所には、白い箱が立っていた。社の中にさらに箱があったのだ。
社も箱型ではあったが、それとはまた違う。一枚の板が組み合わさっただけの単純な直方体。細長く、人が入れるほどの大きさだろう。
まるで、棺桶だ。
職人たちはその箱をゆっくりと地面に倒す。すると、彼らはそのまま帰って行ってしまった。
「さて、我々も帰りましょうか」
加藤が言う。
「そうですね」
私はそう返事をした。箱に背を向けて歩き始めようとした、その時だった。
箱の釘が何本か抜けて、上の板がずれていた。そして、かすかにだが中が見えていたのだ。
方向を変えるその一瞬。それだけしか見ていないのにも関わらず、私の脳にははっきりとその光景が刻み込まれてしまった。
隙間から見えたものは、干からびた腕だった。五本の指がついた、腕から手にかけてのミイラ。茶色く皺だらけのそれは、異様な雰囲気を放ちながら箱の中から覗いている。板が邪魔となって詳細はわからないが、腕はそのまま胴体部へと繋がっているようだった。
明らかに人間の腕。いや、霊長類であることは間違いないがもしかすると猿なのかもしれない。いや、そもそもあれは動物の腕なのか? 茶色い小枝を私が腕だと錯覚しただけでは? 実際、神木の枝を切り取り祀るという話はよく聞く。錯覚とするならば、そもそも板はズレてなどおらず……
動揺から思考が混乱していた。突拍子もない考えが次々に浮かんでくる。今日は何かおかしい。黒い人影や箱の中のミイラ。黒い人影は「幻覚」の一言で済ましてしまったが、思い起こすと色々とおかしい。奇妙な事柄が二つ立て続けに……。もう幻覚では済まされない。
そんな私とは対照的に加藤は呑気なものだった。
「ささ、帰りましょう。今日の祭りもそろそろ終わった頃でしょう。私の家でおもてなしさせていただきます」
「あぁ……ありがとうございます」
私たちはその場から離れた。
加藤の屋敷はなかなかの面積を持っていた。なかなか、と割り切らない表現をつかったのは、本当に「なかなか」としか形容し難かったからである。通常より少し広い、程度のものであった。
しかし、それは本質ではない。彼は私のことをしっかりともてなしてくれた。歓迎されている、と感じることができた。
食事を終えて風呂も入れてもらい、私の思考はかなり安定していた。ミイラについても、社の裏の穴についても加藤に聞けばいい話だ。
屋敷の中央の座敷であぐらをかいていると、障子を開けて外廊下から加藤が入ってきた。彼は私の目の前に正座すると、唐突にこう切り出した。
「お待たせしました。話の続きとしましょう」
私は姿勢を正し、手帳を取り出した。
「お願いします。まずは、御神体……いや例の呪物についてを」
「はい。呪物といいますのは実は猿の干物のことなのです」
「猿の、干物?」
さきほど見た猿のミイラの姿が脳裏を駆ける。
加藤は続ける。
「はい。つまりはミイラですな。ミイラ化した猿を『救う』ことで、その猿の霊力が村を守るということです」
「猿を救う? すいません、よく意味が……」
「記者さんは正直ですね。救うと言いましても、やり方がありまして」
加藤は大きく息をすると、語り始めた。
「まず猿を捕らえて檻の中へと入れまして、それを土の中に埋めます。埋めるというのは少し違いますね。檻をすっぽりと囲うように地中に空洞を作るのです。この作業は男性だけで行います」
「社の裏の穴はそれだったのですね。合点がいきました」
「はい。穴に入れてから数ヶ月後、ミイラとなった猿を女性数人が引き上げます。そしてミイラを箱の中に入れ、御神体として祀るのです。これにより猿の霊は、『女性によって地中から救われた』と思い、村に様々な『恩返し』をするのです」
「それにより村が豊かになる、と」
「はい。ようは自作自演です。
そうは言っても御神体――「神」ではないのですがこう呼ばせていただきます――は強い力を持っていると考えられていますから、その霊力といいますか効能を保つために数年に一度、社を建て直して御神体を清めるわけなのです。
少し残酷かもしれませんが、家族同然の村人たちの幸せには変えられない。昔の村民たちはそう思い、この呪物を作り出したのでしょう。
もっとも、猿程度に『恩返し』という概念があるのかどうかわかりませんから効能もさだかではありません。人間ではどうかわかりませんが」
彼の説明で大体のことは納得がいった。穴のことも、ミイラのことも。だが、一つだけわからないことがある。穴の中に座っていた、黒い人影のことだ。
「加藤さん、実は私はさきほど奇妙なものを見まして。おそらくその呪物に関係のあるものだと思いますので、話した方がいいと思いまして」
「なんですと?」
加藤は体を乗り出す。私も同じように体を浮かせ、お互いの距離が近くなったところで言った。
「その社の奥の穴に、黒い人影が座っていたのです」
「……黒い、人影?」
私は加藤にその状況の全てを説明した。その間、彼は頷くだけだった。
「と、いうわけなのです」
話し終えた私の息は少し弾んでいた。
「うんぅ……」
加藤は首を捻り、おかしなうねり声を上げる。そしてこう一言。
「それは……私にはわかりません」
「えっ、もしかしてあれは私の幻覚だったのでしょうか……?」
私は加藤に因縁をつけたつもりはなかったのだが、彼は少し焦ったようだった。
「いえ、記者さんの見間違えだったというつもりはありません。ただ単に、私の知識不足です。そのような話は今まで聞いたことがないのです」
「そうですか……」
残念ではあるが、仕方ない。ミイラのことについての疑問も解けたことだし、あの黒い人影は「幻覚」としてもう一度、胸にしまおう。
そして沈黙が二人を包む。
耐えきればくなったのか加藤は空笑いを上げた。
「ははは……。記者さん、取材に使う話は十分揃いましたか?」
「はい。加藤さんのお話のおかげでいい記事が書けそうです」
「それはよかった。では、明日は早いのでそろそろ寝室へご案内します」
そういえば明日は肝心の立て直しと御神体のお清めがあった。壁にかかった時計(加藤宅にはいくつか時計があるのだが、どれも古い)を見ると針は午後十二時を指している。
さて、寝室に向かうとしよう。その前に「いえいえ。寝室なんてそんな。適当なところで」と一応は遠慮する格好をとるが、結局は客用の広い部屋で寝ることになった。
部屋に入るとすでに布団が敷かれていた。加藤には明日、改めて礼を言わなければならない。
灯りを消し、布団に潜り込む。疲れが抜けていくようだ。瞼を閉じると、数分もしないうちに眠気に襲われる。
今日は色々とあった。薄れゆく意識の中で体験した出来事が浮き沈みを繰り替えす。
あのミイラ、御神体は猿だったか。箱の中の乾いた腕の記憶が、瞼の裏に映る。
猿といえば、ニホンザルだろうなぁ。
混濁した思考が唐突にそんなことを連想した。
いや、まてよ……。ニホンザルは広葉樹林にしか生息しないはずだ……。どこかでそんな話を聞いた気がする。
だとしたらおかしいぞ。ここ一帯の森は杉の木しか生えていない。つまりは針葉樹林だ。
ならあのミイラは一体、「何」なのだろう?
そこまで考えたところで、私の意識は完全に途切れた。
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突然、目が覚めた。何の理由もない。便所かとも思ったがそのような気配もない。他人の家で寝ているから緊張によって起きてしまったのだろうか。いや、熟睡だった。体の疲れも取れている。
原因はわからないが覚めてしまったからにはどうしようもない。私は上半身を起こす。
周りはまだ暗い。月明かりだけが障子の向こうから透けている。虫も鳴いていないのだから夜中なのだろう。
当たり前だが特にすることもない。目を閉じていればその内寝ているだろう。
そう思い横になったその時だった。体が動かせないことに気がついたのだ。
まるで凍らされてしまっているかのように、私の肉体は固まっていた。金縛りというのだろう。正直パニックになっていたが、どうすることもできない。
そのうち眼球だけは動かせることに気がついた。感情のはけ口にするように、私は眼球を滅茶苦茶に動かす。
暗い部屋の中を私の角膜は写し続けた。それも、ある時止まった。
私は見つけてしまったのだ。部屋の隅で立つ、黒い人影を。
顔のない黒い人。暗闇の中溶け込むはずの黒を、なぜか私ははっきりと認識することができた。
穴の中の「奴」だ。私は一目で悟る。あれは、幻覚ではなかったのだ。
恐怖がじわじわと私の心を喰らう。叫び声を上げたいが、金縛りのせいでそれも叶わない。
黒い人影が体を揺らす。こちらへ歩いてきているのだ。
心臓の鼓動がうるさい。ゆっくりとだが奴は確実に私に近づいている。
横たわる私のちょうど前で、奴は歩みを止めた。奴はこれまたゆっくりと膝を曲げ、私の顔を覗き込む。
のっぺらぼう。奴の顔を形容するにはこれが一番いいのだろう。
「ぉおぉぉお」
突然、そんな呻き声がどこかから上がった。
「いおぉえぉあ」
それは続く。その声が目の前の奴から発せられていることに気がつくのに、それほど時間はかからなかった。
「いぃぉぇおぉお」
何度も繰り返すうちに、獣の出すようだった奴の声が段々と言葉としての輪郭をなしていく。
「いぃええお」「いぃえお」「いえお」
そして、ついに奴は言った。
「にげろ」
この後、奴が声を出すことはなかった。
奴は右手を私の目の上にかぶせる。乾いた感触だった。
まるで、ミイラのように。
そして私は暗闇の中に潜った。
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差し込む日の光で目が覚めた。
「もう朝か」
ありきたりな台詞を言ってみる。日の光だけでは朝か昼か見当がつかぬものだが、夏にしては涼しげな風が吹いているので朝だろう。
布団から出てすぐに、私は昨夜のことを思い出した。あの黒い人影と、その言葉について。
……気味が悪い。
それについて深く考えることもなく、朝支度を済ませて部屋を出た。できればあの人影については考えたくはない。私は怪談話の類が苦手なのだ。
居間に入ると、加藤とその召使いが食卓についていた。
「お疲れだったようですね。よう寝てらっしゃった」
加藤が私に微笑みかける。少し寝坊してしまったようだ。
「遅くなってすいません」
「いえいえ。ささ、どうぞお召し上がりください」
「ありがとうございます」
私は床に座った。
朝食をすませると、私と加藤はすぐに出発することにした。加藤は建て直しの監督のため、私はその取材のためだ。
「記者さん、社へは昨日と同じ道順で向かいます。階段が多くて大変でしょうが……」
「いえいえ。これでも足腰には自信があります」
「それは良かった」
そんな会話をしながら加藤の家から外に出た。
と、同時に違和感を覚える。
人影が異様に少ないのだ。
ついさっきに時計を見たとき、針は九時頃をさしていた。村民たちは起きて仕事をしてもおかしくはない。
祭りは昨日終わったというし、これほどまでに静かだという理由が見当たらない。
私は歩きながら加藤に尋ねた。
「人影が少ないように見えますが、何かあったのでしょうか?」
「いや、おそらく寝ているのでしょう。老人の朝は遅いので」
加藤は素っ気なく答える。何かを隠すかのように。
老人の朝が遅い、という話はあまり聞いたことがない。いや、もちろん朝が苦手な人は老人にももちろんいるだろう。しかし、村民全員がそのような人種とはとても考えられなかった。
私は納得できない心を抱えながら黙々と歩き続け、そして例の石段まで進んだ。
森に入り社への階段を登り始めると、ここでもう一つ奇妙な思いをすることになる。
周りに「何か」いるという気配を、はっきりと感じる。いや、「何かたち」だ。おそらく複数いる。
気配といっても霊感や第六感といった曖昧なものではない。何かが私と加藤の歩幅に合わせて、ついてきている音がするのだ。小枝を踏む音、葉に肌が擦れる音……。昨日の静かだった森とは明らかに違う。
騒いではいけないような気がした。声を殺し、できる限り早足で階段を上る。
村の静かさに、森の騒がしさ。私の中で、ある考えが浮かんで行く。……これがただの考えすぎたということを信じたい。
石段が途切れ、昨日の広場のような場所に着く。途端、後ろからついてきていた「奴ら」はその場で止まった……ように私には聞こえた。加藤と私はそのまま社へと向かった。
木々の間の狭い道を歩いている間、社の方から木材を打ち付ける音が聞こえていた。建て直しはもう始まっているようだ。自然と足が早くなる。
森を抜け社のある拓けた場所に出ると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
中央では二人の職人が木々を金槌で組み合わせている。建て直しをしているのだ。それは何も不自然ではない。問題なのはその手前側に転がっている、大きな「それ」だ。
全体が茶色く、干からびた「それ」……そう、ミイラ。懸命に働く職人をよそに、私の注目は全てそちらに向いてしまっていた。眼球の部分が窪み、口は叫び声を上げるかのように大きく開いている。
「これが……猿?」
思わずそんな言葉が漏れる。
ミイラは大きかった。少なくとも、一般的なニホンザルよりは確実に。いや、これはむしろこれは……
人だ。
加藤が私の顔を覗く。
「どうしましたか?」
「いや、これ。これ、『御神体』ですよね。どうしてこんな、乱雑に……」
「なぜって……」
加藤はそこで言葉を区切る。そして、笑みを……いや不気味な笑いを浮かべてこう言った。
「もういらないのです。新しいのを作り、それを清めなければなりません」
全身の毛が逆立つ。私の疑惑は確信へと変わった。
つまりそれは、私はミイラにされてしまうということだ。
「逃げろ」
唐突にあの黒い人影の声が聞こえたかと思うと、私は石段の方へ走り出していた。
「待ちなされ」
後ろから加藤が追ってくる。
大丈夫だ。老人一人なら振り切れる。
石段を下ろうとした時だった。石段の横の森から数人の老人が飛び出してきたのだ。全員、手には大きな棍棒を携えている。奴らは私の前へ立ち、逃げ道を塞いだ。
後ろへ引き返そうと振り返ると、そこには加藤が立っていた。
「気づいてしまいましたか、記者さん」
加藤の笑いが山に響いた。
「逃げようにも無理ですよ。ここは『猿』を捕まえるためにできた場所。諦めなさい」
いや違いますね、と加藤は訂正する。
「『ぜひ廃れた〇〇村の復興をお手伝いいただけないでしょうか』」
加藤の表情は、私がこれまで見たもののどれよりも醜悪だった。まるで悪夢の結晶のような。
私は絶望する。最初から、彼らは私に『御神体として』村を守らせるつもりだったのだ。
『もっとも、猿程度に『恩返し』という概念があるのかどうかわかりませんから効能もさだかではありませんが。人間ではどうかわかりませんが』
今更になってから、加藤の言葉が思い出される。ただの結果論でしかないが、あの時に気がついていればよかった。
「あぁぁいぁ」
本当に突然だった。聞き覚えのある呻き声が、森から聞こえてきたのだ。
反射的にそちらを見ると、そこには私の腕をしっかりと掴んだ例の黒い人影の姿があった。恐怖は全くなく、なぜか安心感さえ感じた。
次の瞬間、私は石段から外れ山の傾斜を転がっていた。『黒い人影』が私の腕を引っ張ったのだ。
低いとはいえ山だ。私の体は落下速度を増していく。
転がっているうちに耳元で大きな音がしたかと思うと、目の前が暗くなっていった。岩にでもぶつかったのだろう。
遠くで、加藤や村民たちの声が聞こえた。そうとう、焦っているらしい。
もしかしたら、助かるかもしれない。希望が持てる。
そこでぷっつりと、私の意識は途絶えた。
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左腕に激痛を感じ、私は飛び起きた。痛みは続いており、見てみると不自然な方向に曲がってしまっている。転がっているうちに折れてしまったらしい。
立ち上がってみると体のあちこちが傷だらけだということに気がついた。山から落ちたのだからこれくらいは仕方ないのかもしれない。生きていられただけでも奇跡だ。
どうやら私はあの石段の場所から山の一番下まで降りてきたらしい。山のすぐそばの、見知らぬ道路(人為的に加工されている)で寝転がっていた。
空は茜色に染まっており、長時間気絶していたようだ。ということは、例の村人たちが私を探しているのは確実。もしかしたらすぐ近くまできているかもしれない。
「そこらへんにいないかぁ?」
予感は的中したようだ。山の方から、村民と思われるそんな声が聞こえてきた。
逃げなければ、と体を引きずる。と、その時。
山の中の傾斜に、黒い人影が立っていたのを私は見た。木に捕まり体制をとりながら、私の方をじっと眺めているようだ。
数秒後、彼の黒い体に段々と色がついていく。私の視線は吸い寄せられるかのように、彼に向かう。
彼の皮膚は薄橙に染まり、着物のような服の色彩も現れる。
完全に色の変化が終わった頃には、彼は立派な一人の男となっていた。頭には菅笹、体には着物をまとい、まるで江戸の旅人のような格好であった。
「こっちで物音がしたぞぉ」
村人たちの声は、なおも森の中でこだましている。
黒い人影だった彼は、村民たちの声がする方へと走っていく。彼の背中からは何か優しさのようなものを感じることができた。
彼の姿が完全に見えなくなると、私は歩きだす。道路沿いに進めば、列車でもなんでもそのうち見つかるだろう。
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結論から言うと、私は無事に帰ることができた。血だらけで這っているところを偉大なる日本警察に保護されたのだ。数日間病院で退屈な時間を過ごすことになったが、それほど大事にもならなかった。
この体験を記事にして出したところ、中々に反響を呼んだ。その影響もあってか、「灯篭」はオカルト系の雑誌、いわゆる怪奇雑誌というものに変化。ちなみに、私の記事は誰にも本当のことだと信じてもらえず、私の職業は「記者」から「小説家」へと進化を遂げる。
そんなことがあった後、あの村について調べてみた。ミイラ作りなどの風習の詳しいことは謎のままだったが、あそこはよく旅人が通る道の途中の村だと言うことがわかった。
ここからは私の推測でしかないのだが……。彼、あの黒い人影はあの村で呪物にされた被害者の一人なのではないだろうか。
あの村では村全体が家族のようなものだったのだから、村人からミイラを作るとは考えにくい。とすると、旅人から作られるというのは当たり前の話だろう。
そして、ここからは私の願望でしかないのだが……。彼は自分のような被害者を増やさないように、私を助けてくれたのではないだろうか?
推測と願望によってなりたった理論であるから、確証はない。だけれど、当分は私はこの考えを信じるとしよう。
その方が小説家らしく、感動的だ。
作者山サン
ここに投稿するのも久しぶりです。昔自分が投稿したものをみると、文章が稚拙で思わず笑いそうになってしまいました。
と、自らの文章力が向上したかのような傲慢なことを言っていますね。はい。精進します。