自転車を走らせる私の背中は、スピードを出して漕ぐことによって発する熱に反してどんどん冷たくなって行く。
まさか、こんなことになるなんて、思いもしなかった。冷たく硬くどんどん私の背中にのしかかってくるそれは、かつての温もりを忘れた。
「あんれ、相変わらず仲がいいねえ。美香ちゃんと千夏ちゃんはぁ。」
近所のおばあちゃんに声を掛けられた時には、心臓が跳ねあがった。大丈夫、バレてはないはず。おばあちゃんは耳も遠いけど、目も悪いのだ。私は愛想笑いを残し、自転車を真紀ちゃんの家まで走らせた。
急がなければいけない。さもなくば・・・。
ことの始まりは、千夏が私に着いてくると言って聞かなかったことからだった。うちは物心ついたころから父親はおらず、いわゆる母子家庭だった。母は昼夜働き、必然的に私と5つ年が離れている妹の世話は、私の肩にかかってくる。私もまだ小学6年生であり、友達と遊びたい盛りである。遊びに誘われても、必ず妹の千夏がついてくるから、私は自然と誘われなくなってしまった。
ところが久しぶりに友達から山に遊びに行こうと誘われた。田舎なので、たいした娯楽もなく、遊びといえば、公園に行くか山に行くかくらいの選択しかない。黙って家を出ようと思った。千夏が起きてくる前に。ちゃんとご飯の支度と置手紙をしておけば、もう小学生なんだから、一人でお留守番くらいできるよ。真紀ちゃんにそう言われて、それもそうだなと思った。
山に行くともなれば、千夏はまだ小学一年生なので、疲れただの駄々をこねられては、折角の友達とのハイキングも台無しになるだろう。そっと玄関に足音を忍ばせて靴を履こうとしたら、千夏が自分の部屋のドアを開けて起きて来た。ああ、なんてタイミングが悪い。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
「どこだっていいでしょ?ご飯用意してあるから、食べてお留守番してて。」
「ヤダ!ちなも行く!」
「ダメだよ。山に行くから。ちなは危ないから家に居なさい。」
「危なくなんかないよ。ちな平気だもん。」
「だって、あんたすぐ疲れたとか言ってべそかくじゃん!」
「かかない!ちなも行く!いくいくいく~!」
千夏が地団太を踏み始めた。こうなった千夏はもう何を言っても聞かないことはわかっていた。
私は、仕方なく、千夏を自転車の後ろに乗せた。
「ごめん、着いて行くって聞かなくて。」
私は自転車を山のふもとの駐輪場に置くと、真紀ちゃんに謝った。
「まあ、いいじゃん。ちなちゃん、可愛いし。ね、ちなちゃんも一緒にいこ!」
真紀ちゃんは内心困ってるだろうな。でも、小さな子に無下にするわけにもいかないから、仕方なく言ってくれているのだろう。私は、そう思うと肩身が狭かった。
案の定千夏は、山道の途中から疲れただの喉が渇いただのうるさかった。だから連れて来たくなかったんだ。わがままばっかり。なんでまだ小学生なのに妹の面倒を押し付けられているのか。お母さんはずるい。私だってまだ子供だよ。遊びたいときだってあるのに。私たちは仕方なく小さな祠のある石段に腰かけて休憩することにした。
「わぁ、この人形、へんなのぉ~。」
千夏が何か騒いでいる。祠の格子戸を開けて中に祀ってあるご神体のようなものをペタペタ触っているのだ。
「こら、ダメ!ちな!そんなことしたら罰が当たるよ?」
私が注意してもちっとも言う事を聞かない。そこで真紀ちゃんが機転を利かせた。
「ねえ、ちなちゃん、そんな物より、もっと面白い物が上にあるよぉ?そんなの放っておいて、早く上に行こうよ。」
「えー、面白いもの?なあにぃ?」
「着いてからのお楽しみだよ。」
「うん、じゃあ行こう。」
千夏はもうすでに、その祠には興味を失っていた。こういうところは真紀ちゃんは小さい子供の扱いが上手いなと感心する。
ずんずんと先ほどとは打って変わったように山道を進む千夏の後から私たちは歩き始めた。
「マズイね、美香ちゃん、さっきのあれ、お白さまだよ。」
「えっ?おしらさま?」
聞いたことはあるが、実際にはお白さまが何かはわからなかった。ただ、ご神体であるくらいしか知識はなかった。
「罰が当たらないといいけど。」
私は千夏を戒めるためだけに、バチという言葉を使ったけど、まさか真紀ちゃんが真剣にそれを信じているなんて思わなかった。ところが、それがまさか現実のものになるとは思わなかった。
私たちの先をずんずん元気に進んでいた千夏がふっと姿を消した。私たちは異変に気付いてすぐに駆け寄った。時はすでに遅く、千夏は山道から足を滑らせて小さな小川の流れる谷底に滑り落ちていた。
「た、大変!」
私たちは慌てながらも滑る足場を踏ん張りながら、谷底に降りて行った。千夏の変わり果てた姿を見て私たちは言葉を失った。どう見ても首はおかしなほうに曲がり、足も手も無茶苦茶な方向に曲がり、小学生の私達が見ても即死であることはわかった。
「息をしていない。」
真紀ちゃんがボソリと言うと、私は冷静ではいられなくなった。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!早く、誰かに知らせなくちゃ。救急車!」
私がそう泣き叫ぶと、真紀ちゃんは冷静に答えた。
「無駄だよ。美香ちゃんだって、どう見ても千夏ちゃんが死んでるってわかるでしょう?」
私はどうすることもできなくてワンワン泣き続けた。
「美香ちゃん、泣かないで。うちのお祖母ちゃんならなんとかできるかもしれないから。」
「そんなのできるわけないよ。千夏はもう死んでるんだよ?」
「実はうちにあれと同じものがあるんだよ。」
「あれって?」
「さっき見た祠の中にあったでしょう?お白さま。」
「お白さま?」
「うん、うちのお祖母ちゃんならなんとかできるかもしれない。」
私たちは二人で千夏を抱えて小川をくだり、なんとか山のふもとの駐輪場までたどりついた。真紀ちゃんは自転車に乗った私の後ろに千夏を乗せて、私の腰のあたりで千夏が羽織っていたパーカの袖を伸ばすと結び付けた。首は千夏の長い髪の毛が役に立ち、私の胸のあたりで一結びすると何とか固定された。遠目に見ればただの自転車に二人乗りした姉妹に見える。私たちは自転車を一心不乱に漕いだ。
真紀ちゃんも私の後ろから一緒に自転車を漕いで千夏が落ちないように見張った。そしてなんとか真紀ちゃんの家に着いた。真紀ちゃんのお祖母ちゃんは生まれつき目が見えなく、この界隈では有名なイタコさんだ。私たちが帰ってお祖母ちゃんの部屋を覗くとすでに、正座して待っていた。
「困ったことになったようだね。」
お祖母ちゃんはすでに悟っていたようで、真紀ちゃんと私はお祖母ちゃんの部屋に、千夏を運び込んだ。
「真紀、あれを取っておくれ。」
そう言うと、真紀ちゃんは黙って神棚から何かを下ろした。
それは小さな30㎝くらいの木彫りの人形で、一体は馬の形、もう一体はどうやら女の人の顔が掘ってあり、その木彫りの人形にはまるで十二単のようにいくつもの布が着せてある。色とりどりのその布には何か文字が書いてあるが、私にはまったく読めなかった。すると、お祖母ちゃんはその二体の木彫りの人形を両手に持つと、一心不乱に何か呪文を唱え始めた。全身全霊とはこのことを言うのか。とにかくお祖母ちゃんは狂ったように何事か叫び、体を揺らし、まるで何かに取り憑かれているように見えた。
「おしらさま、おしらさま。どうかこの子の体にお宿りください。この哀れな子供を助けてください。」
時々、私達にもわかるような言葉で叫び、これはよみがえりの儀式なのだということがわかった。でも、一度死んだ人間をよみがえらせるなんて無理だろう。どうして私はすぐに千夏を病院に連れて行かなかったのだろう。もしかしたら、千夏はまだ息があったかもしれないのに。そんなことを考えていると、私のとなりで何かがむくりと起き上がった。
「千夏?」
私は今見たものが信じられなかった。あれだけ体がバキバキに壊れていた千夏が何事もなかったかのように起き上がってこちらをきょとんと見ていたのだ。
「ちな、ちな!良かった!生きてる!」
私は千夏に抱きついた。本当に千夏が生き返ったのだ。
「どうしたの?お姉ちゃん。」
わがままだっていい。姉が妹の面倒見るのなんて当たり前だ。私の方こそわがままだった。千夏のいない人生なんて考えられない。
「良かったね、美香ちゃん。」
真紀ちゃんが私の肩を撫でた。
「ありがとう、ありがとう、真紀ちゃん、お祖母ちゃん。」
お祖母ちゃんは先ほどまであれほど猛り狂っていたのに、憑き物が落ちたように落ち着いて微笑んでいた。
「でもね、美香ちゃん。それ、ちなちゃんじゃないから。」
「えっ?」
真紀ちゃんは不気味に微笑んでいた。
どこからどう見ても、これは千夏だ。先ほども私のことをお姉ちゃんと言ったではないか。
その日から私は、人が変わったように千夏を大切に面倒を見て来た。そして、あの日真紀ちゃんから手渡されたお白さまを大切に祀り毎日拝み続けた。怠ったり粗末にしたら祟りがあると言うので、私はずっとお白さまを大切にしてきたのだ。
そんなある日、神棚からお白さまが消えていた。高校二年の冬のことである。
「お母さん、お白様、知らない?」
「ああ、あの気味の悪い木彫りの人形?捨てたわよ。」
私はそれを聞いて、顔面が蒼白になった。
「なんで捨てたの!大切なものなのに!」
「だって、汚かったんだもの。」
なんて恐ろしいこと。
私は、すぐに二階の千夏の部屋に駆け込んだ。
「千夏!」
ドアを開けると、そこには巨大な何かが羽を広げていた。
「えっ?」
その姿は巨大な真っ白な成虫になった蚕であった。
「う、そ・・・。」
その白い羽は、柔らかく私を包むと一瞬大きな複眼が微笑んだ気がした。
そして、真ん中にくるりととぐろを巻いた細い口が伸びたかと思うと、私の喉元を貫いた。私の口からはごぼごぼと鮮血が溢れた。
私が倒れこむと、その白い蚕は、部屋をふわりと飛んで階下へと向かった。
ダメ、ちな。お母さんを食べちゃダメ。
階下で空しく母の叫び声が響いた。
作者よもつひらさか