どうしてこうなった…
暗闇の中、俺は何度もそう考えていたがまったくわからない。ただ一つ分かっていることは、簡単なことだと高を括っていた俺が馬鹿だったってこと。今は考えるしかない。考えていないと恐怖に引きずり込まれそうで、ああでもない、こうでもないと思考を巡らせて何とか叫び出したくなるのを必死で抑え込む。
遠くで発狂しているのは多分あいつだろう。ここからどうする? 少しずつ冷静さを取り戻す俺は、考える振りもそろそろ飽きて来ていた。
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凍てつくような早朝、制服のブレザーに軍手を二枚重ねして自転車に乗る。ついでに言うと背中にホッカイロを5枚貼って完全装備をしているが、それでも寒い。とてつもなく寒すぎて、妙なうめき声を漏らしながら冬、自転車で走る駅までの耐え難い苦行。
高校2年の俺は学校に通うために毎日この荒行を繰り返す。冬は寒く春は花粉症、夏は暑く、秋は花粉症の辛さしかない通学路の先にある目的地は男子校だ。楽しみといったら誰かが持ってくる漫画や週刊誌を授業中に読んで暇を潰し、弁当を食べたり、昼寝をしたり、麻雀をしたり… まあそんなところだ。
満員電車に揺られ、やっと辿り着いた高校の2年B組に入ると、クラスには半分の生徒。遅刻、欠席、アルバイトならまだ甘く、停学、退学、少年院なんていうのも珍しくない。周辺の奴らには落ちこぼれの集まりとか、底辺高校だとか噂されているみたいだけど、よくわからん。俺はただこの青春真っ只中の寒空に、むさ苦しい男だらけの牢獄生活から抜け出し、女子と仲良くイチャイチャすることだけを考えていた。登校早々そんなどうしようもない希望を胸に、俺は黄昏れ、哀愁を漂わせ教室のベランダで煙草を燻らす。短く借り上げた金髪に細身の身体のこんなにイケている俺に、何故彼女が出来ないのかという謎に納得のいく答えをくれる人間はいない。
「よー! こんな寒いのに何格好を付けてるんだよ? やっぱりお前キモイな」
「ああ? うるせー馬鹿! 俺の悩みは誰にもわからん」
「わかるよ? お前がモテないのはそうやって格好付けても結局気持ちが悪いということだ」
「… んあ? あんだってー? 」
俺が独り黄昏れるベランダに来て、失礼極まりない言葉をぶつけてくるこの男は仲間(なかま)という。ガタイが良い坊主頭がより一層ゴリラ顔を強調しているが、こいつが何故かモテる。これが世の中の不条理ってやつだろうが、仲間が時々セッティングしてくれる女子とのカラオケがあるので俺は細かいことは考えない。
「よー! 女子達からオファーが来ているが、今日あたりどうだ? 」
「おお! 俺はいつでも準備オーケーだ! 」
「じゃあ決まりだ! いつものカラオケだな」
俺との普段通りのやり取りを終え仲間は携帯電話でメールをし始めた。
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夕方になり、俺が仲間と二人正門までたらたら歩いていると、見覚えのある黒いハイエースが学校の前に停まっている。
「おい、ナカニーの車停まってるけど、呼んだのか? 」
「ん? ああ、呼んだ呼んだ。今日カラオケじゃなくなったんだ。まあ乗れよ」
ナカニーとは仲間兄(なかまあに)の略称だ。ナカニーは車を持っているので遠出するときは色々と世話になっている。俺は目的地が分からない不安を感じながらも、取り合えずそのハイエースに乗った。一体どこに行くのかという一抹の不安を抱えながら。
車はすぐに発進し、運転席からナカニーが元気良く声を掛けてくる。ナカニーは仲間とは正反対でスマートなロン毛の見た目も性格も申し分ないイケメンだ。
「おっすー! 学校お疲れ! 楽しみだなー 」
「お疲れ様でーす! え? どこに行くんですか? 」
「あれ? オマエ例の事、言ってなかったんか? 」
ナカニーはバックミラー越しに、仲間へ意味深な含みを込めて話しかける。
「あ、悪い悪い! でもなー お前引くから… 」
「なんだよ! どうせ行くんだから教えろよ」
鼓動が少しずつ早くなるのを感じた。何かまずい方向に進んでいる気がしてならない。後部座席に隣同士で座りながら俺と仲間は、目的地を教える教えないの問答を繰り返す。
やがて駅前で車が停車し、後部座席のスライドドアが開くと扉の前には二人の女子高生が立っている。スライドドア側に座っていた仲間がもう一列後部座席に移動し、二人の女子はそれぞれ仲間と俺の隣の座席に腰を下ろした。
…… 緊張して喋れない。格好を付け窓の外の景色を眺めるが、酷く時間を無駄にしているような気がする。情けなさと嬉しさの入り混じった複雑な感情はどこか心地よさを感じ、もう目的地がどこかなんてどうでも良くなっていた。
「さあ、着いたぞー! 」
明るく快活なナカニーの掛け声に反し、空はとっぷりと日が暮れ窓の外に見えるのは木々の生い茂る夜の森だ。どこに着いたのだろうか。俺以外の仲間と女子が嬉々として口数が多くなって来たのを横目で見ていると、到着した場所がどこであるのかに不安が増す。
ハイエースのスライドドアを開け、俺たちはぞろぞろと外に出ていく。街灯もない国道と辺り一面の森に、俺は周辺をキョロキョロと見回す事しか出来ないでいる。
「あそこだぞー! 」
またナカニーが口を開き、皆に向けて呼びかける。俺はナカニーの事をツアーコンダクターみたいだなと馬鹿な事を考えていたが、指示された場所に視線を移した瞬間すべてを悟り無意識に呟いていた。
「ああ… そういうことね」
廃墟。
今回の目的は女子とのイチャイチャドキドキの肝試しであったのだ。季節外れも甚だしい極寒の森で、どこの誰が住みどんなゆかりがあるかも知れないボロボロの家屋にお邪魔仕る。俺は仲間の独創的なそのセンスにため息しか出ない。
「ここはな… 」
それらしい雰囲気でそれっぽく話し出す仲間に皆聞き入っていた。各々が白い息を吐き頬や鼻先を赤らめている光景は滑稽でしかなく、俺は仲間の話がまったく頭に入ってこない。何やらこの家に住んでいた一家がある日急に頭がおかしくなって、父親が妻と息子を手にかけ最後には自らも首を括って命を絶ったという曰くつきの廃墟。奴の余計な演出は別としてそこまでは理解できた。
くだらねえ。
態度にも出ていたと思う。俺が非常に不快感を露わにする理由は、こういった霊的なものと関わるのが大嫌いで、それを良く知っている仲間が冬にも関わらず俺をはめるためにわざわざ肝試しを企画したからだった。とにかく臆病な俺は、霊感は無いが幽霊というものの存在はどこかで信じていて、肝試しは自らの弱さが公になる一番避けたいイベントなのだ。
「ということで、男女ペアを組んで順番にこの廃墟の中を探索する。OK? 」
仲間の調子のいい説明が終わったようで、女子二人はうんうんと頷いている。ナカニーは何かあったら呼ぶようにとハイエースに戻り待機していた。
まずは仲間と一人の女子が廃墟に入っていく。ペアを組んだ女子は明るくノリが良く、奴のタイプの女子。人見知り、いや硬派な俺とペアを組む女子は控えめでまじめな印象、清楚でかわいい女の子だ。仲間たちを待つ間、俺と女子は名前を言い合い、彼女の名前が友貴(ゆき)ということがわかる。ただそれ以上は会話が弾むどころか一言も言葉を交わすことはなかった。
「いやー ヤバいぞこの家! マジで気を付けた方がいいよ」
ものの10分程で家から出てきた仲間たちだが、ニヤニヤしながら俺と隣の友貴を交互に見つめ懐中電灯を手渡して来る。強張った表情で余裕があるふりをし、俺たちはその家屋に入っていく。
家の中に入ると想像以上に荒廃した状態で、いつ倒壊してもおかしくはないという別の意味での恐怖を感じる。懐中電灯の光以外暗闇で何も見えないが、一階部分の大体の間取りは把握できた。この家は玄関から一本の廊下が続き、その廊下を進むにつれリビング、和室、脱衣所、浴室、トイレという構成になっている。それぞれの部屋を覗いた後、各部屋へ順番に足を踏み入れようとすると、不意に俺の右腕の袖が引っ張られる感覚。一緒に歩いていた友貴がいつの間にか距離を詰め俺の袖を指先でしっかりと掴んでいる。
高鳴る胸の鼓動は、俺を男にしていた。
「大丈夫だ。部屋数は多くないから、一個ずつ部屋を確認したらすぐ出よう」
彼女は俯きながら一度だけ首を縦に振り、俺はそれを確認するとリビングの扉を開く。
一体いつからこの家は人が住んでいないのか。確かに酷く傷んだ家屋ではあるが生活感だけは妙に残っていて、つい最近まで誰かが住んでいたような錯覚すら感じる。リビングの中央にはソファーとテレビ、棚には本やアルバム、家族の写真が飾ってあり暖かい家庭の談話スペースという面影。ふと棚にある家族の集合写真に目が留まり、懐中電灯を照らし近づいて目を凝らす。仲間が言っていたように、父、母、息子の家族三人が並んで公園のような場所で写したと思われる写真。しかし彼らの表情をうかがい知ることは出来ない。何故なら家族三人とも顔を赤いペンか何かで乱暴に塗りつぶされていたからだ。
「ダメ! それ以上は… 」
「え? 」
友貴の言葉に俺が反応した瞬間、リビングの外、廊下の壁を物凄い力で殴ったかのような打撃音が聞こえる。頭を抱えて蹲りたい気持ちをかろうじて思い留まれたのは、彼女が俺の右腕にしがみつくという夢にまで見た光景で一瞬でも現実逃避が出来たからだ。
「は、はは! 仲間の奴脅かしにでも来たのかな。大丈夫だよ! 大丈夫だから」
俺の声は上ずりまったく頼りがいはないが、その言葉で自らを奮い立たせる。廊下に出るが人の気配は無く、先ほどの怪異に耳を澄ましている分しんと静まり返った家の中がより不気味さを増していた。その後、和室、脱衣所、浴室、トイレと見て回るが心もとない懐中電灯の狭い視界では特に気になるものは発見できない。
「もう出よう? 」
潤んだ瞳は暗闇の中でも妖艶に輝き、思わず見とれてしまうほどだが、友貴の申し出を承諾するわけにはいかずもう少しだからと説得し二階へ向かう。半ば意地になっていた。怖がって逃げ出しても仲間から馬鹿にされるし、折角の女子とのおあつらえ向けシチュエーションを無下にするわけにもいかない。
二階への階段は、木造の家屋の木が腐りかけているのかやかましい程に良く軋む。階段を登りきると一階同様一本の廊下が真直ぐ伸び、廊下の途中には左右に二か所ずつ扉が並んでいた。静かに深呼吸をして手前の部屋に向かおうとすると、急に隣にいた友貴が膝から崩れ落ち、蹲る。
「うう… 気持ちが悪い」
「お、おい大丈夫か? 」
俺が背中を擦ろうと手を伸ばすと、友貴は持っていたカバンを放り出し凄い勢いで階段を降りて家を出ていった。
「え? ええー? 」
疑問符を独り口に出し暫くあっけにとられていた俺だったが、いつまでも一人でここにいる必要もないことに気づき彼女の放り出した鞄を拾い、足早に家を後にする。階段を降りる前、何気なく二階の廊下を振り返ると、暗闇の中に小さな人影が見えた気がした。
家を出ると、少し離れたところでさっきまで一緒にいた友貴がもう一人の女子に背中を擦られ嘔吐をしている。珍しく慌てた様子の仲間が俺の姿を確認すると同時に、大丈夫かとか、何があったんだとかの質問攻めで混乱の真っ最中だった。俺がありのままあったことを仲間に話していると、友貴が落ち着きを取り戻した様子でこちらに近づいてくる。俺が拾ってきた鞄を渡すと、彼女は謝罪とともにゆっくりと口を開き始めた。
「急に逃げ出してごめんなさい。気分が悪くてどうしようもなかったの」
「ああ、いいよ。なんか俺も友貴ちゃんを無理に連れまわしちゃったみたいで怖い思いさせたな。ごめんな」
「ううん。違うの。私は何とか君をあの家から連れ出そうとしていたけど、なかなか上手くいかなかった。こっちこそ怖い思いさせてごめんなさい」
なんだかすべてを見透かされているみたいで恥ずかしい気持ちだったが、それを誤魔化すように俺は気になっていたことを質問する。
「連れ出そうとしたって、なんか意味深だな。友貴ちゃん、あの家で何か見たの? 」
友貴は俺のその言葉に両肘を抱き小刻みに震え出した。一緒にいた女子がこれ以上俺に追及をしないよう話して来るが、友貴はそれを制しゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
「あのね、アタシ霊感があって色々見ちゃうの。変に思われたくなくて、普段は周りに合わせているんだけど、さっきの家は危険」
「危険って、悪霊かなんかでもいたの? 」
馬鹿にして聞いたわけではなく、単に好奇心から聞いてみたかった。あの家を出る前に見た小さな影の正体がわかるような気がしていたからだ。
「悪霊かはわからない。でもアタシたちがあの家に入ってからずっと誰かが近くにいたの。見張っているみたいに」
「あのさ、廊下の壁をぶん殴ったみたいな凄い音がしたのも、霊の仕業? 」
「うん。君が覗き込んでいたあの写真を興味本位で見られたくなくて、やめろ! っていう男の人の想いというか、気持ちを感じたから止めようとしたの。廊下の壁は多分その男の人だと思う」
実際にポルターガイストみたいに壁から打撃音を聴いている俺としては、既に友貴の言葉を疑う余地はない。彼女はさらに話を続ける。
「二階には行きたくなかった。女の人が階段の上からアタシたちを覗いていたの。でもその顔には瞳が無かった」
瞳の無い顔。想像するだけでも禍々しく、そんな顔に暗闇の家の中で遭遇したら俺は確実に気絶する自信があった。友貴は思い出したように鞄の中を漁り出し、何かを無くしたと焦っている。今しがた暗闇の家で俺が心を奪われた彼女の不安な表情。友貴は潤んだ瞳で俺を見上げていた。
「無いの」
「何が? 」
「鏡が無いの。お祖母ちゃんの形見の大事な鏡なの! どうしよう!?」
「お、おおぅ… あ、そうだ! 友貴ちゃんがあの家の二階で鞄を放って行った時鏡だけ落としたのかもしれない」
友貴の勢いに押され、若しくは面倒くさい新たな展開に翻弄され情けない声を発してしまった俺だったが、心当たりが咄嗟に口をついて出る。余計なことを言ってしまった。
まあ、俺が取りに行くわな… そりゃそうだ。
「友貴ちゃん、安心してよ。その鏡、俺が取って来るから! ちょっと待ってて」
急に割って入ってくる仲間が友貴にウインクをし颯爽と家に向かっていく。何故だ? 何故あいつはこんなにもいいところを持っていくのだ。もう一人の女子が俺を睨みその視線に追い立てられるように仲間の後について行く。
大の男二人が真冬の肝試し。前を歩く仲間は男らしく堂々としていて、その後ろを歩く俺は金魚の糞のようだ。ただ、さっきの家での現象が気のせいでなければ用心に越したことはない。こんな奴でも一応友達だ。何かあったら助けられるように俺がついていないといけない気がして、浮ついた気持ちを引き締めるように両手で頬を叩く。
大丈夫。鏡を取りに行くだけだ。大したことじゃない…
家の前に立った俺たち二人は、その雰囲気に気圧され無意識に足が竦んでいた。気のせいなのか、先程より黒く渦巻く何か悪い空気が俺たちの周りに纏わりついてくる。仲間の顔を見るといつものふざけた顔は無く、眉間にしわを寄せた真剣な表情だ。こいつもこの家で何かを見たのだろうか。
「入るぞ? 」
俺が頷くのを確認して仲間は家の扉を開ける。
空気が重い。こんな感覚は初めてだった。家の中は相変わらず真っ暗で懐中電灯の視界だけが頼りだ。俺たちは真直ぐ二階に続く階段を上り始め、ギシギシと軋む階段を気にすることなく一歩一歩踏みしめていく。不意に、俺の前で階段を上っていた仲間が足を止める。二階まではまだ半分といったところだったが、俺が先を促すより早く仲間が口を開いた。
「おい、これからオレが言うことを聞けよ? いいな! 」
「どうしたよ? …わかった」
「友貴ちゃんの鏡。あれはヤバい。力が強過ぎていろんな良くないものがこの家に集まってきている」
「は? オマエそんなキャラだったっけ? 」
「鏡は見なくてもわかる。力の流れみたいなものが何となくわかる程度だ。霊感なのかはよくわからない」
「なんだそりゃ? 特殊能力でも開眼しちゃったのか? 」
「もうあまり時間がない。いいか? これからオレが二階に走りその勢いで廊下の奥まで突っ込んで行くから、その間お前は二階の廊下の床から鏡を拾え」
「なんで鏡がそこにあるってわかるんだよ? 」
「だから何となくだ。鏡を拾ったらそのまま家から脱出しろ。わかったな? 」
仲間は俺の返事を聞かず、急に階段を駆け上がり走り去った。慌てて仲間の後を追った俺は二階につくと奴が二階の廊下の突き当りまで走る後姿を確認する。仲間が廊下の奥の部屋の扉に差し掛かった瞬間、その部屋の扉が勢いよく空き中から黒い手が出てきて奴を掴み物凄い勢いで部屋に引きずり込んでいった。一瞬の出来事だった。
「うおおおー! 鏡を拾えー! 」
部屋から仲間の声が聞こえる。仲間は床や壁にぶつかるほど暴れながら叫んでいるようだった。
「か、鏡! 」
俺は考える暇もなく懐中電灯で廊下を照らす。床は埃や良く分からない何かの残骸で散らかり、鏡を探すのは思いのほか大変だった。
廊下にある部屋の前の床に、懐中電灯の光を反射するガラスのようなものが輝き、近づくと手鏡が確認できる。その赤い柄の手鏡は恐らく友貴の無くした鏡に違いない。俺はそれを拾うと大声で仲間を呼ぶ。
「おい仲間―! 拾ったぞ。今助けに行く! 」
「来るなー! 俺はいいから、一先ず鏡を外に出してから来てくれ! 」
「…? わかった! すぐ戻る! 」
仲間を掴み奥の部屋に引きずり込んだ黒い手を俺は確かに見た。奴の安否が気掛かりでならないが、何故か仲間の言うとおりにしておいた方が良いような気がして、急いで階段を降り始める。
その時、俺の背後に何か強烈な気配を感じ思わず足が止まった。二階の廊下、手前の扉がゆっくりと開く音を背中で聴く。振り返らずそのまま走り去ることが賢明だとわかりながらも、それが出来ない。自らの危機管理能力に抗うことは出来ず、ゆっくりと後ろを振り向くと、廊下にある扉の一つが開いていてそこから黒い影がこちらを覗いている。
はっきりと見えた。その影に懐中電灯を当てると、瞳の無い女性と瞳の無い子供がはっきりと見えたのだ。
「ううわあああー! 」
無我夢中で階段を降り命からがらこの家から脱出する。その予定だったが、そう上手くはいかないものだ。俺は階段で足を踏み外し一階まで凄い勢いで転げ落ちた。多分脳震盪だろう。頭の打ちどころが悪く、ぼーっとする。俺は階段を降り切った場所の床の上で横たわり動けない。
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どうしてこうなった…
暗闇の中、俺は何度もそう考えていたがまったくわからない。ただ一つ分かっていることは、簡単なことだと高を括っていた俺が馬鹿だったってこと。今は考えるしかない。考えていないと恐怖に引きずり込まれそうで、ああでもない、こうでもないと思考を巡らせて何とか叫び出したくなるのを必死で抑え込む。
遠くで発狂しているのは多分あいつだろう。ここからどうする? 少しずつ冷静さを取り戻す俺は、考える振りもそろそろ飽きて来ていた。
仲間の叫び声が家の中に響いている。あいつも、もう限界だろう。俺は手に握った赤い手鏡を見つめ、仲間の言葉を思い出していた。
“力が強過ぎていろんな良くないものがこの家に集まって来ている”
俺がこの鏡を持ってこの家の中で霊が集まりやすい場所へ行けば、今仲間を襲っている何かの気を引き付けることが出来るのではないか。安直な考えではあったが今はこれに縋るしかない。霊が集まりやすい場所、そして霊がその場所に他人が足を踏み入れるのを極端に嫌う場所。
リビングだ。
俺はリビングへ入り中央のソファとテレビ、アルバムや写真が立てかけてある棚へ近づき、大きな声で叫ぶ。
「おおーい! ここにいるぞー! ここだー! 」
手にした手鏡を振り回しめちゃくちゃに暴れていると、足がもつれ派手に転ぶ。懐中電灯はどこかへ転がってしまった。辺り一面闇が支配し、リビングであることを証明するものは何一つ、輪郭すら確認は出来ない。目の前に青白い何かが光を発している。その発光する何かに目を凝らすと、さっきまで持っていた手鏡だった。
鏡に手を伸ばし顔に近づけると、鏡の面が暗闇で光る蛍光塗料でも塗られているかの様に輝いている。当然のように自分が写り込むと決めつけ、鏡を覗き込むが何も映らない。驚いてさらに顔を近づけると、青白い光は輝きを増しその光で目が眩む。
フラッシュバックとでもいうのだろうか。記憶が渦のように頭の中に流れ込んでくるが、俺の記憶じゃないのは確かだ。どうやら俺は子供で、父親と母親に囲まれ幸せな生活を送っている。暗闇だったリビングは暖かい光で満たされ、父と母には笑顔が溢れていた。
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父親は誠実で働き者、母親は優しく大らかな美しい女性、僕はというとクラスでも一番の人気者。こんな最高の家族はどこを探しても見つからないだろう。決して裕福な家族ではなかったけれど、時々の外食や遊園地、カラオケなどを楽しむつつましやかな瞬間は、幸せそのものだった。こんな生活がずっと続けばいいのに。永遠に。
ある日父さんが仕事から帰ると、酷く落ち込んだ様子だった。仕事で何かがあったのだろうか… 心配だ。母さんも心配をしていて、父さんに声を掛けるが返事はない。それどころか酒を煽りかなり酔っ払い、それ以上は体に障るという母さんの言葉に激情して暴力を振るう。
怖かった。只々今までと違うその男に恐怖し、母さんを守れない自分を責める毎日。僕なんていない方が良かったんじゃないか、いなくなれば父さんも母さんも元通り笑顔になるんじゃないか。そんな風にいくら考えたところで何も出来ず、誰にも助けを求められない。日を追うごとに父さんの、いや父さんだったその男の暴力はエスカレートしていき、母さんは青あざを作りながらもその男が僕に手を出すのを必死で庇い、余計に青あざを作っていく。
許せない… 殺してやりたい。いつしか父であった男に対しての憎しみが増幅していく。どんな理由があったかなんて想像も出来ないし、考える力もない。ただ僕は目の前の現実に絶望しこの絶望から抜け出すためだったら、母さんと幸せに暮らせるなら何だってできる。そう、何だって出来るのだ。
リビングにある柱には、僕の身長が伸びる度にマジックで書いた小さな印がいくつもついている。いつものようにあの男が酒に酔い潰れ、リビングのソファーにだらしなく横たわり熟睡中だ。僕はしっかりとした縄で編まれた縄跳びの紐の端を柱に括り付け、そこから伸ばした紐を泥酔中の男の首に巻き付けた。余った紐の端を引っ張れば男の首は締まり、僕の目的が達せられる。紐を握る手に汗をかき、震えが止まらない。
ふと男が目を覚ました。慌てて握っていた紐を思いっきり引っ張ると、予想通り首に紐が食い込み男がもがき出す。しかし予想に反して僕は非力だった。子供の力では大人の男の首を絞めることは出来ても命を奪うほどの力は発揮できない。男の手が僕の首に伸び、むんずと片手で首を締め上げる。苦しい。体は痙攣し、失禁をしながら意識は遠のいていく。その時、背後から手が出てきて僕が紐を掴んだ手を握り強く引っ張り出した。
母さんだった。すぐに男の僕の首を握る手が緩んでいき、紐で縛られた首を苦しみ悶え掻きむしる。二人一緒に思いっきり紐を引きながらも、僕が母さんの顔を覗くと泣いていた。僕も涙を堪えられない。二人泣きながら父さんだった男の首を締め上げると、そのうちに男はぐったりとして動かなくなる。
紐を掴む手が緩み、僕と母さんは力なくリビングの床に座り込む。放心状態が続いていたが、事の重大さに先に気づいたのは母さんだった。自分の夫を手にかけるだけでなく子供にも父親を殺させることをさせてしまう。急に泣き叫ぶ母さんを僕は茫然と眺める事しか出来ない。母さんは何やら叫んでいるが、途切れ途切れ辛うじて単語が聞き取れる程だ。
「見たくない… もう何も見たくない」
確かそんなことを言っていた。誰に言うでもなく、そのつぶやきを繰り返しながら、息が荒くなり、次の瞬間母さんは両手の人差し指を自らの両眼に突き立てる。呻き声を漏らしながらも母さんの閉じた瞼の隙間から流れ出る真っ赤な血。僕がその様子を冷静に見つめていると、母さんは手探りで何かを探し出した。
ああ、僕を探しているんだね。僕はここにいるよ。
母さんの手を握り自分の頬を触らせると、母さんは微笑み次の瞬間頬を触っていた両の親指を僕の両眼に突き立てる。一瞬のことでびっくりしたけど、激痛と目の奥が熱く脈打つのを感じ呻きながらも僕は母さんに最期の言葉を伝えた。
「これで一緒だね。母さん」
僕の言葉に無言で微笑む母さん。もう眼は見えないけどそんな気がしていた。やがて母さんの手が僕の首を優しく包んだかと思うと、一気に力を込めて締め付ける。意識を失う直前、光を失った僕の視界には暖かい闇が広がっていた。
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暖かい闇、そんな余韻を感じながら暗闇のリビングに立ち尽くす。この家の子供の記憶であろう意思が俺の頭の中を侵食し通り過ぎて行ったような感覚に、思考が追い付かない。仲間が言っていたこの家の家族が心中をした真相は間違っていた。そして幸せな家族の結末はとても悲しく切ない、やり切れないものだった。
「こんなのってあるかよ… 」
頬を伝う生暖かい悲しみが心地よく、拭うことなく流れるままにしている。俺はこの家の子供と気持ちが通じ合い、悲しみに打ちひしがれその場から動くことが出来なかった。
「おい! 行くぞー 」
ナカニーがズカズカとリビングに入ってきて首根っこを掴み、俺のことを引きずっていく。
(ナカニー? 仲間はどうした? )
ふと我に返り状況の把握をしようとしていると、ナカニーに引きずられるまま家から外に出ていた。外にはぐったりとして砂利の上に座り込む仲間と、それを心配そうに見つめる女子達がいる。いや、そんな状況が何となく伺える。
家を出て暗闇から解放されてから視界が何かおかしい。酷くぼやけうっすらと色づいている。これは何色だろう。ぼーっとそんなことを考えていると、ぼやける視界に女子の一人が俺に気づき走り寄って来た。
「え? ちょっと嘘… 君それどうしたの? 」
「うん? ああ、ちょっと目にゴミが入ったみたいで涙が出たんだ。カッコ悪いよな」
弱々しく笑いながら頬を伝うものを拭うと、拭った袖に血液が付着している。怪我でもしたのだろうか。不思議に思い首をかしげていると、目の前の女子、友貴が恐る恐る一言を発した。
「君、目から血が出ているよ」
右手に握りしめていた手鏡を思い出し、その鏡を顔に近づけるとはっきりと見える。頬を伝う赤い涙が。
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その後のことはあまり覚えていない。記憶が無いんだ。後からナカニーに聞いた話では、ナカニーが仲間をあの家の二階から担ぎ出したあと、奴はぐったりして何もしゃべらないし、俺は目から血を出してそれを手鏡でうっとりと眺めているし、女子はそんな俺たちにドン引きして帰りたがるしで大変だったそうだ。俺と仲間を病院へ連れて行った後、心配する女子達を家に送り届けたナカニーは、俺たちを見舞いに来た時にそう教えてくれた。
結局何だったのだろう。
俺の眼はあれから病院で治療をしても出血の原因はわからず、両目の視力が殆どなくなっていた。度の強い眼鏡を掛けていないと生活すらままならない。そして時々途切れる意識。気が付くと身に覚えのない場所にいたり、予定にない行動をしていたりする。
仲間が死んだことが影響しているのだろうか。あいつは病院から退院した直後、自ら首を括り命を絶った。俺はそのことを今でも信じられず、夢を見ているような感覚が拭い去れない。全部夢だったら良いのに。
最近は学校も休みがちだ。話すのも億劫で、ぼーっとすることが多くなったように思う。どうしてしまったというんだ。いくら考えてもわからないが、良いことが無いわけでもない。昼でも夜でも部屋を真っ暗にして眼を瞑ると、暖かい闇に包まれるのを感じる。それがとても心地が良いんだ。
そうやって“僕”は今日もゆっくりと瞼を閉じ、頬を伝う生暖かいものを感じていた。
作者ttttti
長々と失礼を致します。
御笑覧をいただければ幸いに存じます。