「いいか、健也、おばあちゃんちに行ったら大人しくしてるんだぞ?」
息子は黙ってうなずいた。
まったく迷惑な話だ。今更になって、村に帰って来いとは。
先日、長年絶縁状態にあった母親から連絡があった。母親には住所はおろか、電話番号すら教えていないはずだ。恐らく親類縁者から情報を得たのだろう。体が弱って不自由しているので、帰ってきて面倒を見て欲しいと言うのだ。俺は図々しさに呆れた。どの面を下げてその言葉を吐くのか。
母親は俺が幼いころに、男を作って家を出た。残された俺は、飲んだくれの父親に暴力を振るわれながらもなんとか暮らしてきたけど、母親が出て行って一年後くらいに父親も不摂生が祟り肝臓を悪くして死んだ。内心、子供心にも父親が死んでほっとしていた。これでもう俺を殴る人間はいなくなったのだ。そう思ったが甘かった。親戚の家に預けられた俺は、ことあるごとに些細なことで叔父に殴られた。
そして俺はついに厄介払いのように、施設に預けられたのだ。そこで初めて俺は人間らしい扱いを受けた。俺は苦労して勉強しながら、何とか社会に出ることができた。社会に出て働き、同じ会社の同僚の女性と結婚したが離婚。一人息子は俺が引き取った。
そして、今更になって幼い俺を置いて出て行った母親が郷里の村に帰っていることが発覚。恐らく男に捨てられたのだろう。しかも、体を壊して生活もままならない。困ったのは親類縁者であろう。世間体を気にして無下にはできず、俺の連絡先を教えたのだろう。
郷里の実家は親戚が管理しており空き家になっていたが、母親が帰ってきたため、名義は母親らしい。俺は重い気分で、がたが来た引き戸を開けた。
「おお、隆かい?立派になって。」
みすぼらしい婆の姿がよたよたと玄関に近づいてきた。母親の記憶と言えば化粧ときつい香水の匂いと着飾った姿だが、今のその姿はあまりにもそれとかけ離れていて本当に自分の母親なのかという疑念すら湧いた。
「ただいま。」
罵声を浴びせたかったところだが相手は年寄だ。一言そういうと、老いたその目は後ろの息子をとらえた。
「もしかして、その子は私の孫かい?」
「ああ、そうだよ。息子の健也だ。健也、おばあちゃんにご挨拶しなさい。」
健也は恥ずかしそうに、頭だけをぺこりと下げた。
「おお、おお。かわいいねえ。健也っていうのかい。小さい頃のアンタにそっくりだねえ。」
婆の目じりが思いっきり下がった。どうやら孫はかわいいらしい。
「それより、具合はどうなんだい?」
その後に、母さんと口をついて出そうになり言葉を飲んだ。許したわけではない。母さんなどと呼ぶには、耐えられないほどの根深い感情は今も持ち続けているのだ。
「足が悪くてねえ。家の中くらいしか歩けないのよ。こうして物を持って伝い歩きしないと無理でねえ。本当にお前には悪いと思ってるんだよ?」
嘘を吐け。そんなこと思っているのなら、何故帰ってこなかった。何故俺を捨てた。奥歯をかみしめて言葉を堪える。
「すまないが、一緒に暮らすわけにはいかないよ。俺にも仕事がある。ここから会社に通うには通勤に2時間はかかるから無理だよ。」
単刀直入にそう言うと、母親の顔は見る見る沈んで行き項垂れた。
「都合がいいとは思っているよ。小さなお前を置いて出て行って今更面倒を見てくれだなんて。でも、このままじゃ、あたしゃ貯えもないから施設に入るのも難しいんだよ。後生だから、お願いだよ。」
媚びる目に腹が立った。このままでは爆発しそうだ。だが、息子の手前、理性を保たなければならない。
「その話は、またあとでしよう。」
息子の健也にチラリと目をやると、さすがの婆さんもはっと気付き目じりを下げて、ちょっと待ってなと言いながら、棚からお菓子を出すと孫に与えようと菓子盆に盛った。
健也は黙ってひたすらお菓子を食べ続けた。子供なりに気を使っているのかもしれない。この子は、こんなにお菓子を食べる子ではないのだ。好物は他にある。それより、息子の体が心配だ。これ以上余計な物を食べると体が耐えられない。
「健也、無理して食べなくていいんだぞ?」
俺が息子にそう言うと婆さんは
「あら、いいじゃない。お菓子いっぱいあるから、遠慮しなくていいんだよ?食べな?」
とさらに目じりを下げた。
何も知らないくせにこのクソ婆。健也のことは俺が一番よく知っているんだ。
俺は菓子の入った盆を取り上げて棚に戻した。
「何をするんだい?いいじゃないか。食べさせてあげれば。」
「この子は食事制限がある子だから。」
そう言うと母親は驚いた顔をした。
「どこが悪いの?知らなかったよ。ごめんね。」
そう言うと項垂れた。言う必要はないと思い、その問いはうやむやにした。
「食べれるものがあったら言っておくれ。美味しいもの作るから。」
「いいんだ、気にしないでくれ。」
「何が好きなんだい?」
しつこいなあ、婆。俺の健也にかまうな。
何が好きかと聞かれた健也が、初めて顔をあげた。
「肉。」
健也がつぶやいた。すると母親の顔がぱっと明るくなった。
「そうかい、肉は食べられるのかい。じゃあ今夜御馳走を作るからねえ。」
俺は健也の無表情な瞳を見て凍り付いた。まさか、お前。
その夜、健也は用意された肉料理に一切手をつけなかった。母親は困惑していた。
「お肉が好きだっていうから作ったのに。食べないのかい?」
健也は母親を無視してテレビを見ていた。
やはり、健也はもうあの頃の健也ではないのだ。
健也が眠ったあと、母親と俺の話は平行線を辿った。もう母親を施設に預けるしかないかもしれない。そのために自分が費用を負担するのは腹立たしいが、この身勝手な母親の面倒を見るよりはマシだ。だがその結論を出すには準備が必要だ。いったん話を打ち切り俺は眠りについた。
その夜、俺は悲鳴で目が覚めた。母親の寝室からだ。俺は慌てて母親の部屋に駆け付けた。すると、暗い部屋の中に小さな影がうごめいていた。俺は、慌てて電気をつけた。血に染まった布団。首から夥しい血を流しながら、母親がうつろな目で横たわっていた。その傍らには健也の姿があった。振り向いた健也の口の周りは真っ赤に血塗られていた。
「健也、お前・・・。」
「ごめんなさい。おばあちゃん、食べちゃった。」
そうか、お前はずっと我慢をしていたんだな。
健也、お前が死んだ時には父さんは悲しみでおかしくなってしまいそうだったんだ。いや、もうおかしくなっていたのかもしれない。お前の死を受け入れられなくて、小さなお前の棺の前で泣き続けた。お前がこの世からいなくなるなんて耐えられない。そこで父さんはいいことを思いついたんだ。お前の顔でデスマスクを作り、一晩かけてお前の顔そっくりに仕上げたんだ。そしてお前に背格好が似た子供をさらって殺しお前のデスマスクをかぶせ火葬した。その子には悪いが、俺にとって大切なのは、健也、お前だけだ。
そして、こっそり隠しておいたお前の死体を密かに庭に埋めておいたのだ。死体が腐り始める前に庭から掘り出し、何度もお前の名を呼んだ。そうすればお前は蘇ることができると信じたのだ。そして、その願いは神様に届いた。お前は体を起こし、俺を確かに見たのだ。ゾンビと呼ばれてもいい。俺のそばにいてくれるだけでいい。しかも、ゾンビになったお前には記憶があった。奇跡だと思った。自分がゾンビであることに悩み、なるべく元の自分に戻ろうとした。だが、本能にはあらがえなかったのだな。
お前は、婆さんを食ってしまった。
「いいんだよ、健也。この婆は食われても仕方のない人間なんだ。だから食べていいんだぞ?」
俺は満面の笑みで健也にそう答えた。
作者よもつひらさか