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長編8
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鬼のビデオ

母親「だった」人と会わなくなって、もう20年以上になる。

私は子供の頃、母から毎日のように叩かれ、怒鳴られた。

学校から帰ると、母が無理やり背中からランドセルを脱がして開け、ノートの書き方や文字が汚いと怒られ、返事が小さいと更に怒鳴られ、背中や肩を叩かれた。朝食も夕飯も茶碗一杯のご飯だけで、リビングではなく廊下に立たされながら食べていた。父は仕事が忙しく、姿を見ることは殆どなかった。

それでも母の事は大好きだった。たまに、デパートや知らない街に一緒に出掛ける時の母は、とても上機嫌で、沢山の買い物袋を持って嬉しそうな母の姿を見れるのが、私も嬉しかったのだ。怒られるのは、友達と遊びに行かせて貰えないのは、私がダメな子供だから。そう思っていた。

しかし、小学4年になり、小テストでやっと100点が取れて、これでお母さんが喜んでくれる!と走って家に帰ると、母の姿は無かった。

代わりに、いつもなら仕事に行っているはずの父と、暫く会えていなかった祖父と祖母(父の両親)がいた。

お帰りなさい、と声を掛けられ、リビングの椅子に座るように父に言われた。母から「絶対に入ってくるな」と言われていたから、もしバレたら…と、とても怖かったことを覚えている。

座ると、祖母がチョコレートをくれた。久しぶりに食べるチョコを頬張りながら、おかあさんはどこ?と聞くと、「お母さんね、今旅行に行ってるの。だから代わりに来たんだよ」と祖父が私の頭を撫でながら言った。「なんでー⁉私もお母さんと行きたかったのに!」と言った時の祖父母の顔が、悲しそうに見えたのが、その時は不思議だった。

「ね、行きたかったよね、だから里香(私の名前)も、お父さんたちと旅行に行こうか」

そう父に言われ、「お母さんとが良かった…」と内心思いつつも、カラフルな可愛い柄のリュックを渡され、「好きな物を選びなさい」と、祖母が並べてくれた服や文房具に心を躍らせた。服はいつも2,3着を着回しで、鉛筆も消しゴムも使えなくなるギリギリまで使っていて、男子にからかわれていたから、「これでもういじわるされない、自慢してやるんだ!」と、心から嬉しかった。

が、からかわれるどころか、男子に自慢することも、母に100点の答案用紙を見せる事も、この「旅行」によって無くなった。

私は祖父母の家で暮らすことになっていたのだ。

最初は、旅行といって祖父母の田舎に来れたのが嬉しくて、数日はとてもはしゃいでいたが、

ある日の夕飯の後、父と祖父母に居間に呼ばれて打ち明けられたのだ。

「お母さんはもう帰ってこない、もう一緒には暮らせないんだ」

「お母さんは、里香を叩いたり怒鳴ったりすることが大好きな、ダメな人間になってしまった」

「だから、今日からおじいちゃんとおばあちゃんと、お父さんと一緒に暮らすんだ」と。

最初は信じられなかった。お母さんは悪くない、私がダメな子だから叩くんだ、と。

「私を誘拐したの⁉」「お母さんはどこ⁉」

泣きながら怒った。父の身体をバンバン叩いた。

「ごめんな、里香。でもな、里香には幸せになってもらいたいんだ。今は分からなくても…ごめんな、お父さんとお母さんと、おじいちゃんとおばあちゃんのせいだ。ここでちゃんと、里香を幸せにするから!」

そう言って、父は殴る私を抱きしめながら泣いていた。祖父母も泣き始め、私もどうしていいか分からず皆でわんわん泣いた。私はいつの間にか泣き疲れて眠ってしまったようで、気が付くと布団に寝かされていた。

それから暫く、多分1週間位だったかな。私は自室に籠り、折り紙の裏に、母への手紙をひたすら書いた。

「帰ってきて」、「良い子になる」、「ダメでごめんなさい」…

祖母が持ってくるご飯も食べず、ひたすら書き続けた結果、遂に体力が尽きてしまった――

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目が覚めると、病院だった。ぼんやりとした視界が段々と開けると、祖父母が私を覗き込んでいるのが見えた。腕には点滴が幾つか着いていて、肩の辺りには包帯が巻かれていて動きづらかった。

私は栄養失調と、肩と背中に出来た打撲が原因で衰弱し、倒れたのだ。

病院の先生と看護婦がやって来て、何やら色々動き回り、何かをしていたが、その辺りは記憶が薄くて思い出せない。ただ、「誰にされたか覚えてる?」という先生からの質問に、「おかあさん…」と答えたことだけ、はっきりと覚えている。3日くらいしてやっと家に戻ったが、嬉しい気持ちになれず、私は再び自室に籠ろうとした。

すると、祖父から「里香、そんなにお母さんと一緒に居たいか?」と聞かれた。

私は後ろを向いたまま頷いた。すると、「お母さんがどんな姿でもか?」と聞かれ、何のことか分からず振り返ると、祖父は私の腕をそっと取り、ジッと私の目を見ながら、

「今から、里香に見せたいものがある。お母さんの姿だ、見るか?」と、静かに言った。

祖父に連れられて居間に行くと、テレビの周りに黒い機械やコードが繋がれていた。

ここに座りなさい、と祖母の隣に行くと、祖母は私の肩をそっとさすりながら、「本当にいいのね…?」と祖父に向かって言っていた。

祖父と父は静かに頷いたあと、「里香、これからお母さんが里香を叱っているときのビデオを見せる。里香は、お母さんに叩かれる前、なんて言われてた?」と聞かれたので、「後ろを向けっていつも言われてた」と答えた。そう、私は怒っているときの、叩いているときの母の顔を、見たことが無かったのだ。この映像を見るまで―――――

そこに映っていたのは、倒れて四つん這いになっている私と、母…らしき人間だった。

目は酷く吊り上がり、口は裂けんばかりに開かれ、髪の毛を振り乱し両脚を踏み散らしながら、片手に持った木刀のようなもので私を叩く姿が、そこには映されていた。

「どうしてなの!!!!!」

「なんでこんなダメなの!!!!!」

「この野郎!!!この~~~~~~~(←怒鳴りまくってて何を言っているか聞き取れない)!!!!!アアアアアア!!!!!」

「…おかあさん…?」

テレビに映る映像にそう呼びかけた後の記憶は全く無い。

しかし後になって父から聞かされたのは、私はその後気絶し、祖母は「だから止めた方が良いって言ったのに!」と激昂して祖父と喧嘩になり、父は私を担いで、再び病院に駆け込んだそうだ。あの映像は、「妻が娘に暴行をしているかも知れない」と気づいた父が、母の寝ている間に仕掛けたビデオカメラが映したものだった。そして、この映像が決定的な証拠となり、私が祖父母の田舎に来て2週間後、母は逮捕された。

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あの、鬼のような母の姿を見てしまった事が原因かはわからないが、その後の私が、「お母さん」という言葉を公の場で口にすることは殆ど無いに等しい。むしろ年々、お母さんの本来の顔って、どんなんだったっけ?と、あれだけ嬉しかった、上機嫌だった時の母の顔すら、思い出せなくなっている。

私は祖父母の家で高校まで過ごし、その間も、家を離れてからも、父も祖父母も、けして裕福ではないけれど、何不自由ない生活を与えてくれた。

たまに喧嘩もしたけど、叩かれることも怒鳴られることも無く、祖父は、私の大学の卒業式を見届けた1か月後、安らかな顔でこの世を去った。祖母は、訪問介護と父のサポートを受けながら、今も実家で暮らしている。

そして、祖父の3回忌が終わったつい最近の事だ。

父方の親族や知人が帰っていき、ぼんやりと縁側で景色を見ていると、父が、話したい事があると私を呼んだ。全てのいきさつと、母との事について話してくれた。

母は昔から、どこか理想が高く完璧主義なところがあり、私を産んだあたりからその気質がどんどんとエスカレートし、次第に病的な妄想に憑りつかれるようになってしまったそうだ。

外ではニコニコと朗らかな印象を与えてはいるものの、家の中ではまるで180度性格が変わり、父に対して攻撃的な態度をとるようになっていたという。

父は、母の豹変ぶりを見て病院に連れて行こうとしたのだが、「絶対に行かない」と母は益々狂暴化し、家での暴言に加え、近所に「夫が浮気性で」と触れ回った事が原因で近づけなくなり、別居することになったそうだ(ビデオカメラは、家を出る間際、何かあった時の為にと、この時仕掛けたという)。

しかし、父は浮気など全くしておらず、浮気をしていたのは母の方だったのだ。

私をリビングに出禁にしていたのは、浮気相手とのやり取りを見られないようにする為で、チャットや電話で、いかがわしいやり取りや行為をしていたらしい。

私の為にと送っていた養育費は、母の浮気相手への貢ぎ物や服に消えていた事も後に判明したそうだ。

そして、別居して1か月経った頃、私の様子を見に夜中こっそり家に戻ると、そこには、やせ細り、ヨレヨレの服を着て、片手にご飯茶碗を持ったまま、廊下でうずくまって寝ている私の姿があったそうだ。当の母親は家に帰っておらず、ブランド物の服や靴がゴミと共に散乱し、異臭を放っていた。

父が祖父母と一緒に、私を「旅行」に連れ出したのは、それからわずか2日後の事だった。

母が捕まった後、父は警察から聴取を受けたり、裁判の事で家を離れざるを得なくなり、暫く家に帰って来れなかったが、その後正式に離婚の手続きを取り、私の養育権を獲得したという。

帰り際、背中の丸まった祖母が、手招きをしたので近づくと、ひざ掛けの中から封筒を出し、私にくれた。

家に帰って開封すると、1枚の便箋と、写真が入っていた。

それは、病院で撮ったという、当時の私の背中を写したもので、棒状の痣が幾つも重なるように出来ていた。大人になった今、痣はもう消えているが、当時は「跡が残るかも知れない」と言われていた程酷かったらしい。写真を見て初めて知った。

手紙には、「この傷を忘れずに、心の片隅に置いておきなさい。自分に、そして皆に優しくね…」と書いてあった。

母は酷く、悲しい人間だったのだろう。それでも時折、私は何か「罪悪感」を感じざるを得ない時がある。どんなに「自分は悪い子じゃなかった」と思っても、拭えない「何か」…

この傷と共に生きる事で、いつかその「何か」を、あるいは女性ならば誰もが持つとされる「母性」とやらを、未来の誰かに与える事が出来るだろうか。いや、きっと、きっと出来る…

今は、そう信じるしかない。

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@まやとあ 様
読んでいただきありがとうございます。ご家族の事で苦しい経験があるのですね。
以前、この話で云うところの、父親の立場にあった知人から、当時の事を聞いたことがあるのですが、「夫である自分が嫌われているだけで、まさか子供に手を上げているとは思わなかった」そうです。外で会うときだけ、子供に良い服を着せ、身だしなみを整えてバレないようにしていたそうです。
人間の狡猾さ、弱さは恐ろしいです。

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父は娘を一人にすることに対して、何とも思わなかったのだろうか。でも、まだ父がいるだけましか。両親にも引き取られず、離婚した理由も知らない私よりかは。

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@小夜子 様
読んでいただき、ありがとうございます。
子供自身が思う母親に対する愛情に加え、周囲の人間の「子供を愛さない母親など居ない」という教えから、酷い人間でもなかなか切り離せない苦しみがあると思います。私も今でも、たまに思います。
母親神話の裏には、どろどろとした人間の業があるように思います。

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@あんみつ姫
いつも読んでいただきありがとうございます。
この話は昨今の事件と幼少期の体験を思い出しながら書きました。母性愛は有って当たり前、という世間の狂気的な盲信に囚われて歪んだ親、その生け贄になる子供。親子の価値観はもっとおおらかで良いように思います。

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