輪ゴムの束みたいだ。
佐々木陽仁(はるひと)は、初めて駅の案内板を目にしたとき、そう思った。夕子が隣で、目的地までのルートを辿っているのか「うーん…?」と、首を変に傾けて腕を組み、案内板を睨みつけていた。愛らしい横顔が、しっかりと頭の裏にこびりついている。
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陽仁が誘う格好で、異動を機に、同棲するため二人でこの地を踏んだ。愛する者と同じ時を過ごす幸福感は、陽仁がこれまで経験した何よりも重く、何よりも尊いものだった。
まだその幸福感が慣れに変わる気配もない時期のこと、突如としてそれは消えて失くなった。
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その日、仕事を終えてから夕子と待ち合わせた。住まいまでは乗り継ぎなしで20分程度だが、スーツ姿の陽仁が見たいからと、夕子はわざわざ都心に出てきていた。
いくつか目印はあるが「輪ゴム前ね!」と夕子が電話の向こうで言った。思い出の中の声は、そのときすでに遥か遠く、どうにもならない距離から届いていたかのように再生される。
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待ち合わせには永遠に間に合わなくなった。
野次馬。
担架。
血塗れの夕子…
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状況が咀嚼できないまま、それでも夕子を目指した。男どもを押し退け、かき分け、なぎ倒した。
何かを叫んだ気もするが、自分の声なのか分からなかった。体の中で、どす黒い別の生物が吠えたような、そんな音が喉から出た。
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あの日のことは「都市部で起きた悪質な通り魔事件」として、ほんの数日テレビを騒がせたこと程度しか、脳には残っていない。
忘却で精神を守るという、防衛本能なのかもしれない、そう思った。
もう何もないのに、何を本能的に守るのか…
脳の余白になった部分で、陽仁は自嘲していた。
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………
「足立さん、もうあがっていいよ」
「ありがとうございます。喫煙席だけ片付けてきます」
足立三佳は返事をし、喫煙席の自動ドアを開けた。愛煙家であるためか、閉店後は喫煙席を担当する、という役どころがすっかり定着した。
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改札すぐ近くで、23時と遅くまで開けていることもあり、この喫茶店は平日、休日問わず来客が多い。ビジネスマンやカップル、最近は大荷物のアジア系外国人など、様々な人の波がある。
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自動ドアに平行する配置の、一番遠くにあるテーブルに、使用済みの灰皿が残されている。片付ける前に、自分のたばこに火を点けた。
ふぅ、と煙を吐きながら、つい先程までこの席にいた男性のことをぼんやりと思い出す。
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いつ頃からだろうか。毎日のように来店し、コーヒーのみを注文し、いつもこの席に座る男性。
彼は席に座り、ガラス越しに外の風景をずっと見ている。
その視線を辿っても、あるのは雑踏と、駅の案内板だけだ。何がそこまで彼を惹きつけるのか、三佳は答えを見つけ出すことができなかった。
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そして、彼が放つ独特の空気感。
「俺にかまうな」
言葉にはしないが、全身がそう言っている。
彼の儀式に水を差してはいけない、そう三佳は受け取った。強いて言えば、直感。サービス業従事者、もしくは女のそれだった。
邪魔にならない程度に、彼の「儀式」を観察するに留めるようになった。
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………
いつ頃からだろうか。たばこが吸える場所を探して、たまたま入った喫茶店。今は毎日のように通っている。
たばこの煙を薫せながら、虚無感の中で頭を働かせると、出てくるのは悪態か自虐しかなかった。
座っている席から、案内板が見える。
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あれを待ち合わせ場所にしなければ…
ぶつける場所のない恨みを案内板に向ける、最初はそんな心持ちで、そこに視線を投げたはず。
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時のいたずらか、ちょうど、案内板の方を見つめながら、女性が立っているのが見えた。背格好さえ、夕子を連想させるものがあった。陽仁は小さな苛立ちを覚え、すぐに目を逸らした。
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長居する理由はなかったので、一服を終えたあと、席を立とうとした。
まだいる…
先ほど目に入った女性が案内板を見つめていた。ここからは背中しか見えないが、小首を傾げて、腕を組んでいる。あまりにも夕子に似ていたため、しばらく目が離せなくなってしまった。
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夕子はもう居ない、自分が誰よりも理解しているはずだ。しかし、見れば見るほど、夕子ではないと断ずる証拠を探す方が難しくなった。遠目では、もはや生き写しだ。
(重症だな、俺もいよいよ狂ったな)
そう思い直し、陽仁は席を立った。
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喫煙席の自動ドアをくぐり、もう一度、案内板の方を見た。女性は居なくなっていた。
彼女は待ち人に出逢えたのかもしれない。
そう思うと、姿かたちに苛立っていたはずが、女性の幸せを願う、快い気持ちになった。
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何日か経って、そんな出来事も忘れた頃、陽仁はまたこの喫茶店を訪れた。
店に入ったのは偶然だった。入った際に、ふと、女性のことを思い出した。
陽仁はジンクスなんてものを信じたことがなかった。ただ、あの日と同じことをすればまた会えるかも、という、おとぎ話じみた思考になった。
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しかし他人の空似。それに、居たとしてどうする。
そう思いつつも、コーヒーを手に喫煙席へ入り、席に座る前に案内板の方を見た。
…ほらみろ、そもそも居るわけない。
予想通りの結果に、安堵か落胆か、複雑な気分で、前と同じ席についた。しかし、
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「馬鹿な…」
…居る。
女性が現れた。
ほんの2〜3秒前の間に、いつやってきた?どっちから歩いてきた?よく見りゃ服まで前と同じじゃないか?
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女性は、あの日と同じように、小首を傾げ、腕を組みながら掲示板を見ている。夕子のように…
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それからおよそ5時間が経っていたが、陽仁はまだ座り続けていた。理由は簡単、観察対象に何の変化もなかったからだ。
待ち合わせにしてはどう考えても長過ぎる。
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見ている間にあった女性の変化は、案内板を眺める角度を調節したのか、首の角度だけだ。人間がこれだけの時間、全く同じ場所に突っ立っているなんてことがあり得るのか。
灰を食わせ過ぎて、底が見えなくなった灰皿が、経過した時の長さを物語っていた。
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結局、そのまま閉店時間になった。日が落ちて気温が下がったせいか、薄ら寒さを感じながら、コーヒーカップを取り上げた。
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「…居ない?」
席から離れた途端、女性が居なくなった。いや、『消えた』と表現するほうがこの場合は正しいか。
ほぼ目を離さなかったはずだが、一瞬にして風景から女性が切り取られた。
5時間、幻を見ていた。脳を納得させるには、そう決め込むしかなかった。
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………
それから数日、あの女性が頭から出て行かなくなった。ふとした隙に記憶が邪魔をする。
これでは本当に気が狂う、そう思い立ち、『そんなことはあり得ない』のをはっきりさせるため、例の喫茶店を訪れた。
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コーヒーを片手に、あの席へ向かう。女性の姿はない。
席の前まで来た。案内板へ目をやる。
…居る!
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まただ。「来た」というか、この席から案内板の方を見たときだけ、女性が「突如現れた」ように映り込む。
同時に、違和感に気づいた。
まさかと思いながら、ひとつ手前、自動ドアから見て二番目に遠い席へ歩を戻す。
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到底信じられないことが明らかになった。
いつもの席と、その手前、いま陽仁がいる席との間にちょうどガラスの仕切りが来る。
この仕切りを境に、見える「外」が変わるのだ。
風景は同じ駅の中ではあるが、往来する人も、それぞれの進行方向も全然ちがう。
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「な、なんだこれは…」
外から自分がどう見えるかなど、陽仁はそのとき気にする余裕がまるでなかった。ふたつの風景を立ったまま交互に見比べることしか出来なかった。
この日から、この喫茶店は陽仁の行きつけとなった。
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………
「外」の観察を始めて1ヶ月ほど、いくつか気づいたことがある。
まず、例の女性はずっと案内板を眺めて動かないが、他の人々は、こちらに背を向ける格好で、奥へと歩いていく。右に進めば改札だが、観察している限りでは、誰も改札を通らない。
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また、改札から出てくる人もいない。
女性以外は皆、奥へと消えていく。
そして、時間。案内板の上に大きなデジタル時計が付いているが、その時間が変わらないのだ。おそらく、17:35でずっと止まっている。
「おそらく」となっているのは、数字が鏡で見たように反転しているためだ。
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いろいろ奇妙ではあるが、すでにこの上なく奇妙な状況なので、陽仁はかえって落ち着いて分析が出来た。
「外」は完全な別世界、という仮説を立てた。
…別世界なら、立っているのが夕子でも、なんら不思議はないんじゃないか?
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いつからか、そんな都合のよい解釈をするようになった。それからは観察ではなく、『夕子に会うため』に、ここに座るようになっていた。
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………
また数日過ぎた、ある日のこと。
陽仁は夕子に会いに来ていた。花粉症と風邪をこじらせたのか、喉と鼻の調子が悪く、それぞれに効く市販薬を飲んでいた。
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併用したのがまずかったようで、倦怠感と、副作用なのか重い眠気も相まって、絶不調だった。いつもの席へ、身体を投げ出すように座り込む。
眠い…
両方の目頭を親指と人差し指で押さえ、視線を下げた。
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落ち着いたところで、顔を上げ、夕子を探す。すぐに見つけた。が、様子がいつもと違う。
歩いている?
「外」の奥、他の人が消えていく方を目指して夕子が進んでいる。気づけば、声が出ていた。
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「夕子!!!」
夕子が止まった。
聞こえたのか?まさか。だが、明らかに何かに気づいて止まった。
「頼む、行くな!!またおれから、そんなの、もう…!!」
ガラスに両手の平を押し付けて、言葉にならないままの声を夕子めがけて放った。
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夕子がこちらに正面を向けた。ここからでは顔がよく見えない。
もっと近くに…その願いが通じたのか、夕子がこちらへ歩き出した。みるみる間隔が無くなり、喫茶店の壁をすり抜け、ついに目の前まで来た。いま二人を隔てるのは、ガラス一枚だけだ。
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あるはずの場所に、夕子の顔はなかった。
目も鼻も口もない、その代わりに、黒と灰色の斑模様が、輪郭の中に収まっていた。
それでも陽仁は、夕子であると疑わなかった。
「夕子…」
何から話せばいいだろうか。
伝えたいことは、たくさんあるはず。
ただ、全神経が、夕子を感じ取ることに注がれており、胸が詰まって言葉が上手く出ない。
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「やっと会えた。お待たせ」
悩んだ末、夕子に伝えた。
ガラス越しに、夕子が手の平を重ねた。そして、うつむき加減で、静かに首を横に振った。
「分かっている、連れて行きたくないんだよな。でも、こっちにいる理由は何もないんだ」
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夕子は、ガラスに添えていない方の手で、斑模様の顔を覆った。涙も嗚咽も出ないが、体を震わせ、泣いていた。
「行こう」
陽仁はそう告げ、席を立った。
もうここへ座ることはない。
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………
三佳は、事故当時もっとも近くにいた人物として、警察からの聴取を受けていた。
「よく来る方でした。いつも、あの席に座って、外を眺めてて。常連の方だからというのもありますけど、なんか、ちょっと気になったので、ときどき様子を伺っていたんです。でも、今日に限って、ちょっと目を離した時間が長くて…気づいたときには、もうあの上に立っていました」
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警察は、自殺とみている。おそらくそれで間違いないだろう。
時刻は17:35、男性が飛び降りた。
この喫茶店は四階にある。駅構内は吹き抜けのようなつくりだが、転落防止のため、ある程度高さのあるガラスが通路に立てられている。誰にも止められずに上まで登り切れる高さとは思い難いが、見ているようで誰も見ていないのが公共の場の常だ。
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何気なく外を見た三佳の目に入ったのは、ガラスの上に立つ男性の姿だった。咄嗟に駆け寄ったが、それ以上、三佳に出来ることはなかった。次の瞬間には、男性の体が炸裂する音と悲鳴が響きわたっていた。
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席に残されていた男性の持ち物から、花粉症の薬と、風邪薬が出てきたらしい。可能性は薄いが、同時に服用した際に、幻覚症状などが発生するリスクは調べておくとか、さっきそんな話がされていたと思う。
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警察には根拠は言えないが、三佳は、薬のせいでないことをほぼ確信していた。
飛び立つ直前、いつものように座って外を見つめながら、男性は手を空中に伸ばしていた。ちょうど、何かに触れようとしているかのように。
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伸ばした手の先、錯覚だと思ったが、明らかに、ガラスから伸びる手のような黒いもの…
さっと見ただけでは何本あるのかわからないほどの数だった。
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そして、男性が座っていたあたりのガラスにあった、無数の手形。
男性がつけたものかと思ったが、少し小ぶりで、丸みがあるように見える。何より、「黒い手」同様に、ものすごい数…
しかも全て、喫煙席の外側からつけられていた。
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(止められたかも…)
目の錯覚で終わらせていなければ。
恐怖というより、男性を救えなかった後悔が、なぜか三佳の心に強く残った。
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………
凄惨な事象が相次いだため、「出る駅」として、一部マニアの間でしばらく語り草となった。これらのことが原因なのかは不明だが、三佳の勤め先だった喫茶店は閉店が決まり、転勤することになった。
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「喫煙席、片付けてきます」
この店舗での最後の営業が終了した。客足が落ち着いており、利用者もいなかったので、つい20分前に喫煙席は片付け終わっていた。閉店作業前に一服を、と、三佳は自動ドアを開けた。
一応、忘れ物や目立つ汚れがないか、再確認する。
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「あれ?」
あの男性の特等席、テーブルに空の灰皿が乗っていた。先ほど全て片付けたはずだが…
その灰皿を使うことにした。三佳は自分のたばこに火を点け、咥えた。
結局、彼が何を見ていたのかは謎のままだ。
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煙を吐きながら、ぼんやりと外の風景へ目をやった、そのときだった。
どこから現れたのか、駅の奥の方へと、男女の二人連れが歩いて行く。
(え、どういうこと、浮いてる…?)
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駅構内は吹き抜けのようになっている。つまり、こちらに背を向けている二人は、足場のないはずの場所を歩いている。
思わず、三佳は両目を擦った。次に見たとき、二人は居なくなっていた。
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「出た、のかな」
恐怖はなく、待っていた人に会えたような、不思議な気持ちになった。
もう少しゆっくりしていこうか。
静かにたばこを消し、三佳は二本目を取り出した。
作者Иas brosba