会社に行って帰宅して寝るだけみたいな生活をしている俺に、最近小さな楽しみができた。会社ではこの内向的な性格が災いしてかほぼ友人と呼べる者もおらず、一日の内に口を開くことと言えばほぼ業務連絡のみ。仕事が終わり誰にもアフターファイブ誘われることもなく、電車に乗る。そんな日々を過ごしている俺に、最近駅から5分程度歩いた住宅街のアパートの一室のベランダから、幼い姉弟が手を振ってくる。自分では子供に好かれるタイプでもなかったし、正直最初は戸惑って微笑み返す程度だったが、あまりに熱心に毎日手を振ってくるので、ある日手を振り返してみた。
「おじちゃーん、お帰り~。」
そう声をかけられて、俺は思わず苦笑いした。そうか、あれくらいの子供にとっては、20代でももう俺はおじさんなんだな。子供に他意はない。見ての通り、俺はしょぼくれたサラリーマンのおじさんだ。
毎日のように手を振って自分の帰りを待っていてくれるようで、まるで父親にでもなったような気分になっていた。ところが、俺はあることに気付いてしまった。その子供たちの後ろの暗闇に溶けるように女が凄い形相で立っているのが見えたのだ。母親だろうか。きっとあれは不審者を見る目に違いない。しばらく俺を見つめていると思ったらすっと暗闇に消えていくのだ。
その日からは、いくら子供たちが手を振ってきてもチラリと見るだけでそそくさとそのアパートを去るようにしていた。何も悪いことをしたわけでもない。ただ手を振り返しただけで、母親にあんな形相で睨まれてはたまらない。
数日後、子供たちは道路に面した玄関で座り込んで俺を待っていた。待っていたと感じたのは、俺が通りがかると子供たちがぱっと笑顔になり俺に手を振ったからだ。
「おじちゃん、何で最近手を振ってくれないの?」
姉と思われる女の子が俺にそう尋ねて来た。
「あのね、あまり知らないおじさんに簡単に声をかけないほうがいいよ。」
俺がそう彼女を諭すとその子はなんでなんでとしつこく食い下がってきた。
「世の中にはね、子供をさらったりする怖い人もいるから気をつけなね。」
「おじちゃんはそんなことしないよね?」
「うん、しないよ。でも周りの大人の人はそうは思わないんだよ。たとえば、君たちのママとか。」
「・・・ママ」
「うん、そう。ママが心配するからあまり知らない男の人にお話ししないほうがいい。」
「殺された。」
唐突に幼子の口から殺されたという言葉を聞き俺は驚いて聞き返した。
「え?殺されたって?」
「・・・ママ」
「ママが殺されたの?」
俺がそう尋ねると二人は黙り込んでしまった。何気なく視線を感じて二階の窓を見るといつも姉弟が手を振っているベランダの大きな掃き出し窓の暗闇からこちらを睨む女が見えた。これはマズイ。俺はそそくさとその場を去った。幼い姉弟は俯いたまま玄関に立ち尽くしていた。
俺は自分のアパートに帰ってからも、あの姉弟の姉と思われる女の子が口にした「殺された」という言葉の意味を考えていた。子供というものは往々にして時々突拍子もないことを言うものだ。そう自分に言い聞かせながらも、あの暗闇の中にいつも溶け込むようにしてこちらを睨んでいる女は実はすでにこの世の者ではないのだろうかという妄想にとりつかれてしまった。
よせばいいのに、俺は姉弟のことが心配になり、あのアパートに足を向けていた。もうとっぷり日も暮れているというのに、そのアパートには灯り一つ点いていない。どこかに出かけたのだろうか。俺が下からじっとその部屋を見つめていると、街灯の灯りを受けてぼぅっと窓辺に黒い女の影が映った。
「ひぃっ!」
俺は異様な女の視線に一歩退いて電柱に足を取られて転んでしまった。
「ちょっと、あなた、ここで何をしているんですか?」
上からのぞきこまれて見上げると、そこには警察官と思しき顔が訝し気に俺を睨んでいた。
「べ、別に、何も。」
「通報があったんですよ。妙な男がアパートの下から覗いてるって。ちょっとお話を聞かせてもらえますか?」
「お、俺は覗きなんてしていませんよ。」
「そちらのアパートに住んでいる女性から通報があったんですよ。一緒にきてもらえますよね?」
そんな、ただ俺は・・・。
「いつも私の部屋に向かって手を振ってきたり覗いたりして気持ち悪いなって思ってたんです。」
「毎日ですか?」
「ええ、毎日。私、ストーカーだと思って。怖くて。」
「でも、男は、あなたのお子さんが手を振ってくるから振り返しただけだと言っているようですが。」
「・・・私に子供はいません。二人いましたが・・・亡くなりました。火事に巻き込まれて・・・」
女はそう言うと顔を両手で覆い泣き始めた。
「お子さんは、上が女の子で下が男の子ですか?」
「ええ、そうです。何故知っているんですか?」
「あなたの部屋を覗いていた男がその子供たちに話しかけられたと言っているんです。」
「嘘ですよ。だって、自宅が火事にあってこのアパートに越してきたんですから。一人で。子供たちがいるはずがない。」
「まあ、とにかく、あの男には警告しておきましたから。今後一切あなたに近づかないようにと。」
「その男は、子供たちに会ったと言ってるんですか?」
「ええ、まあ。妄想だと思いますがね。しかも、殺された、とか」
「殺された?」
「ええ。子供たちがママは殺されたと。」
そこで警察官は失笑した。
女は何故か顔面蒼白になった。
女は警察署を出ると、ずっと考えていた。あの覗き男は子供たちの姿を見ていたのか。もうこの世に存在するはずもない我が子達の姿を。
熱い、熱いよ、ママ。炎のゆらぎに溶ける我が子を見ていた。ごめんね、あなた達がいるとママ、あの人と幸せになることができないのよ。ママはもう疲れ切っていたの。人生をね、リセットしたかったのね。でも、ゲームみたいには上手くいかないものね。パパが出て行って、あなたたちも居なくなって、ママはこれであの人と新しい人生をスタートできるって思ったら、あの人に逃げられちゃった。
殺されたのはママではない。でも、愛梨は上手く通りがかりのお兄さんに伝えることができなかったんだよね。それとも、怖くてママに殺されたって言えなかったのかな?あの男、どこに住んでいるのかしら。
俺は暗闇が怖い。今もあの女が電柱の影から暗闇に溶けて待っている。俺にはわかる。あの女だ。もうあのアパートの前を通るのはやめて一切関わっていないのに、どうしてあの女はずっと暗闇で俺を監視しているのだろう。
「あの男を殺さなきゃ。でないと、私、幸せになれないから。」
暗闇でギラリと銀の刃が光る。
作者よもつひらさか