田辺 薫、27歳。独身、年齢=彼氏いない歴。
人は私のような女を喪女と呼ぶのだろう。職業は漫画家。とは言っても、定期的に仕事があるわけでもない。実際はアルバイトと掛け持ちで、とても漫画一本で自立して生活できるほどではない。コミュニティー能力に長けているわけでもなく、ただ惰性のまま生きている。そんな自分の生活にそろそろ年齢的に焦燥感を感じている。
そんな私の生活に、ささやかなご褒美ともいえる出来事が起きた。見た目通りどんくさい私は、自宅アパートの階段で足をくじいてしまったのだ。
慣れないパンプスなど履いて、ハローワークに行ったのがまずかった。もう漫画で食べていけるかもしれないという夢を捨てて、どこかへ就職しようかと考えたのだ。だが、アラサー女に正規で働かせてくれるような甘い会社などなかった。
傷心のまま、二階の自宅へと帰る途中、階段を踏み外してしまい、足をくじいて動けなくなってしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
私に声をかけてきたのは男性で、恥ずかしさから私は慌てて立ち上がろうとして、やはり立ち上がることができなかったのだ。
「救急車、呼ぼうか?」
男性の顔を見上げると、超絶イケメン!
「だ、大丈夫です。」
緊張してどもってしまった。言葉とは裏腹に私は一歩たりとも動くことができなかった。
「肩につかまって。」
こ、これは!なんというラッキー展開。だが、足は死ぬほど痛い。
「す、すみません。」
私はイケメン男性に肩を貸してもらい、彼の腕が私の脇腹を抱えた。
初めての経験だった。男性に触れられるのは、体育の時間のフォークダンス以来か。足を引きずりながらもなんとか自宅玄関に辿り着くことができた。私は恥ずかしさと申し訳なさで、深々と頭をさげた。
「本当にありがとうございました。」
「大丈夫?歩ける?本当ならソファまで連れてってあげたいのだけど、女性の部屋に入るのもあれだから。あ、ちょっと待ってて。」
その男性は慌てて隣の部屋に駆け込んだ。え?隣、確かこの間まで空き部屋だったような。
すぐ取って返して来た男性の手には白いシップが握られていた。
「ちょっと冷たいよ。ごめんね。」
そう言うと私の足首にそのシップをあてがってくれた。
「あ、挨拶が遅れてすみません。僕、二日前から隣に越して来た沢田といいます。」
そう言うと彼がぺこりと頭を下げた。年齢は私より、少し上くらいだろうか。
「わ、私は田辺と申します。よろしくお願いします。引越し早々、ご迷惑をかけちゃってすみません。」
「いえいえ、当然のことをしたまでですよ。無理しないでね。お大事に。」
そう微笑むと、私の隣の自宅へと帰って行った。これは漫画で言えば、恋愛フラグ!ここからお隣さん同士、徐々に距離が縮まって・・・。私は玄関の壁を伝いながら鏡を見て現実に引き戻された。
「なわきゃないよな。この風体じゃあ。」
少し太めの体に、リクルートスーツの前ボタンがめり込んでいた。この重い体を支えてくれただけでもありがたく思わなくちゃ。ため息を吐く。
それから三日くらい、彼と顔を合わせることもなかった。
その日はゴミの収集日だった。玄関を出るとばったり彼に出くわした。
「おはようございます。」
爽やかに微笑む彼。私は先日助けてもらったお礼を言おうとすると先に彼が話しかけて来た。
「ご挨拶が遅れてすみません。先日隣に越して来た沢田と言います。よろしくお願いします。」
そう言うと彼は微笑みながら頭を下げて来た。
「えっ?」
私は戸惑った。つい三日前挨拶したばかりなのに、もう忘れられた?しかも隣の私の部屋までねん挫した私に肩を貸してくれて、シップまで貼ってくれたのに。キョトンとしている彼に私は慌てて、
「い、いえ。こちらこそよろしくお願いします。」
と取り繕った。私は一人で浮かれていただけなのだ。彼にとっては私など記憶にも残らない程度の存在なんだと思うと急にあれこれ妄想したことを恥ずかしく思った。
「重そうですね。持ちますよ、それ。」
私の抱えているゴミを指して彼は手を差し伸べた。
「い、いえ、大丈夫です。」
「本当に?遠慮しないで。」
「本当に大丈夫です。ありがとう。」
そう言うと私はそそくさと彼の前からゴミを持って立ち去った。
こんなお菓子やインスタント食品のパッケージが詰まったゴミなんて恥ずかしくて見せられない。それより、やはり彼に忘れられていたことはショックだった。
数日後のゴミの日にまた今度はゴミ収集所で出会ってしまった。
「おはようございます。田辺さん。足のけがはもう大丈夫?」
彼は心配そうに私のねん挫した方の足を見た。えっ?数日前出会ったときは、私のこと忘れていたのに、どういうことだろう?
「え、ええ。大丈夫です。」
「あまり大丈夫そうじゃないね。病院行った?もっとシップあげようか?」
「あ、あのっ・・・」
私はそう言うと口ごもってしまった。
「どうしたの?田辺さん。」
「私、沢田さんに忘れられてるのかと思いました。」
「え?どうして?」
「えーと、数日前、沢田さんからまた引越しのご挨拶をされたので。」
そう伝えると、沢田さんは急に黙り込んでしまった。何か悪いことを言ってしまったのだろうか。
「ああ、それはたぶん弟ですよ。弟の琢磨です。僕は兄で和樹。」
「双子なんですか?」
「そうなんです。お伝えしてなくてすみません。」
なんだ、そうだったのか。悩んで損した。ということは、私の隣にはイケメン双子の兄弟が住んでいるということになるのか。それにしても、どちらも優しくて親切なことには間違いない。こんな完璧な男性二人が隣だなんてなんてラッキーなのだろう。
どちらが琢磨さんか和樹さんなのかまったく見分けがつかなかった。これほどまでに瓜二つの人間は見たことがない。
ある日街で沢田さんを見かけたので、私は思い切って声をかけてみた。
「沢田さん、こんにちは。えーと、和樹さんかな?琢磨さん?どっちだろう。」
すると沢田さんは驚いたように振り向いてこう言ったのだ。
「あのー、どちら様でしょうか?」
「え?あの、隣の・・・田辺です。」
そう言われても彼はキョトンとしていた。気まずい空気が流れて、慌てて私の方からそれじゃあと話を切り上げて立ち去ってしまった。沢田さんは不思議そうにいつまでも私を見送っていた。
何かがおかしい。いくら私が平凡でも隣の何度も話をしたことのある人間をこんな短期間で忘れるだろうか?次の日、私は廊下ですれ違った沢田さんが挨拶をしてきたので、疑問に思っていたことをつい口に出してしまった。
「あの、この前、街でお見掛けしたのは、和樹さんだったのでしょうか?それとも琢磨さん?」
「え?街で、ですか?お会いしましたっけ?」
もしかして私はからかわれているのだろうか。そんな疑念が頭を持ち上げると、たまらなく悲しくなってしまった。私は沢田さんに好意を持ってしまっていたのかもしれない。そんな自分を恥じた。勝手に舞い上がてしまってバカみたい。ちょっとイケメンに親切にされたからって。やっぱり顔が良い男って性格悪いのかな。一人で私が意気消沈していると、
「どうしたの?何かあった?」
と沢田さんが声を掛けて来た。
「今、沢田和樹さんなんですか?それとも琢磨さん?街で出会った時にはどちら様って言われたし。私、からかわれてるんですかね。」
自分でも嫌な言い方だと思いながらも口をついて出てしまった。
「僕は和樹です。ごめん、田辺さんに隠していたことがあります。」
思わぬ言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「隠していたこと?」
「ええ。ここでは何ですから、ちょっとそこの喫茶店でお話しませんか?」
沢田さんはそう言いながら、アパートの前にある小さな喫茶店を指した。
私達はアパートの階段を下りて、その喫茶店に移動した。
「実は僕、双子だって言ったの、嘘なんです。」
「え?嘘?」
「ええ。こんなこと、会ってすぐのあなたに言うのも憚られたので言わなかったんですが、実は僕、多重人格者なんです。」
「・・・そうなんだ。」
「僕の中には、自分ではよくわからないけど、何人か人格があるらしくて、それが原因で友人も恋人も失いました。」
「そうだったんですね。知らずに勝手に勘違いしてごめんなさい。」
「たぶん、街で田辺さんが出会ったのは、和樹でも琢磨でもない別の人格の僕です。」
そう言うと彼は深刻な顔で俯いた。
「そんな辛いことを話させてしまってすみませんでした。本当にごめんなさい。」
「いいえ、いいんですよ。ずっと悩んでて、こうしてあなたに話すことができて、少しほっとしました。これからもご迷惑をかけることがあるかもしれないけど、僕を嫌いにならないでください。」
「えっ?嫌いだなんて、そんな。」
私はそう言いながらも、耳が赤くなるのを感じた。別に意味深な言葉ではない。落ち着け自分。
「今まで誰にも話せなかったんです。話しても理解してもらえないと思って。」
誰にも話せなかったことを自分に話してくれたという期待感で胸は高鳴ったが、自分にこれは好意ではなく悩み相談なのだと言い聞かせ理性を保とうとした。
「大丈夫ですよ。話すことで沢田さんが楽になるのなら、私いつでもお話聞きますから。」
可哀そうな沢田さん。今までずっと悩んできたんだね。
「ありがとう、田辺さん。ねえ、田辺さん、下のお名前はなんていうの?」
「え?薫です。」
「じゃあ、これからは薫さんって呼んでいいかな。」
心臓がバクバクした。今まで男性に下の名前で呼ばれたことなんてない。これ以上喪女を期待させないで。
「い、いいですよ。どうぞ。」
私は恥ずかしくて小さな声でそう返答すると俯いてしまった。
「じゃあ薫さんも、僕のこと、和樹って呼んでいいからね。」
ああ、もう駄目だ。これで好きになるなというのが酷だろう。心の中の私が、惚れてまうやろーって叫んでいる。その夜はほぼ眠れなかった。少しだけウトウトしている時に、やけに表が騒がしいので目がさめた。それと同時に何か焦げ臭いにおいが漂ってきた。何?この臭い。玄関口の隙間から煙が漂ってきた。
「か、火事?」
そう言ったとたんに、玄関ドアがけたたましくドンドン叩かれた。
「火事ですよ!田辺さん!早く逃げて!」
慌ててドアを開けると、廊下はすでに煙に巻かれており、ハンカチで口を押えた管理人さんが立っていた。私は管理人さんと慌てて階段を駆け下りて避難した。一階の一番奥の部屋から火が出たらしく、外に飛び出した時には、火の手は二階へと延びていた。避難したアパートの住民の中に彼の姿を探した。
あの部屋は・・・。
「沢田さん!」
私は叫んだ。そうだ。あの上は沢田さんの部屋。私は消火活動をしている消防士さんに訴えた。
「二階にたぶんまだ人が居ます!」
「わかりました。救助に向かいます。下がって!」
どうか、無事で居て、沢田さん、いえ、和樹さん!
願いも空しく、アパートは全焼してしまった。やはり沢田さんは行方不明だ。私は絶望的な気分になった。その日は近くのホテルに避難した。心配した母親から電話がかかった。実家に帰って来いという。その前に沢田さんの安否が心配だ。私はすぐにテレビをつけて、火災のニュースが入るまでチャンネルを変え続けた。ようやく火災のニュースを目にしたが、やはり沢田さんは行方不明のようだ。出会って間もないが私は彼の安否を心配して涙が止まらなかった。どうか、どこかに逃げおおせていてほしい。こんなことなら、電話番号、聞いておけばよかった。
一睡もできずに朝を迎えた。私はすぐに、朝のニュースをチェックした。
「昨日未明、〇〇区のアパートを全焼する火災が発生しました。アパートの焼け跡から複数の遺体が発見され、身元を確認中です。」
私は複数という所に引っかかってしまった。確か、私が記憶するところによると、和樹さん以外の住人は全員避難していたはずだ。私の方があのアパートには長く住んでいるので、だいたいの住人の顔は覚えている。一階と二階に四部屋ずつの小さなアパートだ。管理人さんと自分を含めての7人が無事だったのは確認している。
数時間後、昼の情報番組でアパート火災のことが全国ネットで放送された。
「謎!一部屋から12体の遺体が!」
画面に大きなテロップが出て、私の目はそれに釘付けになった。
「昨日未明、〇〇区のアパートを全焼する火災が発生しました。住人8名のうち、7名は無事避難、一人の男性が行方不明になっていましたが、その男性の部屋で12体の遺体が発見されました。」
嘘でしょう?和樹さんは独り暮らしだって言ってた。なんで12体もの遺体が?
その謎は大いにワイドショーを賑わせた。その後、もっと驚愕すべき事実が判明した。
「なんと、12体全てのDNAが一致したんです!」
興奮気味に焼け跡からリポーターが実況中継している。
そんな馬鹿な。あり得ない。
「どういうことでしょうか。あり得ないですよね。」
MCも眉間にしわを寄せる。テレビの画面は沢田和樹、その人の在りし日の画像を映している。私は彼のことを何も知らなかった。彼がDNAの研究者の間では名を知らない者はいないということ、彼がDNA研究で名高い研究所で働いていたことも。その研究所が密かに、コンピューター上で設計されたDNAから人間を創り出す技術、ミニマル・セルを研究していたこと。そして、彼自身を複製した誰かはこの死を悼んでいるのであろうか。
そして私は今、目標を持ってそれに突き進んでいる。
彼を作った誰かを突き止める。
代償を払わせるために。
作者よもつひらさか