今日も疲れた。
朝子は、立ち仕事で浮腫んだ足を引きずり、ようやく小さなアパートのドアの前でため息をつくと、チープなドアノブの鍵穴に鍵を差し込んだ。誰も居ないアパート玄関は暗く、手探りでスイッチを探し、チカチカと時代遅れの照明が明滅し、しばらくの間を空けてようやく眠そうな光を放つ。
勤め先のスーパーのタイムサービスで半額になった冷たいお弁当の入ったレジ袋を小さなテーブルの上に置くと、小さな薬缶でお湯を沸かす。
その間に、中古屋で買った古臭い小さなテレビをリモコンでつけて、唯一の暖房である炬燵のスイッチを入れた。
朝子には、記憶がない。
気が付いた時には、病院のベッドだった。身に着けている物からは、何も身元を証明するものはなかったらしく、どうやら交通事故に遭って、ひき逃げされたらしいということだけはわかった。それから数年たっても、朝子の身元はわからなかった。普通なら捜索願が出されそうなものだが、それもなく、ひき逃げ犯もいまだ不明だ。
作田朝子というのは仮の名前だ。作田山で朝に発見され、救急搬送されたので、その名がついたのだ。
体は回復していったが、自分が何者かもわからない朝子は途方に暮れた。施設から紹介された仕事につき、自立する目途がついた時点で、飽和状態の施設から遠回しに自立を促されたので、仕方なく退所した。
私はいったい何者なんだろう。日々生活するだけの人生に、朝子は空しさを覚えていた。
そんな朝子の元に、一通の手紙が届いた。
「長らくお借りしていた物をお返しに伺います。」
白い封筒に差出人の名前は無く、その一行の手紙文には、日時が表記されていた。
「なにこれ、気持ち悪い。」
朝子は、その手紙をゴミ箱に捨てようとして戸惑った。
もしかして、私が何者なのかわかるかもしれない。悪戯かもしれないけど、私を知っている誰かに会いたいという気持ちからその手を止めた。
朝子が渇望していたそれが手に入る時が来るかもしれないのだ。
『私は誰?』
そしてその日が訪れた。その日の朝から、朝子は落ち着かなかった。意味もなく狭い部屋を行ったり来たりした。そして、その時間を少し遅れてチャイムが鳴らされた。
「来た!」
朝子はそっと足音を忍ばせてドアスコープを覗く。女性だ。少し遠くに立って俯いているので顔ははっきりとは見えない。朝子はドアを開けた。
そこに立っていた人物を見て、朝子は目を見開いた。そこには、自分と瓜二つの女が立っていたのだ。
「突然お邪魔してすみません。私、あの手紙を出したものです。」
驚きに言葉を失っている朝子に、さらにその女は言葉を続けた。
「驚くのも無理ありませんよね。自分と瓜二つの女性が訪ねてきたのですから。お話させていただいて構いませんか?」
女はそれとなく中へ入れてもらえるかを伺っているようだ。朝子は仕方なく彼女を中に入るように促した。
小さなテーブルには椅子が一つしかないので、そこに座るように促して、お構いなくと言う彼女にお茶を出した。
「こんなことを言って信じてもらえるかどうかわからないのですが。」
その女性はそこまで話して口をつぐんだ。
「あなたは私が誰であるか、知っているのですか?」
単刀直入に朝子は彼女に聞いた。すると彼女は頷いた。
「私は今日、お借りしていたあなたの人生をお返しに参りました。」
「私の、人生?」
「ええ、そうです。」
「どういうことですか?」
朝子はからかわれているのかと、眉間にしわを寄せた。
それから話す彼女の話はまるでおとぎ話だった。
彼女は別の次元から来た人間だと言うのだ。その世界では戦争が勃発しており、家族は離れ離れになってしまい、彼女は戦火の中逃げ惑っている途中で被弾し、その際の空間の歪みでこちらの世界に放り出されたと言うのだ。
気付けば全く知らない山中のアスファルトの上に倒れており、その隣に全く自分と同じ姿かたちをした朝子が倒れていたというのだ。
彼女は混乱したが、とりあえず朝子の意識を確認するため彼女の肩を叩いたり呼び掛けたりしたそうだ。だが何も反応がなく、彼女は朝子が死んでいると思ったらしい。明らかに様子の違う世界に放り出されて途方にくれた彼女の目に、朝子の物と思われるバッグが転がっていた。
彼女は魔が差した。そしてそのバッグを漁ると中から財布が出てきて、自分の世界とはまったく違う紙幣が出てきて彼女は違う世界に飛ばされたことを確信したそうだ。
元々彼女が居た世界ではそういう次元の研究が進んでおり、平行世界があることは普通に信じられていたそうだ。つまり並行して存在する次元、第三次世界大戦に突入した世界の日本だ。
彼女は財布と共に、朝子の物と思われる運転免許証も見つけた。そこには朝子の住所と名前が書いてあり、彼女にある考えが浮かんだ。
異次元に帰る方法もわからないし、今あそこに帰るのは危険だ。このままこの自分そっくりの彼女になりすますことができるのではないだろうか。
彼女は朝子の免許証を持って、その場を立ち去ったというのだ。それから彼女は今まで、朝子の家族として過ごして来たという。朝子は怒りで震えた。
「私はそんな荒唐無稽な話を聞きたいんじゃないんです。私はいったい誰なの?」
「信じてもらえないのも無理ありません。私自身が最初は異次元の存在を信じていなかったのですから。」
そう言いながら、彼女はバッグからあるものを取り出した。それは朝子そのものの写真が載った運転免許証だった。
「梶原文子」
それが朝子の本当の名前らしい。それでもまだ朝子は信じられなかった。
「あなたの言うことがもし本当だとしても、家族は怪しんだでしょう?だってあなたは赤の他人なんですから。」
「それが、全く怪しまれなかったんです。どうやら、性格や習慣、しぐさまであなたと私はそっくりみたいで。家族のだれも気付かなかったんですよ。」
朝子、『梶原文子』の家族構成は、夫と娘の三人家族、郊外の一軒家に住んでいるという。
「私の元居た世界の戦争が終わったことを知ったのです。」
この女はイカれてるのかもしれない。そう思いつつも朝子は追い払う事ができなかった。
「そんなの、わかるわけないじゃない。あなた言う事が矛盾してるわ。」
「こちらの世界ではまだ研究が進んでいないかもしれませんが、私達の世界では五感以外の能力を高める研究も進んでいて、テレパシーで私の異世界の家族が私を呼んだんです。」
「もう与太話はやめてちょうだい。とにかく私をからかうつもりなら出て行って。」
「とんでもない、からかうなんて。私は、お借りしていた物をお返しにきただけなんです。あなたは梶原文子さんに間違いありません。今まで家庭とあなたの人生を奪ってすみませんでした。これからは、ご家族と幸せに暮らしてください。」
そう言うと一方的に免許証とバッグを渡して出て行ってしまった。彼女の後姿を見送ると彼女は振り向いて手を振り、風景の中に溶け込むように消えてしまった。朝子は今見た物が信じられなかった。
彼女は本当に異次元から来た人間なのだろうか。それとも幽霊?
朝子は免許証を見つめると、その顔は間違いなく朝子そのものであった。朝子は居てもたってもいられずに、電車に乗ってその免許証に書かれた住所を訪ねていた。玄関先で戸惑っていると、後ろから肩を叩かれて驚いて振り返ると、制服姿の若い娘が立っていた。
「お帰り、何やってんの?こんな所にぼさっと立って。」
高校生くらいだろうか。
「あ、あの。どちら様でしょうか?」
そう尋ねると、その娘は噴き出してコロコロと笑い出した。
「やだ、お母さん。からかってんの?もー、冗談止めてよね?」
そう言うと鍵で玄関を開けて朝子を押し込んだ。
わけのわからないうちに家に入り込んでしまい、朝子は戸惑った。
「あー、お腹すいた。なんかない?」
そう言われても朝子はまだ混乱してぼんやりしていた。
「お母さん?なんか変だよ?」
そうこうしているうちに、その家の主人と思われる男が帰ってきた。
「今日は早いね、父さん。」
「ああ、取引先から直帰できたからな。なんだ、飯まだなのか?じゃあ久しぶりにどこか食べに行くか!」
「やったぁ~。私、サイザリアンがいい!」
「そんなところでいいのか?愛菜はおこちゃまだなあ。」
「いいじゃん。美味しいもん、あのファミレス!」
絵にかいたような幸せな風景だった。長年一人で過ごした朝子が渇望した生活がそこにはあったのだ。
朝子はその日から、梶原家で過ごすことになった。たぶん、今までの自分の経験とあの自分に瓜二つの女から聞いた話をすれば、頭がおかしくなったと思われてしまうだろう。
このまま、幸せに暮らせると思っていた。
ところが、記憶喪失の朝子はすでに、その家族に何かの違和感を与えていた。長年の朝子の不在は家族の変化について行けなかった。まるで家族のことを覚えていないのだ。当たり前だ。
朝子は家族の中にいても、全く他人の中に生活している感が拭えなくて、家族も朝子という異物の存在になんとなく違和感を覚えて上手くいかなかった。
「お母さんはおかしい。」
娘はあまり朝子と話をしなくなり、夫は記憶を失い朝子となった女に違和感を覚えて夫婦仲はうまくいかなくなってしまった。そして、家族は娘の独立と共に離散してしまった。
朝子はまた一人になった。
それもこれも、あの私の人生を奪ったあの女の所為だ。私がもし、あの事故であの女に会わなければ。あの女が私の身元を知る物を持ち出してなりすまさなければ。私は、ひき逃げされ記憶喪失になったとしても、家族とやり直すことができたかもしれないのだ。
許せない。
朝子はインターネットで異次元のことを調べ上げた。とにかく異次元に行って、あの女に復讐しなければ気が済まない。朝子はいろんなことを試してみたが、どれもガセネタで、異次元になど行くことができなかった。
朝子は一人電車に乗った。私はこのまま一生一人で過ごし、そのまま人生を終えてしまうのだろうか。人生をやり直すにはもう年を取りすぎている。このまま死んでしまいたい。
電車に揺られているうちに、眠ってしまったようだ。ここはどこだろう?昼間だと思っていたのに外は真っ暗だった。何時間眠っていたのだろう。慌てて立ち上がりまわりを見渡すと乗客が一人も乗っていない。かと言って、終点でもないようだ。電車は走り続けている。車掌を見つけて、今どのあたりか聞いてみようと思ったその時だった。
「次は、きさらぎ~。終点きさらぎ駅です。お忘れ物のございませんようご用意願います。」
とアナウンスが鳴った。
きさらぎ駅?聞いたこともない名前だ。
とりあえずそこで降りて乗り換えるしか無さそうだ。
駅に降り立つと、そこは不思議な駅だった。駅だと言うのに電光掲示板もないし、案内板すらもない。ただ看板にきさらぎ駅とあるだけで小さな改札口には誰も居なかった。
朝子は仕方なく、あてもない始発を待つことにした。しかし、この街の荒みようはどうだろう。まるで戦争後のように建物は壊れ、いたるところに焚火に当たっている人たちが朝子を物珍しそうに舐めるように見つめてきて恐ろしかった。小さな闇市場ようなところから出てくる見たことのある後姿を見つけた。
「私だ。」
いや、たぶんあの女だ。そして、たぶんこれは第三次大戦が勃発した後の日本だ。
朝子はその女をつけた。すると川辺の掘立小屋みたいな家に入って行った。窓からは幸せそうに笑う彼女とその夫、子供と見られる男の子の姿が見えた。
朝子はいつもポケットに入れていたペンとメモを取り出した。
「お貸ししていた物の代金をいただきに参ります。」
そう走り書きするとそっと粗末な玄関から差し入れた。
そして、焚火に当たっている男の傍まで近づくと火のついた薪を一本拾った。
作者よもつひらさか