今日はついていた。
達也は機嫌よく家へ向かって歩いていた。
仕事の用事で同じ課の先輩と一緒に、たまたま家のすぐ近くまで来ていたが、その用事が済んだのがちょうど終業時刻に近かったため、先輩が、会社まで戻っても帰るだけなんだから、ここから直帰しちゃえば?と言ってくれたのである。
ありがたくそうさせてもらい、終業時刻ちょうどぐらいに家の前に着いた。
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しかし、家の前まで来て、何か違和感を覚えた。
家ってこんなにボロかったっけ?
達也が両親と住む家は、立派とまでは言わないが、見た目のよい古風で大き目の日本家屋である。
それがなぜか急に何年分も一気に老朽化したかのように見えるのだ。何となく不気味にさえ感じられる。
表札には間違いなく達也の家族の苗字が書いてある。冬の夕暮れ時のせいか。
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家の戸には鍵はかかっておらず手を掛けると簡単に開いた。
普段から用心のため鍵はかけておくよう母親に言っているのに、母親はのんびりし過ぎている。
家の中は明かりはついておらず、かなり暗いが、どこかから赤っぽい光がぼんやりと射している。
そしてどこかから何かお経を読むような男の声が小さく聞こえてくる。
しかしその声にはどことなく凄みがあり、本来尊い教えを聞かせるお経とは違う感じがする。
邪教のお経もどきとでも言おうか。
母親に客でも来ているのか。一応「ただいま」と声をかけてみるが、返事はない。
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家の中は暗いが、外と同じようにやけに老朽化した感じがするのはわかる。
靴を脱ぎ、板張りの廊下をゆっくり進む。
電気のスイッチをオンにしたがなぜか点かない。停電か。
母親はどこにいるのか。こんなに暗くては台所で夕飯の支度もできないだろう。停電で、鍵もかけずに外出してしまったのか。
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奥へ進むにつれ、お経もどきの声は大きくなり、やはり家の中から聞こえているのだとわかる。
その声とこの老朽化したような家の雰囲気は、自分の家であるにもかかわらず、禍々しささえ感じさせる。
赤い光の中、廊下の板張りが一部なくなっており、その代わりに格子状の網のような物が張ってあるのが見える。
やはり何かが決定的におかしい。何となくここにいてはいけないような気がするが、母親が心配だ。
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そして奥の六畳間の前まで来て、そのお経もどきの声とぼんやりとした赤い光がその部屋から来ているのだと分かった。
部屋の中にはかなり古いカセットテーププレイヤーが畳の上に直接置かれ、お経もどきの声はそこから聞こえている。
その横には松明のような電灯があり、それが赤い光を発している。それは光源というよりは、暖房のようで、異様な暖かい空気が部屋の中から流れてくる。
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達也は部屋の中へと進んだ。
その凄みのあるお経もどきを読む声は、近くで聞くと不愉快なことこの上ない。
部屋の外からは、新たに、シャランシャランという複数の鈴のような音が近づいてくる。
お経もどきを止めようとプレイヤーのオフボタンに手を伸ばしたその瞬間、背後に気配を感じて振り向くと、部屋の入り口に、時代劇で見たことがあるような、黒い法衣を纏い、頭に笠帽子を被った、僧侶だか侍だかの姿をした男が立っていた。
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その姿に達也は息をのんだ。
一瞬恐怖で身動きができなかったが、指だけは無意識に動き、プレイヤーのオフボタンを押していた。
その瞬間、お経もどきが止まるとともに、部屋が明るくなり、黒法衣の男の姿は消えていた。そして赤い光を放っていた電灯もなくなっていた。
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一瞬何が起こったのかわからなかったが、すぐに自分がお経もどきを止めることにより他の何かをも止めたのだと悟った。
空気に禍々しさがなくなったのが瞬時に感じられた。そして達也はいつもと変らない六畳間に立っていた。
台所では母親が夕飯の支度をしているのであろう、包丁がまな板を叩くコンコンコンという音が聞こえてくる。
家の中はどこもいつも通りに戻っていた。さっきまでのは幻覚だったのか。
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しかし古いカセットテーププレイヤーだけはまだ目の前にある。達也は恐る恐るそれに手を伸ばし、取り出しボタンを押して、中のカセットテープを出してみた。それには薄い黄土色のラベルが貼ってあるが、何も印刷はされていない。
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台所へ行くと、母親は驚いた。
「ああ、びっくりした。達也、音もさせずにいつ帰ってきたの?って言うか何でこんなに早いの?」
「さっき「ただいま」って言ったのに、聞こえなかった?今日は仕事で近くまで来ていて、先輩が直帰させてくれたんだよ。それはともかく、母さん、このお経みたいなテープは何なの?」
「えっ?何それ?どこにあったの?」
「あと、あの古臭いカセットテーププレイヤーはどこから出てきたの?」
「何のこと、それ?」
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六畳間でカセットテーププレイヤーを見せると母親はさらに驚いた。
「何、この骨董品?そんな物、何十年も前に卒業したわよ。達也が持ってきたんじゃないの?」
「まさか。父さんは?」
「今朝仕事行って、当然まだ帰ってないわよ。」
「じゃあ、何で、こんなもんがあるの?誰か家に来た?」
「あっ、さっきまで須藤さんが来てて、今日は高木さんていう人も一緒で、お茶飲みながら話してたんだけど、その高木さん、何かよくわからない宗教みたいのやってて、ちょっとその話でうんざりしてたのよ。」
「その高木さんていうおばさんが怪しいな。」
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「勧誘されそうだったから、きっぱりと私は興味ないって、できるだけ失礼にならないように言ったんだけど、やっぱり気に入らなかったみたいで、罰が当たるとか、呪われるとか、連れていかれるとか、気味が悪いこと言って帰っていったわよ。そんなガラクタ置いていけば私がわざわざ聞いて洗脳されるとでも思ってるのかしら。」
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「やっぱり母さん、さっきのお経みたいの聞こえてなかったんだな。俺が帰って来たとき、すでにテープがかかってて、耳障りなお経もどきが流れてたんだよ。さっき俺が止めたけど。」
「そうなの?全然何も聞こえなかったわよ。」
「これ、ヤバイ物かもしれないから、誰かに相談した方がいいんじゃないかな。」
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達也が先ほど帰って来たときの気味の悪い体験を話すと、呑気な母親もさすがに気味悪がった。
母親自身はずっと台所で夕飯の支度をしていて何も気づかなかったらしい。ただ、達也が現れる少し前までかなり気分が悪くなっていたと言うのだ。
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もし達也があのタイミングでテープを止めていなかったら、どうなっていたのか。
もしあのお経もどきが最後まで読まれていたら、何かが起こっていたのか。
今日あのタイミングで直帰できたのは、本当に運がいいことだったのかもしれない。
あるいは、誰かが達也と家族を救うために、そうなるように仕向けてくれたのか。
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達也はこれで終わったと安心することはできない。
悪意ある相手がまた何かを仕掛けてくる可能性は大いにある。
今回助かったことに感謝しつつ、気を引き締めるのであった。
作者海ぶどう
この話は、つい先日自分が見た嫌な雰囲気の夢と、以前人から聞いた不愉快な体験の話をミックスし、さらに尾ひれをつけた、創作です。