人間の腐乱死体はいつ見ても酷い。
わたしは目の前に横たわる一人の男のそれを見下ろして、思わず顔を拭った。
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その死体はもはや原形をとどめておらず、まわりには何匹もの蝿が飛んでいる。
これがこの人間に課せられた最期であるならば、なんと人生は惨憺であることか、とわたしは思った。
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わたしはこの男を知っていた。
彼の通うコンビニで、わたしは彼に出会った。
彼のことはそれまでにも何度か見ていたので、彼には友人も恋人もないこと、そして職にもついていないことはすでに知っていた。
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わたしは彼のことが気になって、彼にアプローチした。彼は最初は嫌がったが、やがて何もしてこなくなり、わたしは彼の部屋に入ることに成功した。その部屋にはコンピュータが卓袱台の上にあるくらいで、ほかに家具の類はまるでなかった。
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衣類は床に脱ぎっぱなし、食事は常にコンビニ弁当で済ませ、そのゴミはやはり床に散乱していた。
彼は毎日をこの部屋で過ごし、インターネットをいじったりするだけの、なんの生産性もない日々を送っているようだった。
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その部屋の主である彼が死んだいまとなっては、部屋には孤独な腐臭が漂うのみで、殊にいまが夏ということもあり、この部屋の空気はまるで青い地球のものとは思えなかった。
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こんな場所にいられるのは、わたしのような存在くらいであろう、そう思った。
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わたしはこれまでにさまざまな生き物の死体を見てきた。
どんな生き物でも、一度死んでしまえばその瞬間にただのモノへと化してしまう。
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しかし、そんなモノになった死体を、仲間たちがいつまでも手放さずに、あるいは見放さずに、そのそばで一緒に死を悲しむという涙ぐましい光景に、わたしは何度も出会った。
それは人間に特に顕著であるとわたしは思っている。死者を労わるというのは感情をもつ人間のひとつの美点である、と。
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しかし、その事実はかえって一部の人間の死をより残酷なものにもしてしまうのであった。
人間の死体はたいていは火葬されるが、なんの身寄りも所属もない、ちょうど目の前の男のような死体は、誰にも発見されずに何ヶ月も、あるいは何年もの間放置されることがあった。
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この男も、今日でちょうど死体になって一ヶ月が経とうとしていた。
ほかの動物であれば、たとえば狸や熊といった類は、森や山奥で死ぬのが普通で、それらの死体はわたしたちの認知しないところで、ほかの動物の餌となるか、あるいは微生物の活動によって分解され、山の養分として生きることが十分にあり得るが、果たしてこの男は、誰のために死んで、その後は誰によって生かされるのであろうか。
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わたしは、そのような不憫極まりない死体の未来を、よりよくするという使命を担っている。
別に誰に言われたからというものではない。わたしは言わば、自分のために、そして自分の家族のためにやっているに過ぎない。
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しかし、いまは動かない死体にとって、彼らの手にあったはずの未来という時間を、次の生命のために輝かせることは、わたしたちのような存在をなくしては極めて困難であるはずで、決してわたし自身のためだけではないという自負があった。
そして、この男の死に関していうと、わたしは少しでしゃばり過ぎたとでも言えるだろうか。
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つまり言ってしまえば、この男はわたしのせいで死んでしまったのである。
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あるとき、彼は一葉の写真を見ていた。ちょうど陽が沈むくらいの時間であった。閉めっぱなしのカーテンの隙間からは赤い西陽が差していて、それが彼の横顔を照らしていたから、わたしは彼がどのような顔をしているのか、まざまざと見ることができた。
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彼は泣いていたのである。
わたしは彼のそばに行き、彼の手に持っている写真を覗き込んだ。彼はわたしの姿にも気づかずに、ただ肩を震わせていた。それに合わせて、彼の持つ写真も小刻みに揺れて、その震えは随分と続いた。やっと震えがとまったときに、わたしはそれがなんの写真であるか理解した。
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それは彼の幼少期の写真であった。
ぼろぼろの四角の中には、幼少の、ちょうど小学にあがったばかりという彼が、なにかを追いかけ、それに向けて手を伸ばしている様子が、色褪せたインクによって収められていた。
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そのときの彼がなにを追いかけているのか、わたしにはわからない。そして、いまの彼がなにを思って泣いているのか、それもわからなかった。
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自分の幼少期を懐かしんでいるのか。幼い彼は、なにかをつかまえることができたのか、できなかったのか。あるいはその後に彼は転んだのかもしれず、膝や肘の擦り傷の痛みを思い出しているのか。
……その写真を撮った人物は誰で、彼はその人物に想いを馳せているのか。
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……もしそれが、彼の母親であったなら。
わたしは、再び彼の泣き顔を見やると、彼をどうにかしてやりたいという衝動に駆られた。あるいはそれは母性なのかもしれなかった。
わたしには子があり、自らの子に対して施している愛情の、一欠片だけでも、目の前の可哀想な彼に分けてやりたいと思った。
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いつのまにか完全に陽は落ちていて、彼の横顔はもう見えなかった。
やがて彼はそこらに落ちていた布切れを(おそらくそれは衣服ではあるが)手にとると、顔を乱暴に拭った。どうやら涙を拭いているらしかった。
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わたしは彼のそばにいき、できる限り大きな音を立てた。彼はびくりと体で反応すると、間髪いれずにわたしに手を伸ばした。わたしはすんでのところでそれを避けて、彼の背後に回ると、彼は立ち上がってわたしを執拗に追いかけ回した。
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わたしは、彼がこれほどまでに乱暴な男だとは、思ってもいなかった。彼の目は血走っていて、わたしに向かって伸ばす手には明らかに怒りが宿っていた。床に散乱するものすべてを蹴散らす勢いで、部屋中を駆け回っている彼からは、先ほどまで丸まって泣いていた姿は少しも想像できなかった。
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わたしは、ただ彼に楽しんでもらいたい一心で行動したに過ぎない。写真のなかの彼と同じような笑顔を、彼のなかの童心を、蘇らせるきっかけになればいいと思っただけである。
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わたしは無性に腹が立ってきて、絶対に捕まってやらないぞと彼のまわりを挑発するように逃げまわった。
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いま思うと、これがいけなかった。
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もともと運動不足の彼は、足の踏み場もない部屋のなかで走り回って、随分と疲弊していた。そして彼は、ふとした弾みに床に置いてあった雑誌に足を滑らせてしまった。
彼はなにかに掴もうと手を伸ばしたものの、その手は空を切るだけで、受け身もとらずに背中から転倒した。
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大きなどすんという音とともに大量の埃が暗闇の中できらきらと雪のように舞っていた。打ちどころが悪かったのか彼はぴくりとも動かず、それから三日ほどで腐臭が彼の体から発せられたとき、わたしは彼の死を理解した。
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一週間ほどで、彼の体のまわりを蝿が飛ぶようになった。
どこから入ってきたのかと部屋を見渡してみると、ちょうど排気口に穴が見つかったので、そこが第二の玄関となっているようだった。
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わたしは、彼らのうちの一匹と交尾すると、その腐乱死体の顔のところにたくさんの卵を産んだ。やがてそれらは孵化し、わたしの子どもたちは彼の体を養分として、すくすくと成長していった。
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わたしは自分の子どもたちに対する感情でいっぱいで、死体の彼に対してかつて抱いていた傷心も母性も、とうに忘れ去っていた。
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わたしは自分の使命を全うするのに必死だったのだ。
それはこの腐乱死体の未来を、わたしたちの未来と重ねると同時に、決して交わらないところまで決別することでもあった。
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わたしは顔を執拗に前足で拭って、目の前の彼の死体を見た。
そこで蠢いている無数の未来の最期が、決して彼と同じような結果にならないように、願うばかりであった。
作者高坂一啓