ある蒸し暑い夏の夜、私は学生の頃からの親友であるAさんのアパートに赴きました。
私たちは社会人となって以来互いに多忙な日々を送っていたので、こうして会うのは実に久しぶりでした。
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「待っていたぞ」
仕事が終わるとスーツ姿のまま駆けつけた私を、Aさんは快く迎えてくれました。
私たちには積もる話がありましたが、それもほどほどに切り上げると、今日のメインイベントの準備に取り掛かりました。
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私は持ってきた蝋燭に火をつけて合図を送ると、Aさんは部屋の電気を消してしまいました。
テーブルの上では冷房の風のせいか、淡い光がかすかに揺らめいていました。
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「よし、これで雰囲気も万全だな」
意気揚々と言うAさんに違わず、私の胸も高鳴っていました。
私は懐かしい気分に浸っていて、テーブルの火の揺らめきに、かつての思い出を映し見ました。
私たちが高校のオカルト部で出会ってから、実に10年という歳月が過ぎていました。
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「今日はとっておきの話を用意したからな」
彼はすぅっと息を吸うと、ゆっくりと吐きました。
それに合わせて、先ほどまで鳴っていた蝉の声が静まり返るような気がしました。
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「これは俺の同僚の話なんだけど」
彼は昔よりも随分と低くなった声で、静かに話し始めました。
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Aさんの同僚であるBさんは、いまの職場でAさんと出会いました。
Bさんは、都会のこの職場で働く際に田舎の実家を出てきたらしく、はじめての一人暮らしということで最初は四苦八苦していたようでした。
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特に、都会の地価や人口密度は田舎のそれと比にならず、アパート探しには随分と頭を悩ませていました。
Aさんも彼と同時期に入社し、またお互い一人暮らしを始めたという共通点もあって、二人はどんどん意気投合しました。
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二人はよくAさんの部屋で飲んでいました。
次の日が休日である日には、たいていは朝まで飲み明かして、仕事や恋愛について語り合いました。
あるとき、AさんはBさんの部屋にも行ってみたいと言いました。
それまでにも、Bさんの家で飲むことを何度か提案していましたが、その度にBさんは断り、理由を問われても、ただ曖昧に誤魔化すだけでした。
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理由もなく断られ続けて次第に腹が立ってきたAさんは、今日こそはBさんの部屋に行ってやると半ばヤケになっていて、普段よりも強くBさんを問い詰めました。
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最初こそいつものようにはぐらかしていた彼も、Aさんの執拗さについに観念したようで、大きなため息をつくと、静かな声で
「誰かが僕の部屋に住んでいるんです」
と言いました。
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Bさんは相当参っていて、消え入りそうなその声から、彼の悩みがいまに始まったことではないことがわかりました。
しかし、オカルト好きのAさんにとっては、Bさんの不幸がとても魅力的に感じられました。
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詳しく聞くと、彼が住んでいるアパートの部屋に、数週間前から知らない女が住みついているというのです。
Bさんの話によれば、あるとき部屋でひとりで晩酌をしていた彼は、玄関のドアを開ける音を聞きました。
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すでに真夜中を過ぎていたので、Bさんはとても怖かったようですが、そんな彼に構わずドアは開いて、その足音は次第にリビングに近づいてきました。
そして女の姿が現れたとき、彼は恐怖のあまりに失神してしまい、次に目が覚めたときには、すっかり朝になっていました。
そのときにはすでに女の姿は見当たりませんでしたが、床には彼女のものと思われる衣服が散乱していたそうです。
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「それからすぐに警察に相談に行きましたが、ちっとも相手にはしてくれませんでした」
そう言う彼の途方にくれた横顔が、Aさんはいまでも忘れられません。
それからもBさんは何度か同じような目にあっているようで、最近は家に帰らずに、漫画喫茶などで夜を明かすことも少なくないそうです。
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そんな彼を不憫に思ったAさんは、
「俺と一緒にその女を捕まえよう」
とBさんの肩をたたきました。
「僕の話を信じてくれるのか」
「お前の顔を見れば、嘘じゃないことぐらいわかる」
それほどまでに、Bさんは憔悴しきっていました。
Bさんは泣いて喜び、その夕方には酒の入ったビニール袋を片手に、二人でBさんのアパートへと向かいました。
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Bさんの部屋に入るとさっそく、化粧やネイルといった、女性の使う道具が目につきました。
「全部彼女が置いていったんだ」
彼の悲痛な叫びは、真っ白な六畳半の壁に吸い込まれてしまいました。
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ふとAさんが気になったのは、この部屋があまりに女性の部屋っぽいという点でした。
家具はどれも淡いピンク色で統一されていたし、彼の身につけているスーツやジャケットの類はひとつも見当たりませんでした。
かわりに、女物の衣服は床に脱ぎ散らかしてあって、どちらかというと女の部屋にBさんが住まわせてもらっているような感じが拭えませんでした。
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まさか、彼女との惚気を自慢したいのか。Aさんはそんなことを思いましたが、狼狽しているBさんにそんなことを言えるはずもなく、
「今晩は俺がいてやるから、一緒に彼女を捕まえよう」そう言ってやるので精一杯でした。
Aさんの力強い言葉に、Bさんは何度も頷きました。
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最初の頃は、女の襲来を思い終始緊張していたものの、酒の力も借りて次第にいつもの談笑が弾むと、ますます酒の量は増えました。
そして、真夜中を過ぎたときには、二人はいつのまにか眠ってしまいました。
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夜中の二時をまわった頃、Aさんは猛烈な尿意を感じて目を覚ました。
床に転がるBさんは一向に起きる気配はなく、彼は一人で廊下の便所へと向かいました。
廊下の電気のスイッチを探していると、
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がちゃり。
玄関のドアの鍵が外側から開けられる音が、真っ暗な廊下に響きました。
これには流石のAさんも肝を冷やしました。というのも、まわりは真っ暗で、目覚めてから幾分も経っていないAさんの目には、何も見えていないのでした。
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しかし、かえってその暗闇がAさんにとっては好都合でした。
Aさんは急いでリビングのほうに戻ると、テーブルの陰でじっと身を潜めました。
やがて玄関のドアが開いて、人の影が現れました。彼女は玄関横のスイッチを押して電気をつけましたが、Aさんからその姿ははっきりとは見えませんでした。
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どうやら靴を脱ごうとしている彼女は、突然短い叫び声をあげると、なにやら鞄を漁っているような物音が廊下から聞こえました。
おそらく、普段は玄関にないAさんの靴を見て驚いたのかもしれませんでした。そうだとすると、鞄を漁る意図は……。
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……やがて彼女はゆっくりとした足どりで、一歩ずつリビングに近づいてきました。
その手には刃物のようなきらめきが、一瞬見えました。
AさんはBさんの言っていたことが本当だったことを、このとき初めて理解しました。
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Bさんの憔悴しきった顔を思い出して、彼は無性に腹が立ちました。
なんとしてもこの女を捕まえてやる。
幸いにも、このときはまだBさんは目を覚ましていないようで、Aさんは、彼が起きてしまう前になんとかカタをつけてしまおうと考えました。
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刃物を持つ相手には、先手必勝だ。
彼女がリビングに入ろうとしたとき、彼は果敢にも彼女の懐に飛び込んで、その体を床にねじ伏せました。
そして彼女が大声で叫ぶまえに、口元を手で覆いました。
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Aさんは暴れる女を必死で押さえつけ、そして彼女の目から大粒の涙が流れるのを見たとき、
「その女だ!」
いつのまにか目を覚ましていたBさんの怯えきった声が背後から聞こえました。
Aさんは振り返ると、部屋の隅で震えているBさんの姿を見ました。
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「そいつは刃物を持っている、はやくやっつけてくれ!」
彼は泣き叫んでそう言いました。
Aさんは、Bさんに格好をつけた手前、本当は恐怖心でどうにかなってしまいそうなことなど、決して言えませんでした。
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そのとき、
女がなにかを叫びながら抵抗し、彼女の握る刃物が、Aさんのこめかみに向かってくるのがわかりました。
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Aさんはなんとかそれを避けました。
このときには、もはやAさんに理性はありませんでした。
彼は力いっぱいに、女の顔を殴りつけました。
なんども、繰り返し殴りつけました。
Aさんは泣いていました。後ろで、Bさんは泣き叫んでいました。
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気づいたら、血だらけの女がリビングの床に転がっていました。
彼女はすでに生き絶えていました。
しばらくAさんは放心して、その場で立ち尽くしていました。
やがて我にかえったAさんは、どうにかして死体を隠さなければ、そう思って彼女を持ち上げたとき、彼女の鞄から金属の束が床に落ちました。
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それはキーホルダーのついた鍵でした。
それを見て、自分の行動の一切が間違っていたことを、このときに初めて悟りました。
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「普通自分の家のものではない鍵に、キーホルダーなんてつけないからね」
そう言うと彼は、深いため息をついて首を回しました。
冷房の温度は変わっていないはずなのに、部屋の温度はぞっとするほど下がっているように、少なくとも私は感じました。
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彼が話し終えると、窓外の蝉はすべて死に落ちてしまったというように、嫌な静けさが部屋に広がりました。
「……私は、私の考えが間違っていなければだが、三つ君に聞きたいことがある」
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私がやっとの思いでそう言うと、彼は飄々とした感じで
「何なりと」と言いました。
「まず一つ目は、君の話が本当だとすれば、君はその女を殺してしまったんだな」
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怖いくらいの静寂が、私たちの間を流れていく。
「……まあ、そうなるね」
私は彼の答えを聞いて、ゆっくりと深いため息をつきました。
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「……それじゃあ二つ目だけど、君はこの部屋で、一人で暮らしているのかい?」
「いや、それは違う」
彼は間髪いれずにそう答えました。
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私は息苦しい胸の空気を入れ替えるように、何度も深呼吸をしました。
「じゃあ最後に」
再び鋭い静寂が貫く。
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「今日君はもうひとり仲間を連れてくると私に言っていた。それは嘘だったのか」
私の質問に、彼はふつふつとした笑いを漏らし、やがて真顔になると、静かな声でこう言いました。
「最初からここにいましたよ」
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一緒に住んでいますから。
どこから吹いたのかわからない風が、蝋燭の火を奪っていった。
作者高坂一啓