「最近、アウトドアに凝っててよ」
大学の帰りに親友と一杯ひっかけていたとき、彼は私にそう打ち明けた。
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金曜日の夕方ということもあって、昭和風のこじんまりとした居酒屋の店内は明るい賑わいを見せている。
スーツを着たサラリーマンの団体からは、仕事の鬱憤を晴らすような大きな笑い声が飛び交っていて、私たちはそれらの声の間を縫うように、ぼそぼそと世間話を楽しんでいた。
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「アウトドアって……お前休日は部屋でゲームばっかりしてるタイプじゃなかった?」
「以前の俺はたしかにそうだったよ」
そう言う彼の顔はほどよく日焼けしていて、夜通しゲームに明け暮れていたときの彼の青白い顔とは比べものにならないくらい溌剌としていた。
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「海とか山とか前まで散々馬鹿にしてたくせに」
「最初は俺の親戚に誘われて、無理やり連れてかれたんだよ。ちょうど先月の初めくらいに。」
それで、俺の人生は変わっちまったんだよ。彼は楽しそうに言って、ぐいっと酒を煽った。
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「お前にも写真見せてやるよ」
彼は自分のバックからスマホを取り出すと、ひょいひょいと親指で操作して、
「これは先週行った渓流でとった写真」
そう言って私にスマホを放り投げる。
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私が画面を覗きこむと、そこには大学では決して見られないような大自然や、釣竿を握っている彼の親戚たちの楽しそうな様子、美味しそうな焼き魚の写真などが、画面いっぱいに敷き詰められていた。
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「すげー楽しそうじゃん」
私がそう呟くと、彼はいっそう破顔した。私の手からスマホをひったくると、一枚の写真を拡大して、再び私に画面を向けた。
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「俺魚捌けるんだぜ」
写真のなかでは、一尾のヤマメの塩焼きが、ほかの魚とは別の皿に乗せられていて、おそらくそれが彼が捌いたものであることがわかった。
そのヤマメの体表は側線に沿って大きな一本の切り傷がつけられていて、その裂け目にふんだんに塩がまぶせられていた。
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私は写真越しに香ばしい匂いを嗅いだ気がして、思わず唾を飲み込んだ。
「うまそうだろ?」
私は彼の思い通りの反応をしてしまったような気がして少し悔しかった。
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「魚捌くのって、すごく楽しいんだぜ。お前魚の捌き方知ってるか?まず魚の肛門のあたりにナイフを刺して、腹に向かって一直線に……」
そう話す彼の目はぎらぎらと輝いていて、彼が相当アウトドアにのめり込んでしまったことを、私は微笑ましくも、内心厄介なことになったなと思った。
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彼は一度なにかに没頭してしまうと、ほかの一切が見えなくなってしまうような男で、ゲームのときもそうだが、その間は大学の講義もほとんど来なくなり、仕方なく私は彼の分のレジュメをとってやったりしていた。
だが、それももううんざりだった。
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「楽しそうでなによりだけど、ほどほどにしとけよ」
私がそう釘をさすと、彼はにへらと笑うだけで、再び魚の話に戻っていった。
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その次の週末に、私はまた彼と飲む約束をした。というよりも、私たちが毎週末に一緒に飲むのはほとんど習慣になっていて、この日も私たちはいつもの居酒屋で待ち合わせた。
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「あの次の日に、また行ってきたぜ」
遅れてきた彼は、私のテーブルに腰掛けて最初の酒を注文するなりそう言った。
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あの次の日とは、おそらく先週私と飲んだ次の日ということだろう。
私はこの話を初めて聞いた。
というのも、彼がこの一週間ほとんど大学に来ないために、こうやって話をする機会がなかったからだった。
私は週の半ばに一度連絡をいれたものの、返事が返ってきたのは金曜日も正午を過ぎて、内容も今日の約束の確認をするための事務的なものであった。
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「今度は、猟の専門家と……」
「それよりさ、お前学校どうしたん?」
私は彼が自分の話に没頭する前に、なんとか切り出すことができた。
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「いやー、ちょっといろいろやってて」
彼は誤魔化すときのにへらという笑みを浮かべた。それ以上はなにも言う気がないらしく、私を見てにやにやするばかりなので、
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「もうすぐ試験期間やで、来といたほうがいいよ」
私がそう言うと、彼は顔の前で手を合わせてごめんと謝りはじめた。
「一杯奢るから、許してくれ」
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私は途端に自分が真面目にしているのが馬鹿らしく感じ、せっかく彼と飲むのだから楽しもうという思いもあったので、
「二杯で許す」
と彼に向かって笑いかけることにした。
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「そんで、猟の専門家って何?」
彼の話そうとしていた話の続きを実は気になっていたので、私はそう切り出した。彼の表情はぱっと明るくなり、堰を切ったように話し始めた。
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「俺の親戚が猟師にコネがあるみたいで、それで俺も猟させてもらうことになったんや。猟だけじゃなくて、ウサギの捌き方なんかも教えてもらって、実際に捌いてみたりしたんや」
そう言って彼はスマホをとりだすと、目にとまらぬ速さで指を動かして、私に見せる準備を始めた。
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「待って」
「ん?」
「グロい写真じゃないよな?」
私はぼちぼち運ばれはじめた料理を前に、彼の写真が食欲が削ぐようなものであることを懸念してそう言った。
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「大丈夫やで。調理後の写真だから」
私が何か言う前に彼はスマホを向けるので、私はその写真を見ざるをえなかった。
あらかじめ拡大されたそれは、皮を剥がれて丸焼きにされたウサギであった。その背中の部分には二筋の切り込みが入っていて、そこに野菜やら米やらが詰めてあるようで、丸焼きというよりか蒸し焼きに近かった。
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これまたいかにも美味しそうなので、空腹だった私は自分の注文した焼き鳥にかぶりつきながら、
「ほかにも写真ないの?」
と画面に手を伸ばした。
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「あっ、それはダメ」
彼はスマホを持つ手を引っ込めると、慌てたように画面を確認した。
彼の顔からは一切の表情が奪われ、日焼けしていたはずの肌が以前と同じ酷く青ざめて見えた。
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私は彼の一連の動作に戸惑いながらも、もっとみせてよ、とテーブルに乗り出した。
しかし、私に向けられた彼の眼差しが、ひんやりと冷たいものだったので、私はスローモーションのように元の位置に戻った。
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そのあと私たちはどこか気まずい雰囲気のなか、なんとか楽しい談笑を試みたものの、以前のように会話は弾まず、早々にお開きにすることにした。
店の前で別れると、私は夜の街を自分のアパートに向かって歩きはじめた。
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冷たい外気に晒されて、幾分か酔いが冷めてくる。私は先ほどの彼の写真について、ぼうっとした頭で考える。
朧げだった記憶は次第にその色を取り戻し、ひとつの現実になって蘇ってくる。
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そうだ。私は、見てしまった。
彼がスマホを引っ込める前に、私の指はウサギの写真に触れ、拡大された写真が元どおりに戻り、そしてフォルダ全体が映し出された一瞬で、私は見てしまったのだ。
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フォルダいっぱいに横たわる、血みどろな猫の死骸を。
それは一匹の死骸か、あるいは複数なのか……。
いずれにしても、それは頭が潰されて腹からは温かそうな内臓がとびだしていた。
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そして。
私はウサギのすぐ隣の写真の猫の背に、大きな三本の切り傷が刻まれているのを、この目ではっきりと見てしまった。
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だらしなく横たわるその背中の、ちょうど川の字のような、決して偶然ではなく意図的につけられた裂け目からは、毛に埋もれた白い肉が見えていた。
あの一瞬ではその一枚を見るのが精一杯で、ほかの写真がどのようであったかははっきりは思い出せない。
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だから。
私は、平静を装って、彼がスマホを引っ込めたあとに、彼がフォルダの全体が表示されたスマホの画面を確認したあとに、わざともう一度それを見せてもらうように頼んだのだ。
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いつのまにか私はアパートの前にたどり着いていて、二階の部屋へと続く階段を、無意識のうちに数えながら登った。
見慣れた古いドアを前にして、これまでの思考がすべて嘘のような気がしてきた。
そうだ。嘘に違いない。
あるいは。
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「そういえば、一杯奢ってもらうの忘れたな」
私は明るく努めてそう呟くと、背後の階段を冷たい足音が駆け上がってくるのを聞いた。
彼の襲撃に、私のなす術はなかった。
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朦朧とする意識のなか、私の背中には、果たしてどのような数字が刻まれるのだろうか、そんなことを思った。
その答えを知ることは、私にはできなかった。
作者高坂一啓