私は、いつからここにいるのだろう。
どれほど前のものかわからない記憶を頼りに、私はこの地下室に入ることになった経緯を整理した。
それくらいしかすることがないから、私はいつまでも同じ思考のなかをぐるぐると彷徨っていた。
nextpage
たしか……
separator
私はこの街の内戦の悪化に伴い、市民の安全の確保および治安の回復を目標として自衛隊として派遣された。
私たちが到着したときにはすでに銃弾や砲弾が飛び交っていて、地面には数えきれない死体、あるいは肉片がごろごろと落ちていた。
nextpage
私は絶対にこうはなるまい、そう思った。
私には愛する妻と二人の娘がいた。再び彼らに会うために、私はどんな方法でも生き延びてやる。
私のこの決意に、私のもっとも親しくしている友人は、涙を流してくれた。
彼には妻も子供もないようで、まるで私の家族を自分のもののように気にかけてくれた。そんな彼の存在が、この戦場ではとても心強かった。
そうして私は、まるで地獄のような日々を、なんとか生きながらえていた。
nextpage
そんなある日、私は自分の任務を終えて拠点に戻ると、彼が一人で床に座って俯いているのを見た。
彼のほかには誰の姿もなく、私は彼に声をかけた。
私の声に反応してこちらを向く彼の顔はくしゃくしゃで、まるで雷雨をもたらす黒い雲のような不吉な予感を漂わせていた。
nextpage
「全員死んだんだ」
ほかの者の所在を訊ねると、彼はついに涙を流してそう言った。
「俺たちは、もうだめだ」
「まだ終わったわけじゃないだろ」
しっかりしろ!と檄を飛ばしても、彼は明らかに正気を失っている様子であった。
そして、
nextpage
……私はこの地下室の中で、彼に受けた打撃の痛みが後頭部に蘇るように感じ、思わず頭をおさえた。いまはない大きな瘤の熱を、いつまでも指先は覚えていた。
nextpage
あのとき、彼をなだめようと近寄る私を、彼は乱暴に突き飛ばすと、近くに転がっていた棒のようなもので、私の頭を殴ったのだ。
そして私は気を失った。次に目を覚ましたときには、私はこの地下室に横たわっていた。
nextpage
そこまで思い出すと、私ははらわたが煮えくりかえるような怒りを覚えた。
彼は、自分の安全と引き換えに、私の命を差し出したのだ、そう思った。
私は、彼のせいでこうして地下室での生活を強いられている……。
nextpage
「くそーー‼︎」
私は激情のままにコンクリートの壁を殴りつけた。無意味に叫びながら、何度も力任せに拳を壁になじった。
いまがいつで、ここがどこかもわからない。
いまの私は、私の知らない誰かに与えられる食事によって生かされている、ただの捕虜でしかなかった。
nextpage
やがて疲れ果てた私は、試合を終えたボクサーのように、壁に寄りかかって座り込んだ。
無気力な目で部屋のなかを見回す。
一面が煤けた灰色のこの空間には、汚れた和式便所のほかに、食事を供給するための小さな穴が壁に開いているだけであった。
その食事も握り飯ひとつとボトルに入った水という、捕虜に与えるのにふさわしいような質素なものであった。
nextpage
しかし、ほのかにあたたかい白米の握り飯が、いまの私にとってはどれだけありがたいことか。
そのうちに私は、まるでパブロフの犬みたいに、穴の前を人影が通過するのを確認すると涎を垂らすまでになった。
友人に裏切られた私にとって、その握り飯は唯一の救いであった。
nextpage
私は立ち上がると、穴の前に移動した。直径三十センチほどのこの穴から部屋の外を覗くと、部屋のなかと同じような灰色の空間が広がっていた。
コンクリートの壁の厚さは五十センチほどあって、食事はいつも穴の中に置かれていた。
というよりも、放り投げられていたと言うほうが合っているかもしれない。
nextpage
私は一度、食事を置く何者かの手を掴もうと試みた。誰が私に握り飯を与えているのか、気になったからだ。
しかし、無残にも私はその手を掴むのに失敗し、それ以来、部屋の外の何者かは穴に手を入れるというリスクを一切に犯さなくなった。
nextpage
私はこの部屋からの脱出の手段を考えた。まさかこの小さな穴からは脱出は不可能ではあるが……。
大きなため息をつくと、ふと顔を上げて、再び穴を見た。
それは固いコンクリートの穴で、直径も三十センチほどなので、どうやっても私の体は入りそうにない。
それならば
nextpage
私は、どうやってこの部屋に入れられたのか?
部屋の壁には窓や扉の類はなく、外とつながっているのはこの穴のほかには見あたらない。
nextpage
もしかして、隠された扉があるのではないか。
私は直感的にそう思うと、手当たり次第に壁を調べ始めた。
はたして、それは穴のすぐそばにあった。
nextpage
分厚いコンクリートにはかすかに切れ目が入っていて、私はそれをめいっぱいに押すと、壁の一部はがががと擦れるような音を立てた。
しかし、荒いコンクリートどうしが噛み合ってか、それきりびくともしなくなった。
nextpage
それは空腹の私にとって相当な重労働であった。しかし、ここから脱出しなければ、私は一生家族に会えないかもしれない。
それよりも
ここから脱出できれば、あの握り飯を鱈腹食べられるかもしれない。
nextpage
私は最後の力を振り絞って、体当たりをするように思い切り壁を押しやった。
がりっ、と鼓膜を裂くような音が響き、壁はやがて向こう側に勢いよく倒れた。
急に抵抗を失った私は、壁とともにそのまま前方に倒れこんだ。
nextpage
もくもくと舞う砂埃がおさまるのを、荒い息を整えながらしばらく待っていた。
そして、あたりに先ほどの静寂が戻ったとき、
……目の前にはビニールの袋に包まれた、握り飯があるではないか。
nextpage
一瞬我が目を疑った。
しかし、白米の香ばしい香りが嗅覚を刺激すると、嬉々としてそれに飛びついて貪るように食べた。
nextpage
まるで私が地下室から脱出することを予期していたみたいに、それは穴の中ではなく、穴のそばの床に転がっていて、私はこれは神様の救いに違いない、そう思った。
nextpage
あっという間に平らげると、やっとの思いで部屋から脱出できたという安堵感から、私は大粒の涙を流した。
しかし、悠長にはしていられない。まだ、助かったわけではないのだ。
私は腕で乱暴に涙を拭うと、私は地上へと繋がる出口を探すため、笑う膝に鞭を打って立ち上がった。
nextpage
幸いにも誰にも見つかることなく、私は地上へと繋がる階段を見つけることができた。
目線の先にはぼんやりと淡い光が確認できた。ゆらゆらと揺れているのは、おそらく私が泣いているからであろう。
私は溢れる涙を置き去りにして、一歩ずつ階段を上っていった。
nextpage
もしかしたらその先には敵が待っているかもしれない。そんな不安が次第に募っていく。
それでも、私は足を止めることができなかった。
これまでに十分すぎるほどの絶望を味わった。
もういいだろう?
私は見上げると、絞るような声でそう言った。
nextpage
次第に目の前にある段数が少なくなっていく。
ぼんやりとした光が鮮明になっていき、そのなかに形ある光景を見たとき、
nextpage
「どういうことだ」
私は思わず呟いた。
目の前にあるのは、たしかに私たちの拠点であった。
私のなかでは複雑な感情が渦巻いていた。
敵のアジトではなかった安堵感。この場所で友人に殴られたときの驚嘆、絶望、はらわたの煮えるような怒り……。
nextpage
何度目をつぶっても、再び目を開ければ、そこはたしかに私を気絶させた棒が落ちている、私たちの拠点であるのだった。
それでは、私は、なぜ地下室に監禁されなければならなかったのか。
nextpage
「ああっ!」
私は自分の視界の片隅に入った一人の男の姿を見て、思わず叫んだ。
それは、私を殴った、そして私を地下室に監禁した張本人であろう、友人の姿に違いなかった。
私は彼から思わず目を背けた。
それまでに彼に対して抱いていた怒りは、少しも湧きあがってこなかった。
nextpage
再び彼に目を移す。
彼は、文字通り骨と皮だけの状態で、生き絶えていた。すでに腐臭がしていて、見開いた目からはどろんとした眼球がいまにも落ちそうだった。
私は、いままでの自分を後悔せずにはいられなかった。彼に対して抱いていた怒りの矛先は、いまはすべて自分に向けられていた。
nextpage
あのとき、彼が私を殴ったのは、私を助けるためだったのだ。
私は度々彼に家族の話をしていて、彼は心から私に同情してくれた。
そんな私を家族のもとに戻すために、彼はわずかな食料のすべてを私に与えるために、私を地下室に監禁したのではないか。
nextpage
私の目からはとめどなく涙が溢れた。
私はこれまでに食べてきた握り飯の味を思い出した。あの温もりは、彼の思いやりの温度であった。
私は彼に生かされていたのだ。
nextpage
ふいに涙が止まるのを感じた。
しかし……
いや、やはりよそうか。
nextpage
私は彼に歩み寄り、彼の亡骸を抱えると、建物の外に向かって歩き始めた。
私の眼差しに、少しも迷いはなかった。
私は、家族に会わなければならない。彼のためにも。そして、自分のためにも。
nextpage
それまでは、あの握り飯のことを考えるのは、よしておこう。
久しぶりの青空には、引っ掻いたような飛行機雲が、何本も走っていた。
作者高坂一啓