オイちゃんと初めて出会ったのは、大学の入学式の日だった。
遠目からも、彼は大変目立っていた。
背が高く日に焼けた肌、短い髪は脱色しているのかアッシュグレー。スーツ姿はキマッていたが、サーファーがうっかり場所と服装を間違えて紛れ込んでしまったようで、僕とは違う人種だと瞬時に思った。
ところが、式が終わりさぁ帰ろうと荷物をまとめていると、その彼がこちらに近づいてきた。
難癖をつけられる覚えはないと身構えた僕に、彼は言った。
「浪人生なんだって? 俺も俺も。よろしくな」
なんでそんなこと知ってんだよ、と僕は少し憮然としたが、彼が白い歯を見せて笑った途端、チャラいサーファーは苦労人に変わった。
脱色と思えたアッシュグレーの髪は、近くで見ると明らかに若白髪だったからだ。
僕の脳裏に、工事現場で学費のために汗を流して働く彼の姿が浮かんだ。通常より時間はかかったが、ようやく大学に入学できたのだろう。僕は自分の勘違いを恥じ、彼を勝手に見直した。
ーーまぁ結局、すべて勘違いだったわけだが。
彼は別に苦労人でもなんでもない勉強不足の浪人生で、若白髪は単なる体質だった。
何より驚いたのは、僕と彼とが同い年だということだ。てっきり、十歳近く年上の社会人入学だと思っていた。髪のせいもあるが、それほど彼は老け顔だった。
入学後しばらくしてその事実を知り大げさに驚いた僕を、その反応に慣れているらしい彼はため息とともに小突いた。
彼は自分の老け顔を受け入れているらしく、入学早々おじさんを意味する「オイちゃん」というあだ名をつけられても、それがすっかりクラスに浸透しても、抵抗することはなかった。
そしてそんな彼と僕が、お互いの家を行き来するほど仲良くなるのに、さほど時間はかからなかった。
・・・・・
ところで、入学して半月ほどした頃から、僕には奇妙なものが見えはじめた。
あるはずのないものが、あるはずのないところにある。有り得ない造形の動物らしきもの。無機物が意思を持ったように動き回る。生きている人間の隣を、明らかに死んだ人間が歩いている。
そしてそのことに、僕以外の誰も気がつかない。
後にそれは、事故でほぼ失明した左目のせいだと判明したのだが、当時はとにかく周りのすべてに恐怖し、混乱していた。
それでもなんとか学校に通っていたのは、家でも外でも奇妙なものが見えるなら、まだ友人のいる学校の方がマシだと思っていたからだ。
でも、そんなかすかな希望はあっさり打ち砕かれた。
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「おぅ。おはよ」
教室に入った時、オイちゃんがいつものように軽く手を挙げた。なぜか初夏だというのに、首に太いマフラーを巻いている。
「オイちゃん、風邪でも引いたの?」
そう尋ねようとする前に、マフラーがゾロリと動いた。
それは、僕の太腿ほどもある蛇だった。
もちろんただの蛇ではない。蛇の頭は、女のそれだった。
長い髪を鱗にまとわせ、白い顔、赤い唇。塗りつぶしたような黒い瞳に、白目は青いほど澄んでいた。
多分きっと、蛇の体や状況の異常性を抜きにしたら、大変な美人なのだろう。
しかしその蛇女は、僕のことをものすごい形相で睨みつけていた。鋭い牙がむき出しになり、眉間や鼻の頭に皺が寄るほどに。
今だから言えることだが、当時僕は色々な奇妙なもの見て怯えていたが、それらは「見える」だけで、僕に害を加えようとすることはなかった。見えるだけ、あるいは、僕を見ているだけ。
しかし、その蛇女は明らかに僕に激しい敵意を向けてきた。その目の鋭い光は、紛れもなく憎悪だった。
悲鳴をあげないのが精一杯だった。
「おい、なんだよ!」
そんなオイちゃんの声を背に、僕はその場から一目散に逃げ出した。
そして、その日からアパートに引き篭もった。オイちゃんから何度も連絡があったが、返事もできなかった。
それからしばらくして、僕は怪異を見てしまう原因と、その対処法を教えてもらうことになる。
我ながら単純だが、左目を隠して恐ろしいものが見えなくなると、もうそれだけでもいいやという気になった。左目が奇妙なものを映すことは受け入れ難かったが、諦めと慣れとが僕を手助けし、やがて外にも出られるようになった。
学校は一ヶ月ほど休んでしまったが、僕は無事復帰することができた。
明日は久しぶりに登校するという夜。
緊張からか、不思議な夢を見た。
夢の中で僕は、一寸先は闇、という感じの暗闇の中に座っている。僕の前には対面して座っている誰かがいて、顔はまったく見えないのだが、なぜかそれはオイちゃんだとすぐにわかった。
「ごめんなぁ」
オイちゃんが、本当にすまなそうにそう言った。
「怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、こいつが俺が思った以上に嫉妬深くてさ。いくら仲がいいとはいえ、男にまで敵意むき出しにするなんて思わなかったんだよ。お前も、俺が思った以上に見えてたみたいだし…。もう二度としないよう、こいつにはよく言って聞かせたから。ほんと、悪かったよ」
なんのことかさっぱりだったが、オイちゃんが何を言いたいのかはわかった。
もういいよ。気にしないで。
そう言ったつもりの自分の声は聞こえなかったが、オイちゃんが白い歯を見せて笑った気がした。
そんな夢を見た。
朝になって、僕は左目を眼帯で隠して学校に行った。
「おぅ、おはよ」
まるで僕が来るのを知っていたかのように、何事もなかったような顔で、オイちゃんが軽く手を挙げた。
「いいじゃん、それ。中二病かよ」
オイちゃんはそう笑ったが、僕の眼帯について理由を尋ねることはしなかった。
まるで何もかも知られているようで、なんでだよ、と僕は勝手に憮然とした。
恐る恐る、眼帯を少しずらしてオイちゃんを見ると、やはりあの蛇女は首に巻きついていた。が、僕の方は見ようともしなかった。
まるで見せつけるように、オイちゃんの頬に赤い唇を寄せたりはしていたが。
・・・・・
ところで僕は以前、オイちゃんの若白髪について、染めないのかと尋ねたことがある。
オイちゃんは、「興味はあるけどなぁ」と頭をかきながら、
「体のどこもいじらない、って、約束したからなぁ。ちょっと無理だな」
大して残念そうでもなく言った。
一体誰が、オイちゃんにタトゥーやピアスはともかく、毛染めまで禁止しているのか。それは何故なのか。
なんとなく怖くて、それは訊けなかった。
オイちゃんの話は、これにておしまい。
作者カイト