桜がそろそろ散り始める季節。暗くなり始めた空には、細い三日月が浮かんでいた。
ごった返す週末の電車に乗り、僕は終着駅に降り立った。
多くの路線が集まるこのターミナル駅は、デパートや映画館が入った大型複合施設を併設している。いつでも人が溢れて賑やかで、どこに何があるのかわからないほど広く、小さな町のようだった。
改札を出て、僕は左目を覆う長い前髪をかき上げた。
途端に、それまで人間が占めていた駅の雑踏に、奇妙なものが混ざり始める。
豚の顔をしたサラリーマン。OL風の女性の足元にまとわりつく小人。蜘蛛の大群が通路を這い回っても誰も騒がず、若者がたむろして寄りかかっている壁からはたくさんの青白い手が突き出ている。そして、あちこちにうずくまったり佇んだりしている、大量の影、影、影…
ようやく見慣れてきたそれらを無視するよう心がけ、僕は周囲を見渡した。なんとなく、東口の方向に当たりをつけ、一直線に出口へ向かう。
外に出ると、大きなロータリーが目の前に広がった。人の声に加えて、車の行き交う音、どこかの店の有線放送、駅前居酒屋の呼び込みなど、騒がしさと混雑ぶりに拍車がかかる。
そんなざわめきの片隅に、先生はいた。
大きなコインロッカーに挟まれるようにして、小さな老婆が小さな机を前にしてちょこんと座っていた。『占』と書かれたこれまた小さな看板が、目立たないところに置かれている。
「先生」
近づいてそう声をかけようとした僕は、慌てて口をつぐんだ。机を挟み、先生よりもっと小さな人影が俯いて座っていた。
お客だ。まだ小学生くらいの少女だった。
僕は息をのむ。
小さな体を覆い尽くすようにして、黒い霧のようなものが少女に被さっていた。よく目を凝らすと、その霧は小さく揺らめきながらも、一つの形を保っているのがわかった。
それは鬼だった。
少女に対して大きすぎる鬼が、彼女におぶさるようにして、後ろからその細い首をしめていた。
・・・・・
nextpage
僕には、人生の先生と仰ぐ人物が一人いる。
彼女はハルさん。一見どこにでもいそうな、小さなお婆さんだ。
職業は占い師。ハル、というのは占い用の源氏名で、本名ではないらしい。
僕がハルさんと会ったのは、大学に入学してしばらく経った頃だった。もうすぐ丸二年が経つ。
僕は大学入学前の事故で、左目をほぼ失明している。以前は2.0だった視力は、今や明暗を区別できるだけとなってしまった。
しかしそのこと自体は、僕にとっては大したことではなかった。
見えなくなった左目が、代わりに映すようになったもの。それが大問題だった。
僕の左目は、いわゆる幽霊とか妖怪とか思念とか呼ばれる、本来なら目には見えない、存在すら危ういものたちを、はっきりくっきり映すようになってしまった。
それらは、僕にとって恐怖の対象でしかなかった。家にいても学校にいても、歩いていてもちょっと寄り道したコンビニでも、とにかくどこにいても奴らの姿は目について、逃れられなかった。
藁にもすがる思いで、僕は地元の病院に行くことにした。事故の後遺症で脳に障害が出たのでは、と思ったからだ。
地元へ帰るために行った駅、ハルさんと出会ったのはそこだった。
ハルさんの周りには、僕を恐怖させるものたちは何もなかった。
「怖かったろうねぇ」
ハルさんは小さい子供に言うように僕を慰め、泣かせてくれ、怪異を見なくて済む方法を教えてくれた。
僕はハルさんに、弟子にして欲しいと頼んだ。古臭い言い方だが、この人について学びたいと思ったのは後にも先にもこの時だけだった。僕はそれほど切羽詰まっていたし、ハルさんにはそれほどの魅力があった。
ハルさんは、頼んだ僕が拍子抜けするくらい、あっさり「いいよ」と言ってくれた。
「見えるのに知らないってのは、やっぱり怖いからねぇ。あたしが知ってることはなんでも教えてあげるよ。あたしも、そうしてもらったからね」
ハルさんは占い師として、大きな駅の構内に毎晩看板を出している。
とはいっても、店舗や決まった場所があるわけではない。ハルさんは小さな折り畳み机一つを手に、その日自分の気に入った場所に腰を据える、半分流しのようなスタイルの占い師だった。
弟子についた僕は、駅に着いたらまずハルさんを探すことから始めなければならない。
最初の頃は、広い構内を闇雲に探し回り、ようやくハルさんを見つけた時にはもう終電、というパターンがしょっちゅうだった。最近になってやっと「こっちかもしれない」という勘のようなものが働くようになり、ハルさん探しもずいぶん楽になった。
毎週末の三日間、僕はハルさんの元を訪れる。しかしそこで何をしているのかといえば、正直何もしていない。
僕としては一応、弟子というか雑用の心持ちで、ハルさんが喉が渇いたと言えばお茶を、小腹が空いたと言えば駄菓子を差し出す。でもそんなことすら滅多になくて、後はひたすらハルさんの横に座って、駅を行き交う人々を、左目で眺めている。
僕の左目が映す奇妙なものたちはどこにでもいるのだが、人が多く集まる場所というのはまた格別だ。数も多いが、おどろおどろしさが跳ね上がる。もう、禍々しいといってもいいくらいだ。
そんなものたちに囲まれた状態でも、ハルさんの隣にいれば不思議と恐怖が和らいだ。
ハルさんの周りは、まるでバリアが張られているようだった。僕は例えるなら、潜水艇乗組員として分厚いガラスに守られた安全な船内にいて、ゆっくり間近で深海魚を眺める、そんな気分に浸ることができた。
そんな僕にハルさんは、
「あの男の後ろに付いている蛇は、嫉妬心が形を持ったものだよ。あんなにたくさんの目で見張られちゃあ、いくら恋女房でもゲンナリするねぇ」
「あの娘は、あんなにいい匂いを周りに振りまいて、大丈夫かね。見てごらん、あの娘の歩いた足跡に花が咲いてるよ。変な虫まで呼び寄せなきゃいいんやけど」
「ほらあの爺さん、頭にもう一つ口がついてるだろ。気をつけな、なんでも欲張って欲しがってると、あんたもああなるからね」
と、行き交う人々にくっついた怪異を解説してくれた。
なんて恐ろしい、と僕は怯えたが、ハルさんに言わせればこんなことは当たり前らしい。
「人間が普通に生きてりゃね、妬んだり恨んだり争ったり、そんなの当然なんよ。あれらは人のそういう気持ちに敏感だから、あんな風にすぐに群がるけど、だからってクヨクヨせんとドンと構えてりゃ、大体のことはなんてことないんやから」
気にしない気にしない。よくそう言ってカラカラと笑った。
ハルさんは『占』の看板を出してはいるが、お客が自分から寄ってくることはまずない。そのため、一日ただ座って過ごすだけの日も多い。
ではどうするのかというと、ハルさんは、自分のお客は自分で選んだ。
僕に声をかけてくれたように。
ハルさん曰く、「電車に飛び込みそうな顔」をしている人に声をかけるらしい。
隣で見ていても、僕にはそれがどんな顔なのかわからない。暗く落ち込んだ人ばかりに声をかけるわけではないからだ。
でも、ハルさんの隣に座って流れる人の波を眺めているうちに、ハルさんが声をかける人の共通点に気がついた。
彼らはどこかしら、体の一部が黒かった。
下半身に黒いモヤがまとわりついている人。
まるで刺青のように、露出した肌すべてにびっしりと唐草模様が刻まれた人。
顔の右半分を黒塗りにしている人。
話をしてみると、口内がまるで墨を飲み込んだように黒い人もいた。
あの時、僕もそうだったのだろうか。そう思うと、今でもゾッとする。
ハルさんに呼び止められた人々は、初めは訝しみ、次々と悩みを言い当てられて驚愕し、やがて首を垂れて時には涙を流しがら感謝を述べるのが常だった。
ハルさんがそれらの人々に何を話すのかといえば、至極現実的で具体的なアドバイスだ。
「それは主任じゃなくて課長に相談してみて。きっと話を聞いてくれるから」
「食べないと頭も働かないよ。少しずつでもいいから、朝なにかお腹に入れてから学校に行きなさい」
「隣県の叔父さんが助けてくれるよ。連絡してごらん」
占い師なのだか相談員なのだかわからない。
でもそれを聞くたび、僕に「左目を隠せばいい」と言って眼帯を差し出してくれたことを思い出す。
・・・・・
nextpage
ハルさんの前で、少女は泣いているようだった。しきりに顔を手で拭う。そしてその手を何度も、まるで虫を払うかのように頭や肩の上で振った。
少女がそうするたびに、彼女に覆いかぶさる黒い霧は一旦は散るのだが、すぐまた鬼の形に固まってしまう。
少女の首を絞める腕に、力がこもった気がした。
ふいに、ハルさんが立ち上がった。そして少女の頭上の鬼を睨みつけて何事か言うと、フゥッと息を吹きかけた。
するとたちまち、鬼は文字通り霧散してしまい、再び形をなすことはなかった。
それを見届けると、ハルさんは僕に手招きをした。邪魔にならないように、と離れて見ていたのだが、お見通しだったようだ。
「西口を出てすぐのところに、交番があるやろ。この子をそこに連れてってあげよ」
慌てて近づいた僕に、ハルさんはそう言った。
「け、警察ですか?」
「占いのハルからだと言えば、向こうは大体わかるから。詳しい話は、あんたが自分でするんだよ。できるね?」
予想外のことにうろたえる僕をよそに、ハルさんは少女へ向き直る。
少女は小さく頷いたが、僕を見上げて怯えた表情をした。
近くで見ると、少女は余計に小さく見えた。十歳くらいだろうか、ひどく痩せて顔色も悪い。肌にも髪にも艶がなく、パサパサとしていた。
「この人は私の弟子だよ。大丈夫、安全な所まであんたを必ず守ってくれるから。安心しよ」
「……」
「でも、そこから先は自分で助けを求めないといけないよ。天は自ら助くる者を助く。あんたのために、まずはあんたが動かなきゃいけない。できるね?」
少女はハルさんと僕を交互に見て、今度は大きく頷いた。
その拍子に、長い髪に隠れていた少女の首が一瞬露わになる。僕は先ほど、霧の鬼がその首をしめていた光景を思い出してドキリとしたが、細い首には指の跡などまったく付いていなかった。
ーー首には。
うなじの少し下、服に隠れるか隠れないかギリギリの場所に、黒く変色した大きな痣が見える。
僕は、みぞおちに大きな石を放り込まれた気分になった。
僕は少女と手をつなぎ、ハルさんに言われた通り西口の交番に向かった。
ハルさんの名前を出すと、初老の警官は「後は任せなさい」と顔を引き締め、少女の肩を抱いた。
・・・・・
nextpage
「お疲れさん、あんたの来る時で助かったよ」
重い足取りで戻った僕を、ハルさんはそう労ってくれた。
「ハルさん、あの…」
僕のみぞおちには石が詰まったままだ。僕はとにかく、それを解消したかった。
「あの子、大丈夫ですよね?」
「…それは、あの子次第やね」
ハルさんは小さくため息をついた。
「占いなんかやってるけど、あたしは未来を見通すことはできんから、確実なことは言えんよ。できるのは助言だけ。あの子自身が自分のために踏ん張らんと、事態はいい方向には向かわん。あんな小さな子供に鞭打つようで、つらいけどね」
「あの子の後ろに鬼のようなものが見えました。取り憑かれていたってことですか?」
「憑かれていたのはあの子じゃなくて、その親だよ」
やっぱり。
少女のうなじの痣を見て予想はしていたが、決して聞きたい答えではなかった。みぞおちの石は、軽くなるどころか重さを増した。
「でも、先生が祓ってくれたんですよね? もう大丈夫なんでしょう?」
「あれは、親に憑いてる奴の残り香みたいなもんだよ。それを吹き飛ばしたくらいじゃどうにもならない。そもそもね、親に憑いてる鬼を祓えたところで、すべてが解決するわけじゃないんだよ。鬼が憑いたから親が悪くなったのか、親が悪いから鬼が憑いてきたのか、それもわからないんだし。世の中、元凶は一つと決まっちゃいないんだから。あの子が良い人生を歩めるよう、あたしたちはもう祈るしかできないね」
世の中は、物語にあるような勧善懲悪の世界ではない。一つの原因を取り除いて、それですべてがうまくいくなんてことはほとんどない。
そんな現実を突きつけられたようで、僕はうなだれた。
しかも今回のことは、僕自身に降りかかったことではない。僕は完全に蚊帳の外の人間で、ハルさんに呼ばれてちょっと蚊帳の中に首を突っ込んだだけ。そんな僕には、知ったような顔であの少女の行く末を案じる資格もない… そんなことまで考えて、ますます落ち込んだ。
すると、
「そんなことないよぅ」
ハルさんはまるで僕の頭の中を読んだかのように、そう言ってカラカラと笑った。
「渦に巻かれてる最中ってのは、自分のことも周りのことも見えなくなってるもんだよ。外からそんな自分の状況を見て助言をくれる人物がいなきゃ、渦を抜ける前に力尽きちゃう。それに、冷静な情けは相手の力になるんだから。あんたは、その役目を担えるようになんなさい」
「…僕も、ハルさんのようになれますかね?」
「あたしのように?」
ハルさんは目を丸くして、その後優しく細めた。
「あんたは、堅気の世界で頑張りなさい」
僕の弟子入りをすんなり認めてくれたハルさんだったが、僕がハルさんの跡を継ぎたいことをほのめかすと、いつもやんわりとたしなめた。それを聞くたびいつも少し寂しくなるが、親心だということも十分すぎるほどわかっている。
「さて、一仕事したら、なんだか小腹がすいたねぇ。なんか新しく、すいーつのお店ができたんだろ? ちょっと買っといで」
「ハルさん、よく知ってますねぇ」
「毎日駅にいたら、嫌でも耳に入るんだよ。ほら、行った行った」
ハルさんに急かされながら、僕は「すいーつのお店」とやらを探しに歩きはじめる。
先ほどまで感じていたみぞおちの石の重みは、半分くらいに減ったような気がした。
・・・・・
nextpage
ところで僕は、ハルさんがお客から見料なるものをもらっているところを見たことがない。
僕が初めて会ったときも、なんだかうやむやになってしまって払っていないし、他のお客にしても同じことだ。
また、僕は弟子という形でハルさんに付いているが、指導料のようなものを払うよう言われたこともない。
それについてハルさんに尋ねると、
「いいのいいの。貰うべきところからは、きちっと貰ってんだから」
と、カラカラと笑った。
どうやって生計を立てているのか、僕と一緒にいない時のハルさんが何をしているのか、僕はまったくと言っていいほど知らない。それどころか、ハルさんの年齢や出身や、そもそも本名でさえ知らない。
よく考えれば知らないことだらけなのだが、ハルさんが僕の人生の先生であることには間違いないし、おそらくこれからも変わらないだろう。
そんな僕の先生の話は、これにておしまい。
作者カイト