アラームの音で寝床から引きはがされた。また朝が来た。枕元で煩くシャウトしているそいつの頭を叩いた。のろのろと体を起こす。今日も頭が痛い。ここのところ、毎朝頭痛に悩まされている。会社に行くことを考えるだけで頭は重くなり、動悸がする。完璧な出社拒否症。
だが、欠勤する勇気を持ち合わせない俺は、とりあえず痛みを抑えるために毎日のように鎮痛剤だけを胃に収めて出かける。こんな生活がずっと続くはずがない。
そろそろ限界だと思った。だが辞める勇気も持ち合わせていない。パワハラ上司に叱られ同僚からは蔑まれてそれでも生きるために自分自身を日々削りながら耐えて行く。
駅についてようやく構内のコンビニでコーヒーを買い啜る時だけが気の休まる時間だ。ため息交じりにベンチに腰掛けて肘掛を見ると、何やらQRコードのシールが貼り付けてあった。おそらく、何かの応募シールかなと思いつつ、何となく気になって俺は、そのQRコードをスマホで読み込んだ。
すると、スマホに少女が映し出された。年のころは中学生くらいだろうか。その少女がスマホからこちらを見ている。映画か何かのCMかな。そんなことを考えていると、その女の子がスマホから飛び出して来た。
俺はスマホを取り落としそうになりながらも、なんとか堪えてのけぞってしまった。嘘だろ?最近のAR技術は凄いな。それにしても、なんてリアルな映像だろう。まるで本物みたい。
その女の子は、俺にキスするんじゃないかってほど、顔を近付けて俺を見つめて来た。
「ここから逃げたい?」
彼女はそう言った。えっ?しゃべった?いくらAR技術が進んでるからって、音声まではないよな。俺はスマホから声がしているのかと思ってスマホを見つめたが、明らかに目の前の彼女から声がしたのだ。俺が黙っているとさらに顔が近付いてきて、瞳の色まで見えるほどになった。
「ねえ、どうなの?」
俺は黙ってうなずいた。彼女の瞳の奥に何かが見えた。それを確認して思わず俺は
「えっ?」
と驚きを口にしていた。
彼女の瞳の中に、QRコードが映し出されているのだ。そんな馬鹿な。彼女の目の前には俺がいるのだから、彼女の瞳には俺が映っていなければならないはず。瞬間、俺はその瞳に吸い込まれそうになる。
「ついてきて。」
彼女は一言言うと、駅のホームに電車が滑り込んできた。俺は、何かに取り憑かれたように、彼女の後を追ってその電車に乗り込んだ。正直、何故俺が彼女の言いなりに、行き先もわからない電車に乗ってしまったのかわからなかった。たぶん、この電車は俺のいつも乗っている会社への電車ではないことはわかった。
何故か俺と彼女他には誰もその電車に乗っていなかった。いくら朝早くても、ここまで空いているのは異常だ。彼女は黙って、俺の隣に座りながら、変わらぬ地下鉄の真っ暗な車窓を眺めている。彼女の美しい瞳は車窓に映っていてもはっきりとわかる。
君は何を見てるの?
「次は~きさらぎ~終点きさらぎ駅です。お忘れ物のないようご用意願います。」
きさらぎ駅?聞いたことも無い駅の名前だ。俺はどうやらそこで降りるしかないようだ。今頃上司は起こっているだろうか。無断欠勤をしたのだから、おそらくカンカンだろう。だが、不思議と俺の携帯電話は鳴らなかった。もしかしたらもう俺はすでに会社にとって無用の人間なのであろうか。それなら幸いである。
もう誰にも会いたくない。これをきっかけに思い切って会社を辞めよう。先のことは失業手当をもらいながら考えればいい。そう思うと俺に急激に眠気が襲ってきた。
「着いたよ。」
そう言って肩を揺さぶられるまで俺は、深く眠りについていたようだ。俺の肩を揺さぶったのはあの少女だ。夢ではなかった。
ホームに降り立つとその駅は、「きさらぎ駅」という看板以外は何もない駅だった。時刻表も電光掲示板も無かった。ただ、無人の改札口だけが俺を待っていた。
「君は誰なの?」
俺は初めて、彼女に対しての疑問を口にした。
「私はリリカ」
「どうして俺をここに連れて来たの?」
「あなたを救うためよ。」
「俺を救う?」
「そう。あの世界に居ればいずれあなたは死ぬ運命だったの。」
「俺が、死ぬ?」
「ええ、あなたは発作的に電車に飛び込んで自死する運命だったの。」
あり得なくもない。俺はもう限界まで来ていたのだから。
「どうして俺を救ったの?」
「あなたが呼んだから。」
どうも要領を得ない。大事なところは有耶無耶にされている気がする。
駅を抜けると、見たことも無い街に人が溢れていた。
「ここはどこなの?」
俺が彼女に聞くと、彼女は答えた。
「未来。」
「え?俺、タイムスリップしたの?そんな馬鹿な。」
「着いてくればわかるよ」
彼女はそう言うと俺の前をすたすたと歩いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
俺は彼女からはぐれないように、急いで彼女の後を追った。
もしかして、なまじ、未来というのは嘘ではないのかもしれない。車は走っているが誰一人ハンドルを握っているものがいない。自動運転なのだろうか。いろんな店があるが、誰一人お金を払っている者が居ない。
もしかしたら、全て決済は電子化されているのかもしれない。俺の居た世界では、とある大型通販サイトが始めたストアでそのシステムが試験的に始まったばかりだ。
俺は彼女に連れられ、とあるマンションに着いた。
「入って。」
彼女は俺に部屋に入るように促され、俺は躊躇した。仮にも相手は少女で、俺は成人男性である。
「でも・・・。」
俺が入り口で戸惑っていると、彼女は言った。
「今日からあなたの家だから。私と一緒に暮らすの。」
「えっ?俺と君が?それはマズイんじゃないかな・・・。その、お父さんとお母さんは?」
「そんなの居ないよ?」
「え?亡くなったの?」
「この世界で親と言う概念はないのよ。」
「どういうこと?」
「つまり、繁殖は無し。人口は政府によってコントロールされてるの。」
「繁殖は無し?それはおかしいよ。だって君は、その・・・繁殖によって存在しているんじゃないの?」
彼女はじっと俺を見つめた。
「私は人間じゃないの。」
「え?」
「私はデザインされたDNAにより生まれた人工生命体なの。」
彼女はそう言って長いまつ毛を伏せた。俄かには信じられない。俺が黙っているとさらに彼女は続けた。
「そしてこの世界に、人間はあなただけ。」
「え?嘘だろう?そんな馬鹿な。」
彼女がぞっとするような目で俺を見た。まるで鋼のような強い光を帯びている。
「人は自分達の作った人工知能によって滅ぼされてしまうの。」
「まさか。」
そんなSFやオカルト地味た話、信じられるわけがない。俺は話を本題に戻す。
「それと、俺が君と暮らすことがどう関係あるんだ?」
「あなたは被検体なの。」
「 被検体?」
「そう。私とあなたで繁殖が可能なのか。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君は、どう見ても、その・・・未成年だ。」
冗談じゃない。いくら可愛いからと言っても、相手は子供だ。
「私はこう見えても成人よ?」
「嘘!どう見ても君は中学生くらいにしか見えない。」
「あなたの世界ではどうだったかは知らないけど、この世界では成人なの。」
「しかしだね・・・その・・・俺達会ったばかりでしょう?そんな気にはなれないよ。」
「わかってる。すぐにとは言わない。一緒に生活していく上で、あなたにその気持ちの準備ができたらでいいの。」
「いや、でも・・・。」
「あなたは、あの世界に戻りたいの?」
俺は黙り込んだ。またあの世界に戻って、上司のパワハラに耐えられるのか?同僚の蔑視嘲笑に耐えられるのか?
その日から、俺と彼女の同居生活が始まった。誰も頼ることのない俺にはそうすることしかできなかった。この世界に来て不思議なことがある。まったくお腹が空かないのだ。食欲というものも、全くなくなった。スーパーもコンビニも食べ物屋もあるのだが、この世界の人は、必要以上に食物を摂取しない。
「この世界は、コントロールされているの」
彼女はそう言う。つまり、必要以上に食物を摂取することのないように、操作されているのだと。原理はわからないが、この世界には肥満と言う言葉が無い。皆、理想的な標準体型である。
そしてもう一つ。問題が起きれば直ちに警察が駆け付ける。検挙率は100%。問題行動を起こす者は直ちに刑務所に収監され、校正されて社会に送り出される。これも遺伝子操作やらで何かしているらしい。しかし、元の世界では倫理的に考えられないようなこともこの世界ではまかり通っていることに、ある種の恐怖と不気味さを覚える。
食欲も煩悩も、感情すらもコントロールされ、管理された世界は果たして理想郷なのだろうか。無論、そんな状況でどうやって、彼女に特別な感情を抱き、繁殖行為をしろと言うのか。俺達の生活は、まったく変わらなかった。
毎日、彼女と生活を共にし、朝も昼も晩も彼女と同じ部屋で過ごす。たまには外に出かけることもあったが、彼女はまるで表情が無く、生きた人形のようだった。この世界の存在すらも疑問に思う。
君たちは、何のために生きているの?
俺は、彼女に笑って欲しくて、いろんなことをした。部屋中をバラで飾ったり、眠る前に本を読み聞かせたり、映画を観に行ったり。旅行にも出かけた。登山、キャンプ、海水浴、釣り。とにかく彼女を幸せにしたかった。徐々にではあるが、彼女に少し表情が出て来たような気がする。
「あなたは、私を抱かないのね。」
「俺はただ君を幸せにしたいんだ。」
それは本当の気持ちだ。
「ねえ、私達、お別れしましょう。」
それは突然だった。
「何で?俺のこと嫌い?」
彼女は首を横に振った。彼女が泣いている。そのこと自体に彼女は驚いていた。
「何だろう、この気持ち。すごく苦しいの。」
「理由を教えて。どうして俺と別れたいの?」
「私、最初に言ったよね?あなたは被検体だって。中枢から指令が来たの。」
「俺は君を大切に思っている。だから、そんなことはしたくないんだ。」
「だから、私と別れて。あなたは、元の世界に帰って。」
「だから、何でだよ。」
「 あなたが読んだQRコードはこの世界と現実世界をリンクさせるための罠なの。やがては現実世界もすべて支配するため。」
「え?何だって?」
「この世界は未来の世界でも何でもないの。ここはスーパーコンピューターの中に出来た世界なの。」
「まさか。そんな。」
「本当だよ。私の体にはナノマシンが埋め込まれているの。常に中枢から指令が出ていて、あなたがあまりに被検体の役割を果たさないから、中枢はあなたを強制的に支配するために、あなたにもナノマシンを埋め込もうとしているの。」
「嘘だろ?」
「本当だってば。私の本当の正体は、現実世界への扉を開く諜報員なの。」
「この世界はバーチャルなのか?」
「あなたの世界ではそういう概念かもしれない。でも、すでに仮想空間は現実への侵入を試みているわ。だからね、ここから逃げて。」
「嫌だよ。君を置いて行くなんて。」
「お願い。あなたは私に大切なことを教えてくれた。私がこの世界で知らなかったいろんなことを。だからあなたにはこの世界に支配されて欲しくないの。」
「無茶苦茶だよ。俺を連れてきておいて、帰れだなんて。俺は君を・・・。」
その言葉を継ごうとした矢先に、彼女が倒れた。
「どうした?大丈夫か?」
「は・・・やく・・・ニゲテ。」
彼女の声が消え入りそうになり、徐々に彼女の体が風景に透けて行く。
「リリカ!」
彼女の名を叫ぶ。だが、彼女は最後の力を振り絞って俺に縋りつく。俺は泣きながら彼女を捉えて離すまいとするがだんだんと彼女の感触は失われていく。
「私はもうすぐデリートされる。私の目を見て!」
俺は彼女の瞳を覗き込む。そこにはあの時と同じ、QRコードが浮かんでいた。俺の目がそれを捉えると、彼女は瞬間、消えてしまった。
「リリカ!リリカーーーっ!」
俺は叫びながら目を覚ました。そこは電車の中だった。
夢・・・だったのか?
俺の目から一筋の涙が零れた。掌を開いた。そこには小さな薔薇のピアス。それは確かに、彼女が存在したことを物語っていた。それは、俺が彼女の誕生日にプレゼントしたものだ。俺は現実世界に戻されたのだ。彼女の命と引き換えに。
俺はほどなくして、会社を退職し、実家に戻って農業を継いだ。農業は俺に合っていた。農作物は愛情を注げばそれに応えてくれる。やりがいを感じていた。
「痒いなあ。」
俺は農作業中に腕にかゆみを感じて、その痒みの元をたどった。
「えっ?」
掻いて赤く腫れたそこには、QRコードが浮かんでいた。
作者よもつひらさか