穂津美と過ごした一夜の後、晶の生活は慌ただしく変化した。
まず早速次の日、穂津美は晶を伴い彼の職場へ向かった。誰が書いたのかわからない、しかし確かに晶の筆跡の辞表を上司に提出する。
上司は胡散臭そうな顔で穂津美を無遠慮に眺めていたが、彼女が「主人が大変ご迷惑をおかけしまして」と深々と頭を下げると、愕然として二人を交互に見つめた。
無断欠勤の末の辞表はろくに理由を聞かれることもなく、当然引き止められることもなかった。穂津美と二人で会社を去る自分に向けられる視線の中に、嫌悪感だけでなく好奇と、少しだけ羨望が混じっていることに、晶は内心苦笑した。
次に向かったのは晶の自宅だった。
晶の両親は、突然女性を連れて帰った息子に驚きを隠せないようで、低姿勢で穂津美を招き入れ、行方不明だった晶をまったく探していなかったことにバツの悪そうな顔をした。
穂津美はその事になにも触れなかったが、張り付いたような笑顔のまま突然、
「晶さんには私の夫として、尾崎家に婿養子に入っていただきます」
と切り出し、分厚い封筒を差し出した。
「これは結納金ですが、晶さんの婚礼の支度は全てこちらで整えさせていただきます。ですので、手切れ金と取っていただいても構いません。おそらく今後一切、晶さんがこちらに寄られることはないでしょう」
両親は慌ててなにか抗議していたが、穂津美が二言三言話すうちにだんだんとぼんやりとした表情になり、最終的には「息子をよろしく」と揃って頭を下げた。
家を出る二人を両親はぼんやりと座ったまま見送りもしなかったが、会社の時と同じく晶には大した感慨は湧かなかった。
「あの封筒の中身って、木の葉なの?」
帰りながら晶が訊くと、
「昔話じゃあるまいし、今時木の葉のお金なんてどこに行っても通用しませんよ。あれは、これまで晶さんを育ててくれたお礼として差し上げたんです。少し多すぎたかもしれませんが」
と穂津美は笑った。
尾崎家に戻ってから、晶は二つの部屋に案内された。
一つは一見奥座敷なのだが、襖を開けると一歩先はもう山だった。どういう作りになっているのか、土の香りの濃い本当の山中だ。
入り口の真正面には笹を敷き詰めた柔らかそうな寝床があり、その上にいかにも年を経た大きな狐が、太い尻尾を枕のようにして丸くなっていた。
「おばあさま」
穂津美が呼びかけると、老いた狐は億劫そうに片目を開けた。
穂津美が晶の手を取り、狐の寝床まで連れていく。
間近で見ると狐はますます大きく、老化のためか毛は薄くなり艶を失っていたが、一瞬狼と見紛うほどの迫力があった。
「おばあさま、穂津美です。私、この晶さんとつがいになろうかと思います。よろしいですか?」
狐は片目だけでじっと晶を見つめ、やがて小さく頷いて目を閉じた。
穂津美が恭しく頭を下げたため晶もそれに倣う。狐はそれに、ヒゲをピクピクと動かして答えてくれた。
「あれ…、あの方が、穂津美のおばあさんなの?」
部屋を出てから晶が訊くと、穂津美は首を振った。
「あの方は、ひいひいひいひいひいひいおばあさまくらいでしょうか。近くのお城の大名行列を見たことがある、と子供の頃に聞いたことがあります。尾崎家で一番長く生きられている方です」
次に案内されたのは、長い渡り廊下を渡った先の離れだった。一体この家はどれくらいの広さでいくつ部屋があるのか、穂津美について歩くだけの晶にはまったく計り知れない。
穂津美が離れの扉をほとほとと叩くと、中から現れたのはいかにもお手伝いさんといった風情の狐だった。割烹着を着て器用そうな人の手をしているが、顔はまるっきり狐だ。
「おじいさまに会わせたい方をお連れしました。お取り次ぎ願います」
穂津美が丁寧にそう言うと、お手伝い狐は鼻をヒクヒクと鳴らしてしばし晶を観察し、そこで待つよう合図をして奥へ引っ込む。その背中には狐の尻尾が揺れていた。
五分もしないうちにお手伝い狐は戻ってきて、二人は客間と思しき座敷に通される。
そこには、白髪をさっぱりと短髪にした老人がニコニコと座っていた。
「おぅ、よく来たな。そんなとこ突っ立ってないで、早く座んなさい」
晶と穂津美は、老人の向かいに並べられた座布団に腰を下ろす。老人は笑みは絶やさないまま、値踏みするように晶を見た。
「おじいさま、お久しぶりです。お変わりありませんか? なかなかお訪ねできず申し訳ありません」
「堅苦しいのはなしだよ、穂津美。お前が男を連れてきたってことは、用件はわかってんだ」
老人は言いながら、さっさと紹介しろとばかりに手をヒラヒラさせた。穂津美は苦笑する。
「では… こちらが、この度私の夫となります、篠田晶さんです」
「よ、よろしくお願いします」
老人はフンフンと相槌を打ちながら、自分の背中に手を回し黒い瓶と猪口を取り出した。
「篠田とはまぁ、この家によく合う名前だな。堅苦しいのはなしだよ、晶とやら。一杯いこうや」
晶は酒は苦手だった。しかしこんな場面では断らない方がいいことくらいはわかる。
老人が渡してくれた猪口には琥珀色の甘い香りの液体が満ち、いかにも美味そうに小さな波を立てていた。
そっと穂津美に目をやると小さく微笑んで頷いたため、肚を決めてグッと猪口を煽った。
香りと甘みと、それに似合わぬ灼けるような熱が喉を通り過ぎ、腹に溜まっていくのがわかる。思わず咳き込んでしまった。
老人はそんな晶を見て、声を上げて笑った。
「俺は毎年梅酒を漬けるのが趣味なんだが、そんなに一気に煽るもんじゃない。これは五年ものの上物だぞ」
そして穂津美に向かい、
「おい穂津美、こんな奴で本当にいいのかい? 酒の飲み方もしらねぇ、草木のような奴じゃねぇか」
「晶さんは、それが良いのです」
微笑んだ穂津美と酒気が早くも顔に出始めた晶を交互に見ながら、老人は「こりゃ参ったね」と頭を掻いた。
「そもそも俺は、お前たちの結婚に口出しできる立場じゃねぇんだ。大狐のばあさまの所にはもう行ったんだろ? なら、好きにしなよ。お前が選んだ相手なら間違いはねぇんだろうしな」
「ありがとうございます」
頭を下げる穂津美にも、老人は猪口をすすめている。
そんな姿が、晶の視界の中でだんだんブレていき、やがてプツリと見えなくなった。
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気がつくと、また布団に寝かされていた。
以前と違うのは、晶を覗き込む誰かの顔が視界いっぱいに映っていることだ。
穂津美ではない。
何か言おうとするより早くその顔は引っ込み、パタパタという足音が遠ざかっていった。
あれは誰だったんだろう、と思う間もなく、今度は足音が二つ近づいてくる。
襖が開くと、先ほどの顔の持ち主が穂津美を伴って立っていた。
「晶さん、目が覚めましたか」
穂津美はホッとした顔で近づき、晶の枕元に腰を下ろす。
「お酒があんなに弱いだなんて、言ってくださればよかったのに。驚きましたよ」
少し諌めるような響きも含めて穂津美が言う。ごめん、と晶は小さく呟いた。
「いいんですよ。私たちもこれから気をつけます。それから…」
穂津美は振り向いて手招きをした。トトト、とやってきたのは先ほどの顔の持ち主だ。よく見れば、おかっぱ頭の可愛らしい少女だった。しかし、その目は人とは違い、縦に細長い瞳孔が光っている。
「この子は茜といって、晶さんの身の回りのお世話をいたします。人の言葉は話せませんが、理解はできていますので、何か足りないものがあれば、なんでもこの子を言ってください。ここが、晶さんのお部屋です」
晶は身を起こして室内を見回した。十畳ほどのこざっぱりとした和室で、窓の向こうには芽吹き始めたばかりの大きな楓の木が見える。茶室にあるような古めかしい茶釜が、部屋の隅で小さく沸いていた。
不思議と心が落ち着く部屋だった。
穂津美が小さく頷くと、茜という少女はペコリと頭を下げて部屋を出ていった。
「あの、おじいさまは怒ってなかった? 俺は、ああいったチャキチャキした人には好かれないんだ」
晶がオドオドと訊くと、穂津美は驚いた顔をし、その後クスクスと笑いだした。
「心配しなくても大丈夫ですよ。驚かれてはいましたけど、怒るだなんて。おじいさまは、さっぱりとした気質の付き合いやすい方です。それに、この家では晶さんと二人きりの人になるんですから、嫌うわけがありません」
「二人きりの人…」
「はい。この家には、おじいさまと晶さん以外にいるのは、狐か、私と同じ人と狐の間の子供です」
穂津美は晶をまっすぐ見つめて言った。
「晶さん、あのおじいさまはいくつに見えましたか?」
「…七十歳、くらいかな」
「おじいさまは、私の祖父ではなく高祖父、ひいひいおじいさまなんです。本来なら百歳を超えています」
「…いろいろありすぎて、もう大したことじゃ驚かないよ」
晶は少しおどけて言ったが、穂津美は真剣な顔で続けた。
「私の父も祖父も曽祖父も、早くに亡くなりました。おじいさまがあれほど長く生きられているのは、本当に特別なんです。おじいさまはもう人というより、こちら側に近くなっています」
「うん」
「おそらくこの家では、人は人のままでは長くは生きられません。私たち狐と交わることで、人としての命を削り取られているような、そんな気がします。後出しのようにこんなことを言って、申し訳ないのですが…」
「うん、いいよ。俺はそれで構わない、穂津美」
晶は、膝の上で重ねられている穂津美の白い手を取った。
「もともと死ぬつもりだったんだ。なのに穂津美に会えて、こんな俺でも役に立つってわかった。しかも気持ちのいい思いをしてね。不満なんてないよ、」
ありがとうという言葉は、穂津美の唇で塞がれた。
長いこと口づけ舌を交わした後、ようやく唇を離した穂津美が耳元で囁く。
「晶さん、私たちが子供を孕めるのは、春先だけなんです」
「うん?」
「なので、これからこの時期は、毎日相手をしてもらいますね」
穂津美は婉然と微笑むと、晶に体を重ね再び深く口づけた。
作者カイト