加藤成美には、気になっている人がいる。
その人を思うと、胸はあたたかく頬は熱く、心はありもしない想像をしては弾み、その直後にそれを否定して沈み込む。
こんな経験は今までになかったが、物語が好きな成美はこの現象になんと名がつくのか知っていた。
これは、恋。
もし仮にこの事を打ち明ければ、成美が年頃になっても艶めいた話の一つもないと常日頃からため息をついている母親は、小躍りして喜ぶだろう。成美と同じように目立つ方ではない友人たちも、ここぞとばかりに根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。
成美は高校二年生。恋の一つや二つあって当然だし、色恋の話には何時間でも花を咲かせられる年頃だった。
しかし、成美はこのことを親に相談したり、仲の良い女友達と盛り上がることもなかった。
いつも、その人を眺めているだけ。
成美の想い人の名前は、尾崎芽衣。
成美と同じく、れっきとした女子高生だった。
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加藤成美が尾崎芽衣と初めて会ったのは、高校の入学式だった。「尾崎」と「加藤」で出席番号が前後しており、席が隣同士だったのだ。
芽衣の第一印象は、とにかく美少女の一言に尽きた。透き通るような白い肌に赤い唇、つやつやとした黒髪。切れ長の目は涼しげで少し冷たそうな感じがしたが、口元は僅かに口角が上がり柔らかい微笑みをたたえているように見えた。
まるで物語から抜け出たようなその姿に、成美は思わず見とれてしまった。
「加藤さん? よろしくね」
そう声をかけられニコリと微笑まれると、同性だというのに胸が高鳴り、頰が熱くなるのを感じた。
ーーあんまり美人さんだから、びっくりしちゃったんだわ。だって、こんな綺麗な人、今まで近くで見たことないんだもん。
初めての感覚に高鳴る胸を押さえながら、成美はそう自分に言い聞かせた。
その日の帰り、芽衣の隣に瓜二つの顔が並んでいるのを見て、成美は度肝を抜かれることになる。
芽衣は双子だったのだ。
別の校区から来た成美は知らなかったが、尾崎家の双子といえばかなり知られた存在だった。
姉の真衣は運動神経抜群の陸上部のホープで、県外からもスポーツ推薦の話があったほどだという。
妹の芽衣は絵の才能があり、小学生の頃から絵画コンクールを総なめにしていたそうだ。
おまけに二人とも美人な上、気取らない性格で人当たりも良い。これで噂にならない方がおかしかった。
二人は瓜二つの顔立ちだったが、陸上部で健康的に日焼けし髪が長いのが真衣、ショートカットで色白なのが美術部の芽衣、と見分けることができた。真衣と芽衣はクラスは違ったが、授業と部活以外の時間は常に一緒にいるような、仲の良い姉妹だった。
しかし同じ顔をしていても、なぜか成美が気になるのは芽衣だけだった。
芽衣を見るたびに感じる胸のざわつきがなんなのか、わからぬままに過ぎた一年間。
二年生に上がり、また同じクラスになれたと知った時の喜び。
「加藤さん、また一緒で嬉しいわ。よろしく」
そう言って微笑みかけられた時、涙が出るほど嬉しくて、これが自分の初恋なのだと成美は悟った。
ーー自分と同じ女の子を好きになるなんて、私っておかしいのかな?
成美は何度も自問を繰り返した。
ーーあぁ、尾崎さんが、男の子だったらよかったのに。
時にはそんな妄想をして、自分の勝手ぶりに罪悪感に苛まれた。
いくら考えても答えは出ず、成美は「見ているだけでいい」と思うようにした。
内気な成美は、同性だということを抜きにしても、自分の気持ちを相手に打ち明けることなどできなかった。だから、近くでその姿を見ているだけでいい。
それで時々、目が合ったりおしゃべりしたり、彼女の笑顔が見られたりしたら、それだけで幸せだと思うのだった。
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「それでね、今日、古典の時間に尾崎さんと目が合っちゃって。なんだかおかしくて、二人でクスクスしてたら先生に怒られちゃったのよ… って、ユウ、私の話聞いてる?」
「はいはい、聞いてますよ、ナルミさん」
漫画から目を上げずそう答える相手に、成美は片頬を膨らませる。
「全然聞いてないじゃない」
「…あのなぁ。なんで俺が、お前の恋愛話を聞かなきゃなんないんだよ」
「夕食代だと思いなさいよ」
成美の相手は、大きなため息とともに読んでいた漫画をテーブルに伏せた。
彼は、桧山勇。成美の家の隣に住む幼馴染だった。
成美の家と勇の家は昔から家族ぐるみで仲が良く、同級生の二人は姉弟のようにして育った。不幸にして勇の母親が彼が小学生の時に病没してしまうと、夕食は成美の家で食べるが勇の日課になった。
それは、高校生になった今でも続いている。
「夕食代なら、父さんが毎月払ってるだろ」
「そうじゃなくて。女子高生の手料理を毎日のように食べられるなんて、普通はない僥倖よ? 追加料金を払ってしかるべきでしょ」
最近は、パート勤めの母親に代わって成美が食事を作ることも多くなった。
勇は、渋々といった様子で成美に向き直る。
「で? その尾崎さんとやらが、なんだって?」
「尾崎芽衣さん。ユウ、同じ学校の有名人なのに、知らないの?」
「キョーミない」
「もう。とにかく美人で優しくておしとやかで、素敵な人なのよ。同じ女子だっていうのが信じられないくらい、見ててドキドキしちゃうの。…こんなの、おかしいかなぁ?」
成美は悩ましくため息をついた。
誰にも言えない胸の内を、成美はこの幼馴染の勇だけには打ち明けていた。
姉弟同然に育って誰よりも気心が知れているというのもあるが、成美としては弟にというよりペットに悩みを相談している気分だった。当の勇は、それを聞いたらきっと怒るだろう。
勇は再度ため息をつきながら言った。
「べつに、いいんじゃないの? ナルミが誰を好きでも、それはナルミの自由だろ。今は多様性の時代、なんて言われてるんだしさ」
「そうかなぁ」
「好きだ嫌いだを抜きにしても、いい人なんだろ、その人。じゃあ、いいじゃん」
「…うん、そうよね。ありがとう、ユウ。ユウにだけよ、こんな風に話せるの」
屈託のない笑顔を向けられた勇は苦笑する。
自分を見つめる勇の瞳が、芽衣を見る時の自分のそれと同じであるということに、成美はついぞ気がつかない。
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尾崎邸の裏手には、七狐山と呼ばれる山がある。小さいが豊かな山で、山菜やキノコなど季節の実りがよく採れた。
その名の通り狐が多く棲んでいるのだが、中には言葉を喋る狐や、尻尾の生えた人が棲んでいる、などという噂もあった。尾崎家の私有地ということもあり、美しいが足を踏み入れる人は滅多にいない山だった。
この山では満月の晩になると、いつも変わった宴が催される。
ある時は焚き火を囲み酒を交わし合う古の趣を感じさせるものであり、またある時は、山中にどこから運んだのかテーブルクロス付きの丸テーブルを並べた立食パーティ形式であったり。
そして宴の参加者たちは、二本の足で立ち器用にナイフとフォークを扱う、艶めく毛皮を持った狐たちだった。
火のないところに煙は立たないというが、世の噂もある意味的を得ている。
七狐山に棲むのは、通常ならざる力を持った狐たちだった。
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とある満月の晩。
賑やかに楽の音や笑い声が響く宴の中を縫うように、飴色の毛並みの狐がキョロキョロと歩き回っていた。
今夜の宴は夜桜見物風に、木々の間に赤い提灯がいくつも揺れている。その灯りを受けると、飴色の毛はできたての銅銭のような輝きを放った。
やがて狐は、赤い敷物の上で盃を片手に盛り上がる若い集団に目をつけ、近づいていく。
「芽衣。もうその辺りにしないと、明日も学校よ」
状況にそぐわないその台詞は滑稽に聞こえたが、言った当人はいたって真面目な様子である。
狐が話しかけたのは、自分と同じ飴色の毛並みの狐だった。盃を持ち胡座をかいて、仲間の話に大きく口を開けて笑っている。
その狐が何か言う前に、仲間の狐たちが口を挟んだ。
「人みたいなこと言うなよ、真衣。たとえ眠らなくたって、この芽衣が授業中居眠りなんかするはずないだろ」
「そうだぞ。月に一度の宴だ、楽しまないでどうする」
真衣と呼ばれた狐はわざとらしくため息をつき、自分にそっくりの狐をジロリと睨んだ。
「芽衣、どうなの」
芽衣と呼ばれた狐は、ニヤリと笑うように薄く口を開いた。白い牙が鈍く光る。
「真衣の言う通りにするよ。でも、もう少しだけいいだろ? 俺にとってこの姿でいることがどんなに楽なことか、真衣にだってわかるはずだ」
「仕方ないわね」
言いながら真衣は敷物に上がり、寄り添うように腰を下ろした。そして、芽衣の首筋に甘く歯を立てる。
「少しだけよ」
「わかってるよ」
芽衣は真衣の耳の付け根を優しく舐めて答えた。
「おいおいお前ら、双子のくせにあまり見せつけるなよ」
「やっとメスが来てくれたと思ったら、芽衣のお手付きだなんて、あんまりだ」
からかうような仲間たちの言葉を笑い、真衣はますます見せつけるように、芽衣の膝にあごを乗せくつろぐ姿勢をとった。
「まったく、お前たち人の世に出れば評判の美人姉妹なんだろ? それが正体と知れたら、男どもは泣くぞ」
「その前に、俺がオスだと知ったら何人かは首を括るね、確実に」
芽衣は真衣の首元を撫でながら、意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
途端に、その場がどっと盛り上がる。
化けろ化けろとはやされて、真衣と芽衣は互いに顔を見合わせる。と、次の瞬間その場にいたのは、一糸まとわぬ姿の美少女二人、尾崎真衣と尾崎芽衣だった。
美人姉妹の正体は実は狐で、しかもその片割れはオスで、なおかつ姉弟でありながら乳繰り合っている、などと知れたら。
真衣と芽衣の知り合いは皆卒倒するだろう。
巻き起こる喝采に、二人は立ち上がって慇懃に頭を下げた。
七狐山の狐たちはオスでもメスでも、昔からなぜか決まって美女に化ける。
そのためオスの狐はどうしても山で暮らすことが多いのだが、芽衣はその中でも珍しく人の世で生きることを選び、オスでありながら完璧に人の女として生活することができていた。
四方からの拍手にいちいち答えながら、やがて芽衣が口を開いた。
「みなさん、夜も更けて来ましたし、私たちはそろそろ失礼させていただきます」
丁寧なその口調にもニコリと微笑むその姿にも、先ほどまで胡座をかいて笑っていた狐の面影は微塵もない。
「よく化けたものよ」と、周りの狐たちは感嘆とも呆れとも取れる声を漏らした。
そうして真衣と芽衣の二人は白い肌を晒したまま、宴の間を縫い時折上がるひやかしに笑顔で答えながら、自分たちの部屋へと戻る。
その途中で、芽衣が思い出したように口を開いた。
「そういえば、クラスの女子が一人、俺に気があるみたいだ」
「女子が? あなたに?」
「うん。なんていったかな、出席番号が前後してるんだよ。いつも熱のこもった目で俺のこと見つめてきてさ。なかなか可愛い子なんだけど」
真衣はムッとした様子で、ジロリと横目で芽衣を睨んだ。
「私の隣で、よくそんな風に他の女について語ること」
「怒るなよ。困ってるって話なんだから」
「どうかしら」
「ホントだよ。ちょっと鋭いところがある感じでさ。俺が本当はオスだって、本能で感じ取ってるんじゃないかと思うんだ。な? なんとかしないとマズイ感じだろ?」
「知らないわ」
ちょうど自室に着いたところでプイとむくれた真衣に苦笑しながら、芽衣は彼女の手を引いて室内に入った。襖を閉めると同時に、自分より少し日に焼けたその体を抱きしめ、口づける。
「……口づけるのには、こちらの体の方がいいわね」
長い口づけの後、少し潤んだ目で真衣はまっすぐ芽衣の瞳を見つめた。
「抱き合うのにもね」
芽衣は互いの柔らかい乳房がつぶれるほときつく真衣の体を抱くと、そのままゆっくりと布団に倒れこんでいった。
作者カイト
あまり怖くはないですが…
尾崎家シリーズのテーマは、アブノーマルです。