駅の改札から出ると、朝の天気予報通り強い雨が降っていた。
折り畳み傘を広げ、駅前の繁華街の人混みを早足で抜ける。スマホに夢中になっていたり、横並びで喋りながらダラダラと進む歩行者に苛立ちを覚えながら、私は家路を急いだ。
ちょうどその日は、仕事でうまくいかないことがあって、連日の寝不足も重なって疲れていた。それに加えてこの雨。ついていない。
すれ違う人が差している傘が何度もぶつかり、両肩に水滴が掛かる。母親に手を引かれた小さな子供が飛び跳ねたせいで、足元が泥混じりの雨で汚れたと思えば、今度は目の前でスマホ歩きしていた男の傘がぶつかった。
最悪。
自分以外の人間が全て嫌いになる。
早く帰りたい。
私はさっきよりも足を早めた。目の前の横断歩道の信号が、青から赤へ点滅し始めている。あと少し歩けば人通りの少ない道に出る────まるでゴールを目指す競歩の選手のようだ。
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通勤や買い物に便利な場所だと思ってこの町に住み始めたものの、昼夜問わず人で溢れている事に、私は少し疲れを感じるようになっていた。
そして、目の前を人が歩いていると必ず「追い越したい」と思ってしまう私の癖が、ここにきて顕著になってきていた。自分の歩く前に人が居ると、道を塞がれているような感覚になり、窮屈なのだ。
点滅する信号をギリギリで渡り、コンビニの前を通り過ぎると、道幅はさっきよりかは狭いが人通りが静かな歩道になる。怒りに任せて一気にごぼう抜きしたせいか、幾らか苛立ちは消えていた。
やっと落ち着いて歩ける、と思い前方を見ると、1、2m位先に青い傘を差して歩く女性の姿があった。
ひざ丈の白いスカートから、所々包帯を巻いた華奢な脚が伸びていた。上に赤いカーディガンを羽織り、少しボサボサしたセミロングの茶髪…
格好だけ見るといたって普通なのだが、時折肩に掛けた黒いバッグがずり落ち、サイズの合っていないピンヒールのかかと部分が、脱げてパカパカと音を立てている。
追い抜こうにも道幅が狭く、傘を持っているから難しい。いつもなら歩道から道路脇に出て追い抜くことも出来るけど、今日は昼から降っていた雨が排水溝を目掛けて勢い良く流れていた。
さっき子供に水を掛けられたせいで、靴も靴下も結構濡れてしまってはいたが、さすがに足元がずぶ濡れになるのは嫌だった。多分途中どこかで別の歩道に行くだろう。そう思い、私は渋々彼女の後を付いていく形で歩くことにした。
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10分は経っただろうか。
女は相変わらず、私の前を歩いていた。追い抜けそうで追い抜けない微妙な距離を保ちながら。
カツッ、カツッ、パカッ…ズルッ…ゴソッ…カッカッカッ…カツッパカッ…ズルッ…ゴソゴソッ…
ヒールの脱げる音と、肩からずり落ちるバッグを何度も持ち直す音が耳障りになっていた。見るからに歩きにくそうなのは確かなのに、先を歩こうとしているのが精神的にかなり堪える。
だからか、大した距離を歩いていないのに、酷く長い時間歩かされているように感じた。私の疲労はかなり限界に近づいている。
おぼつかない動作を繰り返す目の前の女にも、追い越せないもどかしさにも、それが出来ない自分自身にも、激しい苛立ちを感じていた。…今日は本当にロクな事が無い。
はぁーっ、と、私は苛立った勢いで、俯いてため息をついた。そしてふと顔を上げると、
女が歩くのを止め、じっと立ったまま、動かなくなっていた。
え…何…?
苛立ちは消えたが、その代わりに一気に恐怖心と後悔が襲って来た。車一台も通らない道路、薄暗い外灯の中、ザーッ…と、雨の音だけが一層激しく鳴っている。他に歩行者がやって来る気配は無い。
身動きが取れない。相手が振り返って来たらどうしよう…
体が硬直し、声が出せなくなっているのが分かった。傘を持つ手も震えている。
「……ぁ…」
何か言わなきゃ…何か…何か…
「…あ…の…」
…カツッ!…カツッ…カツカツカツカツ…パカッ、ゴソッ、カツッ、カツカツカツ…
声を掛けようとした次の瞬間、女は再び歩き出した。緊張と安堵が入り混じった感覚になり、そのせいで少しよろけそうになるのを、私はなんとか抑えた。
女は、私の方を振り返る事も、何の言葉を発することも無く去っていく。
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ふと気が付くと、斜め方向にアパートの一角が見えていた。
女はアパートを通り過ぎ、その先まで進んで行った。そして、青い傘が見えなくなったと同時に、私はアパートまでの距離を急いで駆けた。
異様な雰囲気から早く抜け出したい一心で階段を駆け上がり、震える手を何とか抑えながら鍵を回し、急いで玄関の扉を開ける。
そしてそのまま後ろ手で鍵を閉めると、一気に体の力が抜けた。再びため息をつく。安堵のため息だ。良かった…これでもう大丈夫だ…
よろよろとリビングまで歩き、電気を付けた。
テレビ見よう、なんか面白そうなもの、いやもう何でもいい。冷蔵庫から取り出したビールを一気に飲み干す。今日起きた全ての嫌なことを忘れようと、すぐさまもう一本取り出して開けた。
外は、さっきよりも雨脚が強くなっているのか、窓に激しく雨が打ち付けられていた。今日は酷い天気だ…落ち着きを取り戻し、安心した私は、ふと外の様子を眺めようとカーテンを少し開けた。そういえば、さっきから外の音が気になっていたのだ────
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カンッ!カンッ!カンッ!
アパートの駐車場に真っ青な傘が見える。
雨が打ち付ける窓越しだから、姿形ははっきりとはわからない。しかし、外灯に照らされ、黒い塊と青い傘が駐車場を行ったり来たりしているのは、はっきりと分かった。
あの女だ。
ヒールで、思い切り地面を踏みつけながら歩く音が聞こえてくる。
カンッ!カンッ!カンッ!
カンッ!!カンッ!!カンッ!!!
より一層大きくなり、こっちに近づいてきているように聞こえた。どうして?なんでここに?
カンッ!!カンッ!!カンッ!!!
背中が、体中が一気に寒くなっていく。
もし、私を探しているとしたら────
キキィーッ!!!バンッ!!!ゴトン!
突然大きな鈍音が響いた。一瞬視界から女の姿が消えると同時に、青いビニール傘が、逆さまにその場に転がった。駐車場に入ってきた原付バイクに、女は轢かれていた。
原付の運転手が、降りて彼女に駆け寄って行くのが見えた。救急車を…警察を呼ばなければ…バッグに入れっぱなしの携帯を取り出し、電話を掛けようとした矢先、
「うわああああああああ!!!!」と外から悲鳴が聞こえた。見ると原付の男が、後退りし、何かから逃げるかのように走って行った。私は外の女の様子を覗いた────
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歩き方にどこか違和感がある理由がやっとわかった。
あれは、靴が合わないんじゃなくて、「脚」が合わなかったのだ。
私は身動きが取れないまま、視界に映る女の姿に目を逸らせなくなっていた。
横殴りの雨が降る中、駐車場には、ぐにゃりと腰から上が曲がったマネキン人形が横たわっていた。人形の周りには、ヒールと、血の滲んだ2本の脚が散乱している。
黒いゴミ袋からは、人間のものと思われる腕や肉塊がこぼれ、叩きつける雨に赤い液体が混じっていた。
ビチャッ!!!ビチャッ!!!ビチャッ!!!
脚を失った無表情のマネキンが、今度は胴体をバタつかせ、這いずり始めていた。
私は震える手でカーテンを閉じ、テレビの音量を上げた。そして外で起きているこの異様な出来事から逃れようと、携帯で友達に電話を掛けた。
も…もしもし!私…!元気してる?実はさ私…
……ノガ…ッタノニ…
突然文字化けした通話画面の向こうで、雨の音とノイズ交じりの低い女の声がした。
アナタノアシガホシカッタノニ
作者rano