僕が通う福祉学科は、二十人定員のうち男子は五人しかおらず、圧倒的に女子が多い。
かといって僕たち男子は肩身の狭い思いをしているわけではなく、男女がお互い頼り頼られの良い雰囲気のクラスだと思う。
けれどもやはり、五人しかいない男子は固まりがちだ。クラス替えもないため、長い期間を一緒に過ごす僕たちはかなり仲がいい。
全員が無事三年生に進級できたばかりの、ある春の日。
僕たち五人は授業の空き時間を、学部棟入り口の掲示板スペースで雑談に費やしていた。
テーブルにもたれてだらしなく頬杖をついているのが、お調子者のタムタム。その隣で缶コーヒーを飲んでいるのがしっかり者のコスギ。坊主頭に柄シャツという派手な出で立ちなのがアニキ。そしてオイちゃんと、キタこと僕。
雑談の中身は色々で、くだらない噂話から間近に迫ったゼミ選択の悩み、漫画やテレビの話なんかだが、こうやって男ばかりが集まると、かなりの確率で話題は女の子のことに転がる。
あの子が可愛いとかこの子は性格がいいとか誰と誰が付き合ってるとか、みんな二十歳過ぎたというのに高校生の時と変わらない。
そしてこういう話をしていると、必ず出てくる名前がある。
「ユタカちゃんのことが、オレいまだにわかんねー」
ため息をつきながらタムタムがぼやいた。
ユタカとは、僕らのクラスメイトの一人だ。穏やかで人当たりが良く成績優秀、しかし謎めいた美人。
クラスももう三年目になるというのに、僕たちはユタカのことをあまりにも知らなかった。
「あの子は、ミステリアスがいいところだろ」
「それにしたって限度があるじゃん? オレ、ユタカちゃんの住んでるとこも知らんもん」
「いや、なんでそこなんだよ。変態かお前」
タムタムの隣のコスギが呆れたように突っ込んだ。この二人は同じサークルに所属しており、特に仲がいい分遠慮もない。
「いや、変な意味じゃないんよ? 純粋にオレ、クラスのみんなの住んでるとこチェックしたいんだよね。知ってたら緊急時とか便利じゃん?」
「マジで変態じゃねーか」
「だから違うって。他の子にも、了承を得た上で教えてもらったんだ。でも、ユタカちゃんだけ未だに知らねんだよ」
「教えてくんねーの?」
あまり興味なさそうに口を開いたのはアニキだ。チンピラのような出で立ちと頼れる内面から、アニキというあだ名がこの上なくしっくりくる。
「そうなんだよ」と、タムタムは食いついた。
「何回も聞いたんだけどいっつもはぐらかされるからさ、オレ帰り道に跡をつけてみたんよ」
「ストーカーじゃねぇか」
僕の隣のオイちゃんが口を挟んだ。こちらも、「正直どうでもいいけど話に付き合ってやってる」といった顔をしている。
僕は、話の続きが聞きたくてソワソワしていた。
「もちろん、ユタカちゃんには言ったんよ? 教えてくれないんならついてくからね、って。そしたら、『いいですよ、できるなら』って言うからさ。でも、五回跡つけて五回とも違う方角から帰るし、結局途中で見失うんよな」
「それ、お前の尾行がバレバレで、巻かれてるだけじゃん」
「それにしたって、林の中に消えたりアパートの階段上り詰めたところでいなくなったりさ、ちょっとおかしくね?」
「お前、スッゲー嫌われてんだろ」
「ショック!」
タムタムは大げさに頰に手を当てた顔をコスギに向け、邪険がられていた。
「でもまぁ、ユタカちゃんは不思議ではあるなぁ」
アニキの呟きに、今度は皆が頷いて同意する。
三階の教室にいるはずのユタカが、一階の掲示板前で同時刻に目撃されていたり。
ユタカが傘を持ってきている日は、どんなに快晴率百パーセントでも雨が降ったり。
時々、なにもない空間を興味深げに見つめていたり。
誰しも、ユタカに関するそんな話を一度は聞いたり体験したことがあった。
一部では、我が福祉学科の名物教授で個人で七不思議を所有する、ひぃさまの後継者候補だと噂されたりもしているらしい。
僕は、去年の学祭の出来事を思い出す。
「でる」と噂のサークル棟の階段で、ユタカがなにかを踏みつぶした事。それも多分、意図的に。
階段の怪談を最近聞かないのは、もしかしたらユタカのせいかもしれない。そう言ったら、目の前の彼らはどんな反応をするだろうか。
言ってみたい気もする。でも、そう思うたびに、僕はあの時のユタカの笑い顔が頭に浮かび、背筋を冷たいものが走って言葉が出なくなる。
結局なにも言えないまま、「こないだもこんなことがあって…」というユタカの噂話を聞いていた時だ。
ふと、向かいに座るアニキの後ろに人影が立ったの気がついた。
女性だ。ゆるふわの明るい茶髪に水色のワンピース、白いカーディガン。大きなタレ目と、ワンピースの下でこれでもかと存在を主張する胸に、つい目がいく。
けれど、彼女は怖ろしいほど無表情だった。本来なら可愛らしいであろう容姿が、その無表情に呑まれて能面のようだ。
僕は思わず左目をさぐった。彼女の虚無的な雰囲気に、普通の目には見えない「そう」いった類なのかと疑ったのだ。
しかし、左目はいつものように前髪に隠されて、怪異は見えないようになっていた。
「ねぇ」
彼女が口を開く。
その途端、アニキが驚いて振り向き、立ち上がった。
「ねぇ、今、あの女の話をしてたでしょ?」
「おい…」
「なんで⁈ わたし、あいつのこと嫌いだって言ったじゃない! なのになんで隠れてコソコソと…。あんまりじゃない!」
突然現れて突然ヒートアップした彼女に、アニキを除いた僕たちは釘付けになってしまった。能面のようだった表情は、今は般若に変貌している。
彼女は主に、アニキに向かって怒鳴り散らしているようだった。アニキの方も知った顔らしく、慌てた様子でなんとか宥めようとしている。
「ちょっと落ち着けって」
「わたしの言うこと信じてないの? あいつは人間じゃないのよ!」
「ちょ、あんま大声出すなよ」
「ホントなんだから。地元じゃ、呪われてるとか男殺しの一族とか、狐憑きなんて呼ばれてるんだから。あんたまで、あの女の見た目に騙されるっていうの⁈」
「…お前、いい加減にしろよ!」
いつも温厚なアニキが大声を出したことに僕たちは驚いた。外見が外見なだけに、かなり凄みがある。
怒鳴り声に怯んだ隙をついてアニキは彼女の手を取ると、どこかへ引っ張っていった。
訳もわからず残された僕たちは、お互い顔を見合わせた。
「なに、今の」
「さぁ?」
「ていうか、『あの女』って、ユタカちゃんのことかな?」
「その話しかしてないし、そうじゃね? それにしても、今時狐憑きとはな」
最後にそう言ったのはコスギだ。少し不機嫌そうな顔で腕を組んでいる。
「狐憑きって、なによ?」
首を傾げたタムタムをチラリと見て、コスギは話し始めた。
「昔は知的障害や、てんかんや統合失調症、躁鬱病なんかの精神疾患は、狐憑きって呼ばれることがあったんだよ。理解しがたい言動は狐に取り憑かれたせいだってな。狐憑き本人だけじゃなく、遺伝や家庭環境でそういう子供が生まれやすい家系なんかは、憑き物筋なんて呼ばれて差別や偏見の対象になってたんだ」
差別、という自分の言葉に、コスギは眉をひそめた。
「完全な迷信だよ。でも昔はそれが信じられて、そういった人たちは座敷牢みたいなところに閉じ込められたりしてたんだ。今の時代にそれがまったくないかといえば、そうとは言いにくいけど。でも、あんな風におおっぴらに口にするなんて、あいつ頭おかしいんじゃないか?」
最後は辛辣に非難した。コスギは真面目な性格で、入学当初から精神保健福祉に興味があると勉強しているので、こういったことには敏感だった。
「よう知ってんなぁ」
タムタムが感心したように言った。
「しかし、憑かれてるのはどっちかと言えば、あっちぽかったな」
オイちゃんの呟きに僕は頷く。左目を隠した僕はわからなかったが、オイちゃんにはなにか見えたのだろうか。
「なー。オレ怖かったよ。目とかイッちゃってたじゃん」
おそらくなにも見えていないタムタムが、思い出したのか顔をしかめた。
そうこうしているうちに、憔悴した顔のアニキが戻ってきた。
「ごめんな、びっくりさせて」
アニキが悪いわけではないのに謝りながら、椅子に置きっ放しにしていた鞄を手に取る。
「あの子は?」
「…とりあえず、同じクラスの奴に任せてきた。悪ぃけど、俺も行くわ。次サボるから、よろしく」
「なぁ、あの子、アニキの何なん?」
タムタムが訊く。彼はこういう時、空気を読まずに僕たちの一番知りたいことを訊いてくれる。
アニキは気まずそうな顔で頭を掻き、ため息まじりに言った。
「俺の、彼女」
「……」
何となく予感はしていたので誰もなにも言わなかったが、多分僕ら四人とも、「なんであんなのと付き合ってんの?」と顔に出ていたのだろう。アニキが弁解するように言った。
「いや、普段はあんなのじゃないんだぜ?」
「説得力ないな」
「いやマジだって、コスギ。可愛いしスタイルいいし、もちろん性格だって、本当は明るくて気が利くいい子なんだ。ただ、ユタカちゃんとは気が合わないみたいで…」
「いやいや、気が合わないってレベルじゃないでしょ、あれは」
僕が突っ込むと、「だよなぁ」とアニキは肩を落とした。
「…詳しいことは俺もよく知らないんだけど。あいつ、高校がユタカちゃんと一緒らしいんだ。一族云々の話は、そこからきてるんだと思う。で、あいつが高校の時の彼氏がユタカちゃんに惚れてあいつを振って、でもユタカちゃんにも振られて、ってことがあったらしい。二重に馬鹿にされたって、それ以来目の敵にしてるんだと」
「それ、完全に逆恨みやん」
「そうなんだけどさ。なんかあいつの中では、変な理屈が通ってるんだよ。いつもは普通の奴なのに、ユタカちゃんが絡むと人格変わるしさ。最近になってユタカちゃんと俺が同じクラスだって知って、余計敏感になってるみたいで…」
アニキは大きなため息をついた。
「さっさと別れなよ」という言葉を、僕はなんとか飲み込んだ。タムタムとコスギも同じような顔をしている。
ただオイちゃんだけは
「とんでもない女でも、別れられない魅力ってあるよな」
と、妙にしんみりした顔でアニキを慰めていた。
・・・・・
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結局その後の授業にアニキが戻ってくることはなく、夕方になった。
オイちゃんとタムタムとコスギはサークルがあるため、僕は一人で帰途につく。
図書館の前を通りかかった時だ。
「あ、キタさん」
ちょうど図書館から出てきたところで僕を呼び止めたのは、ユタカだった。
昼間の話題の中心人物に、僕は少しだけ気まずくなる。
「今帰りですか? 私も駅に行くので、一緒にいいですか?」
言いながら、ユタカは僕の隣に並んだ。
穏やかな夕暮れの中、遠くからは運動部の掛け声が響いている。時々頭上から、葉桜が名残惜しそうに僅かに残った花びらを散らした。
いい雰囲気だ。
今なら色々聞けるかも。僕はなんでもない調子を装って口を開いた。
「ユタカは、どの辺に住んでるの? いつもこっちからは帰らないよね」
「はい。今日は駅ビルの方にちょっと用事があるので。住んでるのは、あっちの方です」
あっち、とユタカが指差した方角は、僕たちが出てきたばかりの正門の奥だった。その先はもちろん大学構内なので、アパートなどはない。
お前は大学に住んでるのかよ。そんなツッコミを僕はなんとか抑えた。タムタムの言っていた「はぐらかされる」とは、こういうことなのだろう。
「と、ところで、ユタカは春休み実家に帰ったりしてたの?」
話題は変えるが、ユタカのことを探りたいという気持ちは変わっていない。なるべく自然に聞こえるよう僕は尋ねた。
もしかしたら、先程のアニキの彼女の言葉が引っかかっているのかもしれない。ユタカに対する侮辱的な内容を、自分の口で否定してほしかった。
ユタカは僕をチラリと見てから、まるで僕の考えなどお見通しだというように、小さくフフフと笑った。
「はい、帰ってました。私の実家は隣の県の田舎町なんですが、しばらく家族とゆっくり過ごしてきましたよ」
僕らの大学がある県には、三つの県が隣接している。どの県にも、都市部があれば田舎があるだろう。つまり、今のユタカの言葉には確かなことはほとんどない。
「ふーん。ユタカって、兄弟いるの? しっかりしてるから、長子っぽいね」
誘導尋問。そんな言葉が頭をかすめる。
ユタカはどう思っているのだろうか、微笑んだまま言葉を返した。
「はい。下には三人の妹がいます」
「え、四人姉妹? それはすごいね」
「そうでしょうか。田舎なので、うちの他にもチラホラいましたよ。うちは昔から女系で、父も祖父も婿養子なんです」
「へぇ。実家には、ご両親と妹さんたち?」
「それと、祖母と叔母もいます。女ばかりの田舎の大家族、という感じでしょうか。かしましいですよ」
男殺しの一族。昼間聞いた言葉が頭をよぎった。
けれど、思い出し笑いなのかクスクスと笑うユタカの言葉に、その不穏な単語はそぐわなかった。
少し変わっているのかもしれないが、ユタカが語る家族の話には暗い影は感じられない。
やっぱり、アニキの彼女の逆恨みじゃないか。僕はそう納得した。
話しながら坂の中腹まで来たところで、ふとユタカが立ち止まった。
「? どうしたの?」
「キタさん。あれ、見えますか?」
ユタカは坂の下を指差す。
そこには、小さな人影が俯いて立っているのが見えた。
どうやら女性のようだ。明るい茶色の髪に、水色のワンピース、白いカーディガン。
「あれ? あれって…」
昼間会ったアニキの彼女に出で立ちが似ている。
そう思った時、女は猛然と坂を駆け上り始めた。
「え?」
「キタさん、あれ不審者ですよ。逃げましょう」
「え? え?」
ユタカは妙に冷静にそう言って、素早く踵を返し坂を上り始めた。
事態の飲み込めない僕は、ユタカと坂の下から近づいてくる女に交互に目をやり、そしてあることに気がついて血の気が引いた。
女は右手に、鈍く光る包丁のようなものを握りしめていた。
僕は慌ててユタカを追いかける。普段運動不足の僕にとって、坂道ダッシュなんて拷問に等しい。すぐに心臓が飛び出そうなほどバクバク打ち始めた。踵の高い靴を履いているというのに、ユタカと追いかけてくる女の方がよっぽどまともに走っている。
ガッガッガッという暴力的なヒールの音が近づいて来て、僕は必死で足を動かしながら振り向いた。
女は昼間と同じ般若のような顔で右手の包丁を振り回しながら、ものすごい勢いでこちらに向かってきている。爛々とした目は僕ではなく、少し先を走るユタカしか見ていない。
「死ね」
「狐憑きめ」
「男殺し」
「殺してやる」
火を吐きそうな口からは、そんな呪いの言葉がブツブツともれていた。
高校時代の痴情のもつれが、ここまで深い憎悪を生み出すものだろうか。
それだけではないことは、女が背中を見れば一目瞭然だった。
走るうちに僕の前髪は風にめくれ、左目が露わになっていた。
その左目が映す女は、まるで背負うように背中にどす黒い靄が広がっていた。
あんな靄を、僕は占い師のハルさんの元で何度か見たことがある。
あれを、ハルさんは「オン」と呼んでいた。
人に取り憑き、心も体も負の方向へ向かわせ、その苦しむ様を見て喜ぶもの。
アニキの彼女があんなにも激しい憎悪を垂れ流しているのは、「オン」に憑かれているからだったのだ。オイちゃんが「憑かれてるみたいだ」と言ったのは、当たっていたわけだ。
ーーなどと、冷静に考えている暇はなかった。
彼女が「オン」に憑かれているのがわかったところで、僕にはどうするすべもない。ハルさんのように追い払うことなどできないのだ。
包丁の鈍い光がどんどん近づいてくる。
もうダメだ、と泣きそうになった時だ。
女の足元を、白い小動物のようなものが素早く横切った。
女がその小動物に足を取られ見事に顔から倒れ込むのが、まるでスローモーションのように見えた。
「え?」
呆気にとられる僕の両脇を、何かが風を切って泳いでいく。
五匹いるそれは、三十センチほどもある巨大なおたまじゃくしに見えた。大きな丸い頭に細い尾がつき、胴体はない。頭に不釣り合いな細い尾を素早く動かし空中を泳いで、一目散に女へ向かっていく。
そして倒れている女には見向きもせず、その背後に広がる黒い靄を五匹で取り囲むと、ガパリと口を開けた。
口を開けたその姿は、おたまじゃくしというより深海魚を連想させた。丸い頭部が半分に裂け、頭全体が口になっている。
口を開けたまま、おたまじゃくしは靄へと突進した。イワシの群れに大型魚が飛び込むように、靄を縦横無尽に蹂躙し、殲滅していく。
ものの数分もしないうちに、靄はすっかりそいつらに食べられてしまった。
獲物がなくなると、おたまじゃくしたちはさっさと僕の脇をすり抜けて戻っていく。
どこに戻るのかと反射的に目で追うと、おたまじゃくしたちの向かう先にはユタカが立っていた。水平にした手のひらには赤い小箱が乗せられており、おたまじゃくしは箱の中に吸い込まれるようにして入っていく。
最後の一匹の尻尾が見えなくなると、ユタカはその小箱を鞄にしまい、何事もなかったような顔で僕の方に歩いてきた。
「キタさん、大丈夫でしたか?」
「う、うん」
「あの人、自分でこけちゃったみたいですね。助かりましたね」
ーー何事もなかったことにするつもりらしい。
唖然とする僕を尻目に、ユタカは女に近づいた。まだ右手に包丁を握っているのを見つけると、手首を思い切り踏みつけて離させ、包丁を手に取る。
凶悪に光るその包丁の柄を左手で掴み、右手でその刃先を摘むと、まるで飴細工をそうするようにグニャリと捻じ曲げてしまった。
そして原型をとどめていないそれを、無造作に坂道の脇の藪に投げ込んだ。
「キタさん、救急車を呼んでください。この人、こけた時に怪我をしたみたいです」
言われて見ると、確かにうつぶせに倒れた女は額の辺りから結構な出血がみられた。顔から思い切り倒れ込んだから、さもありなんだ。
「でも、いいの? この人多分、ユタカのこと追いかけてきたんじゃない?」
僕の言葉にユタカは肩をすくめ、
「さぁ。私はこんな人見たことないですし、恨みを買った覚えもありません。面倒だから凶器は捨ててしまいましたし。もう、倒れている人を私たちがたまたま発見した、でいいんじゃないですか? 正直、それ以上のことはわかりませんし」
涼しい顔でそう言った。
そんなのでいいのか、とは思ったけれど、確かに面倒ごとは勘弁してもらいたい。
それに、今ユタカに逆らう気にはならなかった。
その後、僕たちは善意の発見者として名前を伏せて、彼女が救急車で運ばれるところまでを見送った。
「あーあ、無駄な時間を過ごしてしまいましたね」
ユタカは大きく伸びをして疲れたように言った。僕も力なく同意する。
「駅ビルに行く時間、なくなっちゃったね」
「もう、しょうがないですよ。また今度にします。帰りましょう」
僕とユタカは連れ立って歩き出した。
「ユタカ、家はこっちなの?」
「はい。今日はこっちの方から帰ってみます」
「なんだよ、それ」
結局、今日ユタカについてはっきりわかったことは家族構成くらいで、あとはますます謎が深まったばかりだった。そればかりか、存在自体が謎な人物になってしまった。
けれど、非凡な一日を一緒に過ごせたことはなんだか嬉しかった。
くだらない話で笑い合いながら、僕たちは坂の下の交差点にたどり着いた。ユタカはここから右に曲がるらしい。僕は左だから、ここでお別れだ。
「今日は大変だったね。それじゃ、」
また明日、そう言おうとした僕の服の裾を、ユタカがそっと掴んだ。
「キタさん。昼間、私のこと話していたでしょう」
「え?」
唐突にそう言われ、僕は意味がわからず間抜けな声を出した。
ユタカは小さく笑い、僕に顔を近づける。もう少しでキスできそうな距離まで近づいて、囁くように言った。
「あの時言われた狐憑きって言葉、あながち間違いじゃないかもしれません。コスギくんが言っていたのとは、また違う意味合いですけど」
綺麗な顔を間近で見てドキドキしていた僕の気持ちは、その一言で急速に冷えていった。かわりに、嫌な汗が背中を伝う。
「ど、どういうこと?」
「なんとなく、わかってるんじゃないですか?」
ユタカは口の端をニィッと持ち上げて笑うと、スッと僕から離れた。
そして、振り向くことなく去っていった。
ユタカの姿がようやく見えなくなった頃、僕は無意識に詰めていた息をようやく吐き出した。
握りしめていた両手には、じっとり汗をかいていた。
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次の日、アニキは学校を休んだ。
彼女が入院したのでそれに付き添っているらしい、と何人かが噂していた。
タムタムとコスギは「アニキ面倒見良すぎ」と半分呆れていたが、事情を知っている僕はアニキの事が心配だった。
結局、アニキが登校してきたのは週明けだった。大丈夫かと声をかけた僕らに、アニキは「それがさぁ」と不可解そうな顔で話し始めた。
「例の彼女が怪我したんだけどさ、あ、聞いてる? それが、坂の途中で血ぃ流して倒れてるところを、通りがかった人が救急車呼んでくれたらしいんだけど。あいつ、その前後のこと全然覚えてないんだ。そもそも家の方向違うからあの坂なんて通る必要ないのに、なんでそこにいたかもわからない。救急車呼んでくれた人たちも、倒れてるところを見つけただけみたいだし。怪我自体は大したことなかったんだけど、なんか気味が悪くてさぁ」
「アニキィ、それ、言い方悪いけどさ、彼女誰かの恨み買ってんじゃないん?」
タムタムが少し言いにくそうにそう訊くと、アニキはきっぱりと首を振った。
「それはない。そんな奴じゃないんだ。って、お前らには説得力ないだろうけどさ。ホントに」
「…まぁ、大したことなかったんならよかったじゃん。気味悪がるほどのこと?」
信じきってない顔で、コスギが呆れたように言った。アニキは「うん、まぁ」と煮え切らない返事をして、少し迷った後続けた。
「実はさ、なくなったのは事故前後の記憶だけじゃないんだ。あいつ、ユタカちゃんのこと嫌ってたろ? その記憶がなくなってるっていうか、ユタカちゃんそのものを、もう全然覚えてないみたいなんだよ」
これには、全員驚いて顔を見合わせた。
頭を強く打って記憶喪失になるなんて漫画やドラマで良くある展開だが、こんな風に特定の記憶だけすっぽり抜けるなんてあり得るのだろうか。
僕の頭には、ユタカの顔が浮かんだ。あの時彼女が言った「狐憑き」という言葉も。
前から薄々感じてはいたが、多分ユタカは普通の人ではないのだと思う。
僕のようにただ見えるだけとか、オイちゃんのようになにかに憑かれているとか、そんなのとは根本的に違うなにか。
それはとても恐ろしいのだけれど、なぜか嫌な感じはしなかった。
「でも、なくなった記憶はそれだけなんでしょ? なら、むしろよかったんじゃない? もう変なヒステリー起こすことはなくなったんだから。アニキも安心だね」
僕がそう言うと隣のオイちゃんも大きく頷いた。
アニキは少し首を傾げながらも、「そうだよな」と呟く。
「まだ何度か検査とかしなきゃいけないみたいだけど、とりあえず今はすごく穏やかな感じだから、逆によかったのかもな。怪我の功名ってやつ?」
「しかしアニキ、そんな変な彼女でも別れないってすごいな」
「いや〜、愛しちゃってるからね」
おどけたやりとりに、僕らは声を上げて笑った。
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ところでユタカはというと、やはりと言うべきか、事故の次の日もまったく何事もなかったかのように登校していた。
教室で談笑する姿をこっそり左目で見てみようかとも思ったけれど、やっぱり怖いのでやめた。
ふと、ユタカが僕を振り向く。ニコリと可愛らしく笑うと近づいてきた。
「キタさんは、所属ゼミもう決めました?」
「いや、まだだけど…。楽なところがいいかなぁって」
曖昧に笑う僕に、ユタカはいたずらっぽく微笑む。
「多分、キタさんと私、同じゼミになると思います。あと、オイさんも」
「…ユタカは、何ゼミ希望なの?」
「ひぃさまのゼミです」
「……いやいやいや、あり得ないから。怖いこと言うのやめて」
ひぃさまのゼミは、毎週レポートを課される厳しいゼミとして有名だった。冗談じゃない。
「大体、あのゼミは成績優秀じゃないとダメでしょ。ユタカはともかく、一年の時のひぃさまの授業落とした僕とオイちゃんは、ないない」
「そうでしょうか」
ユタカは笑顔のまま小首を傾げた。
「そんな気がするんですよね。楽しみです」
ーー結論から言うと、やはりと言うべきか、ユタカの予言の通りになった。
僕とオイちゃんは人気の、言い換えれば楽なゼミを希望して抽選から漏れ、第二第三の希望も敗れ、巡り巡ってひぃさまのゼミに所属することになってしまった。
どんより、うんざりした僕らの隣で、ユタカだけは
「これから楽しみですね」
とニコニコしていた。
悔しかったが、その様子はとても可愛かった。
ユタカの話は、これにておしまい。
作者カイト
作中で、「狐憑き」について語るシーンがありますが、差別等を助長する意味合いはありません。
また、語られた内容は作者である自分、および作中の人物の見解であり、必ずしもこれが正しいわけではありません。
ご了承ください。