三、
それからの日々は、兎に角辛い、辛い辛い毎日でした。
勿論こんな僕ですから、上手くやり抜いてましたよ。嫁の前でも明るく、仕事も一生懸命やり抜いて、何も問題などありませんよ、という顔で過ごしていましたが、まあ心中は穏やかではありませんよ。
あぁ……、わかりませんよね、そんな経験のない人には……これでも気を使える男で有名だったんですが、耄碌《もうろく》したかな……すいません。
街中でツボミのような髪型の女性を見ると、思わず視線で追ってしまったり、ふと空を見上げて、あの頃の情事に耽ってみたりと、何とも不安定な日々が続きました。。それ程ツボミは、僕の心に深く突き刺さっていたんです。失って気づく真価とは、何ともよく言ったものですよね。
お店にですか?行ける訳ないでしょう。僕はそこまで図太い神経を持ってませんよ……貴方みたいに。
兎に角そんな毎日に、見えないまでも心は憔悴しきってたのでしょう。心の奥底に、深く深く潜って閉じ込められていた、パンドラの匣がゆっくりと開かれたのです。
──夢を見ました。夢の中で僕は散歩をしていました。見慣れた景色が広がります。そこは近所のグラウンドでした。
とっても良い天気でした。ぽかぽか陽気で、少し歩くと、じっとりと汗ばむ程です。
グラウンドでは、少年野球の試合が行われてます。
子供達の活気ある掛け声と、それを見守る保護者達の笑顔が、今でも脳裏に残ってます。僕はそれを横目に、ゆっくりと散歩するのです。
真四角のグラウンドをグルリと取り囲む様につくられた、緑色の網目のフェンス。一つ、二つと角を曲がり、ちょうど半周ほどした頃でしょうか。
今まであれ程の喧騒を誇っていたグラウンドから、気がつくと、人っ子一人居なくなっていたのです。
そればかりか、瞬きをした刹那に辺りは夕暮れに変わり、一気に肌寒くなりました。
そして……思い出したのです。永遠に消し去りたかった、少年時代の忌々しい記憶を──
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男がいました。フェンスの向こう側に立つ、ボサボサに伸びた髪の男。真っ暗く塗りつぶされた顔の中で、嫌らしい笑みを作る口元だけが何故か、くっきりと認識できました。
それは到底、まともな人間には思えない、危険な雰囲気を携えて、男は僕を指差しながら……笑っているのです。
そして……おもむろに自らの左腕を掴むと、いとも簡単に二の腕の中間辺りから、スッポリと抜き取りました。その抜かれた左腕は、まるで精巧な蝋細工の様な、それは薄気味悪い色をしていました。くの字を維持しながら、指だけがくねくねと蠢いています。
そして、左腕の肘には、あの白くて汚らしい、大きな絆創膏が貼られていたのでした。
僕は遂に気づきました。いや、納得したのです。自分の欲望を……夢によって認識させられたのです。
わかりますか?この時に僕は……僕は何を切望したのか。僕はあの時から、ずっとずっと、ずぅーっと、そのポッカリと空いた穴の中に巣食う、番《つがい》の蜘蛛を飼う男の
──腕が羨ましかったのです。
差し出された腕を恭《うやうや》しく受け取ろうと、一歩踏み出したところで僕は、夢から覚めました。妻が言うには、僕はとてもうれしそうに、眠りながら笑っていたらしいです。
余程良い夢を見たのね、と言われた時は、僕は頷く事しか出来ませんでした。どうせ説明したところで、到底理解されるとは思っていませんでしたので。
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四、
その日から僕はあの腕に囚われました。あの腕こそ、ツボミの裏切りによって傷つけられた、心の穴を埋める存在だと確信したのです。
初めはマネキンの腕はどうだろう、と思案しました。空いた時間を見つけては、方々のデパートに出向き、好みのマネキンを探し回りました。好みのマネキンを見つけた時は、思わず小躍りしましたよ、アハハハ。
しかし……違うんです。こっそりと触れたマネキンの腕は堅く、僕の心は全く震えませんでした。
では、蝋人形はどうだろう。そう考え、著名な蝋人形作家に特注の腕をオーダーしようと、何通も手紙を出しましたが、足元を見られたのか、法外な値段をふっかけられました。勿論それっきりです。今でも芸術家の、気取った態度は全くもっていけ好かないですね。死ねばいいのに。
途方に暮れた僕は、もう仕事どころではありませんでした。当時、表彰までされるほどの素晴らしい営業成績も、右肩下がり。
終いには課長代理に呼び出され、ネチネチと責められましたよ。初めて人を殺したくなりましたよ。
ところがね、その時閃いたのです。
──なんだ、無ければ作ればいいだけじゃないか。
その啓示に思わず笑みを浮かべてしまい、説教が長引いたのは笑い話ですが、ヒヒヒ。
腕を切り取っても差し支えのない人間、つまり、この世から消えたところでさほど影響のない、要は世捨人を探す。出来れば遠く離れた町、縁もゆかりもない場所で見つけるのが重要だと、僕は考えました。
幸い外回りの営業職だったので、時間と足は確保できます。もう営業成績など、眼中にありませんでした。
僕は毎日、理想の世捨人、浮浪者を求め、探しつづけました。そしてついに、ああ……あの日の感動を思い出すだけで、身震いが止まりません。
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その男は僕の住む町から車で二時間程の、山間にある町に住んでいました。民家から離れた土手の、小さな橋の下にブルーシートで住まいを構えてました。
僕はこう見えて、えらく慎重なのですよ。大切なのは痕跡をいかに残さないか。どんな断片でも油断大敵です。
僕は極力町の住人との接触を断ち、その疎まれているゴミの浮浪者に注力しました。
え?何故疎まれていると判断したか、ですか……?
普通に考えたらわかるでしょうがそんなの。考えてごらんなさいよ、あなたの家の周りにブルーシートで勝手に住居を構えて、日々フラフラとしている不潔な男を、あなたは慈しむのですか?助けるのですか?いい加減、僕を馬鹿にするのも大概にしなさいよ!
誰が怨みます?あんな……あんな社会のゴミのような、価値の無い男を……一人片付けただけで、誰が怨みます?わかりますか……僕は──
掃除をしただけだ。
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五、
決行の日、僕は家中をひっくり返して、ありったけの刃物と、腕を断ち切る為のノコギリや鉈、そして大切な腕を包むタオルと着替えを鞄に詰め込み、営業車でおとこの住処に向かいました。
地元の人間ですら、滅多に使わない様な、極力他人とすれ違わない道を選び抜き、細心の注意を払いながら向かったのです。
着いた頃には日が暮れかけていました。男が住む件の土手から少し離れた、おそらく使われなくなって久しい林道に車を乗り入れ、そこで息を殺してじっと夜を待ちました。
時間の感覚など、とうに失せた僕は、そこでどれほど待ったのか分からないけれど、気がつけば暗闇が田舎町を包んでいました。
僕は闇に紛れ、慎重にアイツの住処に向かうのですが……これまた興奮で火照った体に山から吹き下す夜風が何とも心地よくてねえ、思わず自分の立場をわすれて、鼻歌でも歌いたくなりましたよ。アハハハハ。
土手を駆け下り、小さな橋のたもとから様子をうかがうと、思惑通り小汚い、今にも潰れそうなブルーシートのテントが風に揺れている。
今あのテントに火を点けたら、さぞ美しいだろうな、などと考えながら、僕は更に夜が深けるのを待ちました。
これから訪れる喜遊の宴を反芻していると、いよいよテントの中から鼾が、風に乗って聴こえてきたのです。
まるでそれは、僕を祝福する天使の吹くラッパの様に、心地よく体に響きました。ブルブルと声帯が歓喜の叫びを求め、理性を保つので必死でしたね。
ああ、そういえば僕はこの時、会社のロッカーから拝借してきた、山下だか山崎だかの名前の入った作業着を着ててね。終わったら適当にそこら辺で処分する予定だった。
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さて、音も無く僕はブルーシートのテントに潜り込むと、改めてこの浮浪者を上からじっくりと覗き込んでみた。あれはなんとも、感慨深い瞬間だったなぁ。
男は鼾をかきながら、仰向けで幸せそうに大口を開けて眠ってたよ。
僕は震える体を抑え、男の上半身にゆっくりと、しかし躊躇なく馬乗りになった。男の腕を両足でしっかりと固めて、左手に持ったタオルを男の口にねじ込み、顎をグッと持ち上げる。晒された喉を目掛け、骨を避けるように意識しながら、右手の包丁を何度も何度も何度も何度も突き刺した。生温かい液体が噴き出て、僕の顔面をぴちゃぴちゃと濡らした。その感覚が滑稽で、思わず声を上げて笑ってしまったよ、ウヒヒヒヒハハハ。
滑って落としそうになる包丁を握り直し、逆手に順手に、繰り返し繰り返し突き刺し続けた。
男は始め、くぐもった声で喚いていたんだけど、次第にぱっくりと裂けた喉から漏れる、ヒューヒューとした音に変わり、それがもうねえ、なんとも珍妙で……ウフフ、すいませんワハハハハハ……ククククク……
徐々に暴れていた男の動きが静かになり、テントの中は僕の荒い息遣いと、男の生命の痕跡を主張するかの様な、むせ返る血の臭いだけが支配した。
そこは僕が求め作り上げた、唯一無二の聖域だ。わかるかい?
そのあまりの厳かな雰囲気に、思わず煙草に火をつけ、この清らかな空間を目一杯堪能したくなったよ。勿論我慢したけどね。
荒い呼吸が落ち着くと、僕は次の作業を開始した。そう、これからが本番。
ただね、ここで僕はほんの少し、男に慈悲を与えたくなったんだ……僅かにピクピクと筋肉運動を繰り返すだけの肉塊に身を落とした、この哀れで情けない男に、誠実な死を与えてやりたくなった。
だからね、僕は鞄から鉈を取り出して、首の骨を断ち切り、祭壇とまでは言わないけど、簡単な棚を用意してやり、そこに据えてやった。そうだ、賛美歌でも歌ってやればよかったな、そんな物知らないけれども。
この何気ない行為のお陰で、やたらと当時は、猟奇性を強調した報道がされたのを覚えているだろう?真相はそういう事ですよ、アハハハハ。
──ああ、腕ですね、流石に僕も、いい加減語る事に疲れてきましたね……
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本当は二の腕の中間から斬りたかったのですが、太い骨を切るには、少し疲労が溜まりすぎてました……なので左の肘関節部分を開き、関節の接合部を露出させて、そこを目掛けて鉈でぶった斬りました。本当はねぇ、ノコギリでゆっくりと丁寧に仕上げたかったんだけど、人を殺すって意外に疲れますよねウヒヒヒ……ハハハ。
これで僕はやっと夢を叶えたのです。ほら、見てくださいよ、この、美しくて、艶やかで、なんとも言えない肌触りの、腕の形をとった、蜘蛛の、蜘蛛達の、愛の巣を……ウフフ……ほら、ほら、耳を傾けてください、こうやって左右に傾けると、ほらほら、何とも甘美な音がするでしょう?ウフフ……フヒヒ……アハハハハハ……
アハハハハ。
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六、
御衣河《おいかわ》|恒造《こうぞう》はまくし立てる様に語り終えると、まるで魂が抜けた様な、なんとも満足気な表情で宙空を見つめ、彼が『腕』と呼ぶソレを、愛おしげに摩っていた。
長年の病院生活により髪は白く染まり、生気の欠けた青白い顔には、深く皺が刻まれている。前後に忙しく体を揺すりながら、等々と語られる物語は、彼が築いた人生であり、証である。例えそれが虚構であっても、その真意は当事者以外には全くもって関係ないのだ。
御衣河《おいかわ》|恒造《こうぞう》はその、閉じられた世界で生きてきたのだ。
彼の左肘付近に残る、格子状に刻まれ、常人では直視に耐えられない程の傷跡は、己を、監獄に閉じ込めようとする心と、それに抗い、戦い続けた彼の戦歴だと理解するのは容易であろう。
入院してから十五年程経過した今は、傷による肌の引き攣り故に、左腕の不自由さは隠せないが、日々の生活にさほど支障は見受けられないのが幸いである。
常に持ち歩いているが故に擦り切れ折れ曲り、黄色く褪せた妻の写真と、ダンボールを円錐形に丸めた、自作の『腕』が彼の拠り所であった。
常に愛撫を繰り返すので、繊維が毛羽立ち、それはあたかも産毛の様にも見えた。
両端は粘着テープで堅く閉じられ、円錐の下方側面部分にポッカリと五百円玉程の穴が開けられている。
看護師に無心して手に入れたらしきガーゼが、幾重にも分厚く止められており、かの男の絆創膏の様に、茶色く薄汚れていた。
彼はその『腕』を大切に抱え、時に頬ずりし、左右に揺らして中の音に耳を傾けるのである。
『腕』の中には彼が、中庭で集めた、様々な虫の死骸が砕かれ、無数に詰まっていた。
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「奥様はお元気ですか?」
「ええ、弟の話では……元気に……やっているようです。僕は早く……帰りたい……のですが、まだ……帰れ……ません……か?」
彼は疲れたのか、船を漕ぎながら答える。
「疲れましたね。今はゆっくり養生しましょう。ゆっくりと」
もう私の声は届かないのか、眼を積むったまま『腕』を撫で続けている。
私は横に控える看護師に頷きかけ、彼をベッドに連れ帰るように促した。ゆっくりと立ち上がり、看護師に支えられて部屋を後にする御衣河《おいかわ》|恒造《こうぞう》を見つめていると、ついつい他人の心を理解する難しさを、治療しようとする浅ましさを、痛感してしまう。
彼は決して頭の悪い男ではない。ただ何処かで、世間との歯車が噛み違っただけなのだ。
いつまでもグルグルと思考が脳内を回る。
──ああ、また私の悪い癖が出てしまった。
冷めた珈琲を一気に飲み干す。次の診療までには幸い多少の時間があるようだ。息抜きに外で珈琲でも、と立ち上がると、先程まで御衣河《おいかわ》|恒造《こうぞう》が座っていたソファーの足元に落ちている、何かが目に付いた。
拾い上げるとそれは、ガラス製のおはじきだった。
彼がが中庭で拾ったのだろうか。土の汚れと、幾度も踏みつけられたのであろう、表面の細かい傷のせいで、本来の輝きはすっかり失せていた。
紅い差し色の入った、濁ったガラスの塊であるソレを何となく電灯に透かしてみる。そこには濁った世界が広がるばかりだった。
私は一瞬、おはじきをポケットにしまうか逡巡したが、思い直し、部屋の傍のアルミ製のゴミ箱に投げ捨てた。
思いの外ガラガラと派手な音が、大きく部屋に響く。
──その音が今は、とても心地がよかった。
終
作者退会会員
夢というのは、なんなのでしょうね。
いつも思います。
僕が見てる夢は、本当の僕の夢なのか──
だってね、知らない場所しか出てこないんですもの。