一、
──虫は好きですか?虫ですよ虫。あの虫です。黒くて丸くて、小さな小さな虫です。名前ですか?そんなの知りませんが、虫なんですよ。
例えば、なんらかの要因で昔の記憶が、ふと甦る事ってあるじゃないですか。ありません?あるでしょ?あれが虫なんですよ。虫。聞いてくれますか?そんな僕の話。
昔って今ほど危機管理っていうんですか、子供を過剰に守る風習なんて無かったじゃないですか。子供は風の子とか言って、どこで遊ぼうが基本、親はほったらかし。問題さえ起こさなければ、それ程何も言われなかった、よく言えば大らかな、今思えば何とも雑な時代でした。
あれは小学校の中学年くらいでしたか。その日も僕らは近所、のグラウンドで野球をやってました。もちろん土のグラウンドですよ。プラスチックのバットとビニールのボールを使ってました。所詮は真似事みたいなもんです。せいぜい僕を含めて四人ほどだったので、それで十分だったんです。
秋風が肌を刺していた記憶があるので、十月頃でしたか。僕らは寒さも忘れ、それは夢中になって遊んでましたよ。
太陽が沈みだし空が赤く染まってきた頃、僕以外の友達がトイレに行くと言って、駈けだしました。そういえば、今の子供達でも連れ立ってトイレに行くんですかね。まあ、どうでもいいんですがそんなこと。
僕は一人残ってみんなを待ってたんです。
そうそう、僕の町では朝八時と夕方五時にチャイムが鳴るんですよ。結構大きな音で、一分ほどメロディーが小さな町に響き渡るんです。
それを聞くと、ああ、そろそろ帰らないと怒られるなと、子供ながらに思うわけです。きっと防犯の為なんでしょうね。何とも物悲しい曲が響く中、僕は一人でボールを壁に当てて、みんなの帰りを待ってました。
そんな時にね、声をかけられたんです。あ……いや、目が合ったのかな……よく覚えてないですが、とにかく会ったんですよあの男に。
グラウンドと周囲の道とを隔てる、金網のフェンス越しに男が笑ってたんです。抜けた前歯でニタリと歪む笑顔が、本当に気持ち悪くて……
僕は凄まじい恐怖に体が硬まってしまって、逃げる事ができませんでした。
わかりますか、その時の恐怖ったらもう。ほらほら見てくださいよ、今でもこんなに鳥肌が。ああ……、気持ち悪い……
すいません、話を進めますね。本当によく言われるんですよねえ、おまえの話はまどろっこしいよって。この前もほら、あったじゃないですかあの──
え?ああ、すいません、すいません。えっと……何の話でしたっけ?いやいや嘘ですよ、そんな顔しないでくださいよ。
とにかくその男ですよ。小汚い男。今思えば浮浪者でしょうね、アレは。
その男がね、恐怖で硬まってる僕にね、おもむろに「おいでおいで」ってするんですよ、フェンス越しに。僕は怖い筈なのに、何故かね、ふらふら近づいちゃったんです。多分、金網越しだから、最悪逃げ切れると子供ながらに思ったんでしょう。今なら即、問題になりますよね。
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──ええもん、見せたろか?
そう言って男は、ボロボロの服の袖を捲って、左腕の肘を僕に見せつけてきました。
そこには、白くて大きな絆創膏みたいな、汚い何かが貼られてました。日が翳り薄暗くなってきた周囲に、ぼんやりと淡く光る白が、印象的でした。
男はその絆創膏を、ゆっくりゆっくり剥がしだしました。薄汚い肌が徐々に現れ、何か黒くて小さな物がポロポロと、絆創膏の際から漏れ落ちてくるんです。
ポロポロポロポロ、黒くて小さな物がポロポロポロポロ。絆創膏が剥がれるに従って、量も増えていくんです。本当は見たくないのに、僕は目が離せなくなってました。自分の意思とは逆に、足がどんどんフェンスに向かっていき、金網越しに、じっと男の肘を凝視してました。こみ上げる吐き気を必死に我慢しながらね。
大嫌いなんですよ……虫。
ついに男は絆創膏をね、全部剥がしました。そこには一体、何があったと思いますか?
穴ですよ。穴。ポッカリと空いた穴。
五百円玉くらいの大きさでしょうか。そんな真っ黒の穴からね、無数の、小さな虫が溢れてくるんです。そんな情景、見たことあります?肘に穴の空いた人間なんてそうそう見れませんよね?あれ、無視ですか?ね?ないでしょ?ほら。
でもね、これで終わりじゃないんですよ。小さな黒い虫が一段落するとね、奥からね、出てきたんです。大きな蜘蛛が、しかも二匹……ゆっくりと。あれはね、番《つが》いですよ……絶対そうです。
僕は我にかえると、弾かれた様に逃げ出しました。一緒にいた友達の事なんてすっかり忘れて、無我夢中で駆け出しました。
途中で何度か転んだんでしょう、家に着いた時には、全身砂まみれ傷まみれ。それは母親にこっ酷く怒られましたよ。
でもそんな母親の怒声なんて、全く耳に入りませんでした。だってあの男の、気持ちの悪い笑顔が頭から離れなくて、ご飯も食べずに布団に潜り込んで、ガタガタと震えてました。
え?両親にですか?そんなの言えませんよ。言ったらあの男が家まで来るんじゃないかと、もう怖くて怖くて……それからは、とにかく恐怖が薄れるまで、友達に何を言われても、適当にはぐらかしてました。
でもね、何故かあの男を近所で目撃したのは、僕だけなんです。
いくら危機管理の薄い時代だとしてもですよ、不審者が近所をふらふらしてたら、それはやっぱり噂になりますし問題にもなりますよ。でも、それらしい噂はそれからも全く聞かなかったんです。
更に不思議な事にね、あの日、一緒に居た友達に聞いても、そんな男知らないって言うんです。
僕、それで何だか参っちゃって……一時期塞ぎ込んでたんです。
でも子供って、凄いですよね。嫌な記憶を封印しちゃうんですよ。あれは全部夢だったんだって。
結局、何事もなかったかのように、僕は全てを忘れて、いつも通りの生活に戻りました。
月日が経ち、そこからは平々凡々。普通に進学し、就職し、結婚し、気がつけば三十代も中頃になって、毎日慌ただしいけれども、まあ、幸せな日々を送ってました。
因みに恋愛結婚です。聞いてません?ああそうですか。
そういえば貴方、ご結婚は?え、彼女も居ないんですか?
あのお、僕が言うのもなんですが、恋愛くらいした方がいいですよ?
家にね、待っててくれる人がいる生活って、大切だと思うんですよねえ人生には。ああ、はいはい、続きですねはいはい。あなたせっかちですね。モテませんよ。
その頃は地元の、小さな会社で働いてました。主に外回りの営業です。毎日、方々を走り回ってました。
これでも成績は良かったのですよ。偶に海外出張など入ったりしてね。小さな会社でしたが、そんな生活に満足してました。
そんな時です。彼女に出会ったのは。
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二、
彼女は地元の飲屋街の、小さなスナックで働いてました。僕はお酒はあまり得意じゃないのですが、付き合いは良い方なので、先輩方に色々と、可愛がってもらってたんです。あと僕に子供がいないというのも、ひかくてき誘いやすかったんでしょう。
その店に初めて行ったのは、入社何年目かの、年末の忘年会の……あれ、何次会だったっけな……忘れましたが、先輩方が連れて行ってくれたんです。確か、三人だったっけな、僕を含めて。
どうやら会社行きつけのスナックだったようで、僕以外はまるで、家に帰ってきたようなリラックスぶりでした。ママただいまー、とか言っちゃって。
僕らはボックスに案内され、ママと、どちらかの先輩のお気に入りの女性なんでしょう、スリムな体型の若い子が横に付きました。自然とテーブルにはキープボトルとグラスが並び、せっせと女の子が薄い水割りを作ってましたね。
僕は普段スナックには縁がないので、その光景を酔った頭でぼーっと見てました。酔いと店内に響く誰かの下手くそなカラオケのせいでしょうか、視界がぐるぐると
回ってました。
──どうぞ
そう言って僕の隣に座った女の子が、オシボリをくれました。
温かいオシボリで顔を拭くと少し酔いも落ち着き、冷静さが返ってきました。そしてやっとその彼女、ツボミを認識したんです。
ツボミは当時二十代後半で、ぽってりとした唇が印象的な、丸顔の女の子でした。
そして何より印象的だったのは、まるで腕を隠すように付けられた、二の腕まである長い手袋でした。あのてのお店では、腕やら太ももやら、やたらと露出の高い服を着るモノでしょう?そんな中でツボミのその手袋は、ある意味異様に見えました。
でも僕は、そんなツボミに何故か惹かれたんです。その時は、理由なんて全くわかりませんでしたが。
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年が明け、つかの間の休息も早々に、また普段通りの慌ただしい日常に戻りました。
そんな中でも僕は、多少無理をしてでも時間を作り、ツボミを求め、例のスナックに通いました。
季節が巡り、気候が変わっても相変わらずツボミの手は、手袋で隠されたままでした。
確かに変わった子だったと思います。他の子に比べて、はしゃぐ事も少なく、はたから見ても決して営業熱心には見えませんでした。僕以外にも熱狂的な客が数人程度いたようですが、その独特の雰囲気に皆、彼女を持て余しているようにも見受けられました。
ですから僕が急に来店しても、大概は彼女を独り占めにできたのです。
そんな僕らが男女の関係になるまで、それ程時間はかかりませんでした。あ、言っときますけど、僕は決して下心で通っていた訳では無いですよ。僕はね、こう見えても一途ですから。何ですかその顔は。信じてないんですか?
今でもね、僕は妻の写真をこうやって、ほら、いつも持っているんですよ!ほらちゃんと見てくださいよ!
──すいません、少し熱くなってしまいました。話を続けます。
ツボミが決して外さなかった手袋。どうしても外せなかった理由を、初めての逢瀬で僕は、遂に知る事になったのです。
──うふふ
妖艶に笑いながら、一糸まとわぬ姿で最後に彼女は、手袋をゆっくりと外しました。間接照明に浮かび上がるツボミは恐ろしいまでに淫靡で、僕は理性を保つのに必死でした。女の怖さを初めて理解した、そう言っても過言ではありません。
僕は知ったのです。その手袋の下、ツボミの左肘に
は……
──番《つがい》の蜘蛛がおりました。
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彼女が何を、どれだけ言われても決して手袋を外さなかった理由。
それは、左の肘を中心に、繊細に、そしてグロテスクに彫られた刺青のせいだったのです。
確かに所詮は刺青、理解のある人も少なからずいるでしょう。しかしツボミのソレは、未だ嘗《かつ》て見た事の無い、刺青と一言で片付けたくない程の、正に芸術でした。
人間業とは思えない程に細い線で描かれた蜘蛛の巣に、産毛すら触り感じれそうな程見事な番《つが》いの蜘蛛が、なんとも妖艶に生きておりました。
周りには子供達なのでしょう、それはそれは小さな蜘蛛達が遊び回っているのです。
ツボミが守っていたのは、蜘蛛達なのです。
わかりますか?彼女が心無い暴言や、時に与えられるであろう暴力によって、傷つけられる事を最も怖れたのは、
——自分自身ではなく蜘蛛達だったのです。
ツボミの肌から放たれる艶味のある香気が、一層強く僕を襲った気がしました。僕は、この瞬間に飲み込まれたのです。まるで女郎蜘蛛の糸にからめとられた、何とも下らない虫の様に。
そこからは無我夢中で彼女を、ツボミを貪り、求め、そして懇願しました。
──僕を愛しておくれ。愛して……お願いだから。
彼女はニッコリと愛らしい笑みで答えてくれました。
そんな彼女との逢瀬は確か……一年程続いたと思います。あれ程僕が……懇願したというのに、あんなにお互い激しく求め合っていたというのに……彼女は呆気なく僕の元を去っていきました。
しかし僕は無力です。なんせ既婚者ですから……勿論笑顔で彼女と別れました。しかし心は張り裂けそうに、チクチクと体を痛めつけました。
え?振られた理由、ですか?
僕がいつ振られたと言いました?
本当に失礼な人ですよね……まあいいですよ。僕が大らかな人間でよかったですね。
教えてあげますよ。彼女はこう言いったんです。僕の目も見ずに、ただ一言
──いい人が出来たの。
それだけですよ。
作者退会会員
初めて書いた作品です。
ある夜に見た夢を元に書きました。
お時間ある時にでも、どうぞご覧くださいませ。
虫が沢山出てきますので、苦手な方はご注意を。