「くそ、バカにしやがって!」
男は一人毒づきながら、足元の空き缶を思い切り蹴飛ばした。
「どいつもこいつも、俺をバカにしやがる」
事の発端は、勤めている工場での昼休みだった。
若い女子社員たちが何やらスマホを中心に、ワイワイと笑いさざめいていた。ちょっとした好奇心と先輩風を吹かせたくて、「若い奴らは賑やかしいな、何がそんなに楽しいんだ?」と声をかけた。
突然声をかけられて、女子社員たちの空気が一瞬止まった。中には、あからさまに迷惑そうに眉をひそめた者もいた。
しかしすぐに目配せをしあい、そして貼り付けたような笑みを浮かべながら、スマホの画面を男に見せた。
「なんだよ、これ」
「モスキート音って、知ってますか?」
「若者にしか聞こえない音なんですよ。聞いてみてください」
「さぁさぁ」
嫌な予感がした。画面に流れる『再生中』という文字が虚しく男の目に映る。
再生されているという音は、男の耳にはさっぱり聞こえなかった。
「あら、聞こえませんか? おかしいですね」
「耳年齢が高いのかな?」
「耳年齢じゃなくて、ねぇ?」
「あ、でもでも、耳のお掃除をしたらしっかり聞こえると思いますよぅ」
女子社員たちの嘲笑は、はっきりと男の耳に残った。
「ふざけんな、何が耳年齢だ。俺はまだアラフォーだよ、バカやろう」
男は夜の公園のベンチにどっかりと腰を下ろした。
定時で逃げるように職場を後にし、しかし行くあてもなくこの公園にやってきた。本当ならこんな日は、行きつけのスナックのカウンターで優しいママに愚痴を聞いてもらいたいところだが、給料日前ではそんな余裕もない。
家に帰ったところで、慰めてくれる家族もいない寂しい一人暮らしだ。いい年をして、一人公園でワンカップをあおるしかない現実に、男の苛立ちはいや増した。
「くそ、くそ、くそ! あいつらバカにしやがって、覚えてろ」
「随分、荒れてますねぇ」
苦笑するような声に、男は弾けるように振り向いた。
そこには、夜の公園には似つかわしくない女性が一人、涼しげな目元を細めて立っていた。
「どうしたんです、よければ話を聞きますよ」
なんだこいつ、酔っ払いか? 男は訝しんだが、これは好都合とも思った。タダで、スナックのママより美人な女に愚痴をこぼせるのだ。なかなかあることではない。
一応美人局なども疑って周りを見渡したが、それらしき影はない。女は一人きりのようだった。
男は昼間の出来事と、加えていつも若い社員にバカにされていることを洗いざらい口汚く女にぶちまけた。自分が実は正社員ではなく派遣であること、そのくせ思い通りにならないとすぐに拗ねて仕事をサボり、文句ばかりに終始していることなどは、もちろん口には出さなかった。
女はそんな聞き苦しい話を、にこやかな笑顔を絶やさず聞いていた。
やがてひとしきり話し終わり男が落ち着くと、女は口を開いた。
「モスキート音って、十七キロヘルツ前後の高周波の音のことをいうそうですね。蚊の羽音に似た不快な音だから、モスキート音っていうんですって。高周波の音は年齢を重ねると段々聞こえなくなってしまうので、公園や公共施設なんかでは、若者の深夜のたむろを防ぐのにこのモスキート音を利用するところもあるんだとか」
「ふーん… あ、いや、それがどうしたんだ。だからって、俺をバカにしていいわけじゃないだろ」
思わず感心しかけた男が虚勢を張ると、女は「もちろんですよ」と頷いた。
「私が言いたいのは、聞こえない音を聞く必要はない、ということです」
「はぁ?」
「聞こえない音というのは、聞こえなくても良い音だと思うんです。だから、あなたに必要がない音に無理に耳をすませる必要はないと思いますよ」
女の言葉をどう考えても前向きな励ましだったが、男はなにか癇に障った。
「なんだそれ。俺は聞こえないなんて一言も言ってないぞ? 聞こえない音は聞かなくていいだと? 誰が聞こえないなんて言った、お前も俺をバカにするのか!」
男の怒鳴り声に、女は困ったように笑った。それがまた苛立ちを刺激する。
「おい!」
「申し訳ありません。怒らせるつもりはなかったの。私はこれでもう退散しますね」
「逃げるのか、おい、待て!」
男の伸ばした腕をスルリとかわし、女は妖しい笑みを残して去っていった。
追いかけようとした男はバランスを崩し、ベンチから転がり落ちる。額をしたたかに打ち、思わず悶絶した。
痛みが去った後も、腹立たしさと情けなさでそのままの姿勢で動けずにいると、頬のあたりにチクリと小さな刺激を感じた。しばらくすると、じんわりとそこから痒みが広がる。
「くそ、蚊がいやがる」
毒づいて、男はふと思った。
蚊の羽音が聞こえないだと? そんなことあるもんか。今ここで証明してやる。
男は頬の痒みを我慢し、横たわった姿勢のまましばらく耳をすませた。
なにも聞こえないまま、あちこちにチクリとした痒みが生まれていく。舌打ちをしようとした時、ふと何かの音が男の耳をかすめた。
「〜〜……め」
ん? 蚊の羽音か?
「〜〜〜な」
「………い」
男はほくそ笑む。ほらな、蚊の羽音が聞こえないなんて、そんなわけあるか。俺をバカにしやがった奴ら、明日散々文句言ってやる。
「くちだ〜〜な」
「のう……」
しかしなんだ? 蚊の羽音にしては、少し妙な気がする。
「ていへんめ」
「はずかしいな」
「いいとしして、なさけない」
なんだ? なんだ?
「くちだけはりっぱだな」
「のうなしにんげん」
なんだ、なにを言っている? 俺のことか? 誰が言ってるんだ?
「底辺め」「恥ずかしいな」「いい歳して、情けない」「口だけは立派だな」「能無し人間」「底辺め」「恥ずかしいな」「いい歳して、情けない」「口だけは立派だな」「能無し人間」「底辺め」「恥ずかしいな」「いい歳して、情けない」「口だけは立派だな」「能無し人間」「底辺め」「恥ずかしいな」「いい歳して、情けない」「口だけは立派だな」「能無し人間」「底辺め」「恥ずかしいな」「いい歳して、情けない」「口だけは立派だな」「能無し人間」
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「お前のことだよ」
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・・・・・
「うわああぁぁぁ」
遠くから聞こえてきた悲鳴に、玲子は肩をすくめた。
「あーあ。だから、聞かないほうがいいと言ったのに」
仕方ないわね、とどこか楽しそうにため息をつく。
その時だ。
「玲子お姉ちゃーん」
カタカタと下駄の小気味いい音を立てながら、少女が一人走ってきた。
「璃子ちゃん。どうしたの、その格好」
玲子は驚いて、ニコニコと笑う浴衣姿の少女を見下ろす。
少女は名前を璃子といい、玲子の姉である蓉子の娘だった。いつもは家族で隣の県で暮らしているのだが、蓉子の里帰り出産のため数日前から玲子の家で生活していた。
「尾崎のひいばあちゃんが送ってくれたの」
璃子は嬉しそうに、白地に赤と黄色の花模様の浴衣の袖を広げてみせた。
尾崎のひいばあちゃん、とは、玲子達姉妹の母方の祖母のことだ。なるほど尾崎の家は旧家だから、ひ孫にあげる浴衣くらいいくらでもあるだろう。
「よかったわね。お礼言った?」
「うん。お電話したら、美穂お姉ちゃんが出た。この浴衣、美穂お姉ちゃんが子供の頃着てたやつなんだって」
「そう。じゃ、璃子ちゃんも美穂ちゃんみたいに綺麗になるかな?」
「そうだよー」
璃子は下駄をカラコロ鳴らしてはしゃぎ、慣れない足元におっとと、とこけそうになる。
小さな姪を支えながら、玲子は少し厳しめの声を出した。
「でも璃子ちゃん、こんな暗くなってから一人で出歩いちゃダメよ。危ないじゃない」
「でも、璃子は暗いところでもよくお目め、見えるよ?」
「それでもダメ。夜は、怖いものがいっぱいいるんだからね」
その言葉に璃子は一気に不安げな顔になり、玲子のスカートを掴む。そんな璃子の髪を撫でながら、玲子は一緒に帰路についた。
「ねぇ。赤ちゃん、弟かな? 妹かな?」
「うーん、妹じゃないかな?」
「えー。璃子、弟がいいなぁ」
「じゃあ、弟かもね」
「ほんと? やったぁ!」
「うふふ。璃子ちゃんはまだ、自分の好きなことだけ聞いてたらいいわ」
作者カイト
掲示板にて開催されている「夏休みの宿題」(ショートショート)用にと書いたのですが、字数を大幅にオーバーしてしまいこちらに。
ついでに、最後に蛇足もつけています。