盆の舟〈『話』シリーズ 外伝〉

長編9
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盆の舟〈『話』シリーズ 外伝〉

八月に入り、私はウキウキしていた。

県外の大学に進学していた兄が、もうすぐ帰ってくるからだ。

私は、自他共に認めるブラコンだった。

兄は、特別頭がいいわけでも特殊能力があるわけでもなく、もちろんイケメンでもない。優しい方だとは思うが、遠慮がない私たちは幼い頃にはそれなりに血を見る喧嘩もしてきた。

それでも自分でも不思議な程、私は子供の頃から兄が大好きでしょっちゅう後をついて回ったし、喧嘩をしてもその日の内に仲直りをしてきた。

兄の帰りを待ちわびていたのは、私だけではなかった。今年に限っては、家族全員がそうだった。

何度も繰り返すと兄が傷つくのでやめておくが、兄は我が家のアイドルというわけでは決してない。

両親はどちらかというと放任主義なので、元気で頑張っていることが分かれば別に帰省しなくても構わない、というタイプなのだが、今年は特別だった。

兄は一昨年の冬、大きな事故にあった。

命に関わるような大怪我だったにもかかわらず順調に回復し、左目をほぼ失明するという後遺症は残ったもののどこかあっけらかんとした兄の態度は、私たち家族を安堵させた。

怪我のため一年遅れたが意気揚々と大学に進学した兄だったが、わずか一ヶ月後の五月に、なんとも言えない表情で突然帰省してきた。

わけを問いただしても、「うん、もう、解決…した?から、大丈夫」と要領を得ない返事が返ってくるばかり。解決したという割にはやつれたその顔に、私たちは「失恋でもしたのか」と心配したが、数日自宅でゆっくりするうちに、兄はいつもの能天気であっけらかんとした兄に戻り、あっさり大学に戻っていった。

そんなことがあったので、私をはじめ両親は兄の様子が気になって、夏に入ってから帰省を心待ちにしていたのだ。

その兄が、ようやく帰ってくる。

生まれた時からのブラコン歴十七年の私が、嬉しくないはずがなかった。

・・・・・

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「兄ちゃん! ……⁈」

八月十三日。長距離バスで帰ってきた兄を駅まで迎えにいった私と父は、一瞬言葉を失い互いに顔を見合わせた。

「久しぶり、迎えありがとう」

見慣れた笑顔は、その左半分が鬱陶しく伸ばした前髪で隠されていた。

「…兄ちゃん、バンドでもやりだしたの? それか、今更妖怪アニメオタク?」

兄は苦笑していた。

ブラコン的には、アニメオタクでも全然構わないけど。

家へと向かう車の中で、兄は前髪の経緯を話してくれた。

「左目に少しだけ残った視力が邪魔でさ。ものを見る時チラチラするんだよね。だから、前髪で隠したんだ」

「それ、前髪以外に方法はなかったのか?」

「眼帯だと、中二病みたいじゃん?」

「いや、その髪型でも割とそんな感じだけど」

私と父になんやかんやと言い訳をする兄は私の知るいつも通りの兄で、見かけは少し変わっていたものの私はホッとした。

家に着くと、玄関からまず兄が向かったのは仏壇だった。

少しぎこちない手つきで線香に火を灯し、手を合わせてしばし目を閉じる。

私と父は、再度顔を見合わせた。

家にいた頃の兄は、先祖を敬うとかそういったことには無頓着で、自分から進んで仏壇に参るということはまずなかったのだ。

私たちの視線を受けてか、兄は少し照れくさそうな顔で「家に帰ったらまずこうしろって、ある人に言われたんだよ」と弁解した。

「兄ちゃん、なんか変わったね?」

私が言うと、兄は「そうかな」と苦笑した。

「なんかいい感じじゃない? 髪型は微妙だけど」

「一言余計だな」

「ある人って、まさか彼女?」

「だとよかったんだけどなぁ。違うよ」

私は小さい頃から、兄が嘘をついているかそうでないかがなぜかわかる。特殊能力とかではなく、長年一緒にいて培われた勘のようなものだ。

彼女がいないのは本当だと、兄の顔を見ればすぐわかった。

でも、少し寄せられた眉のあたりが「それだけじゃないんだけどね」と語っていた。

・・・・・

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八月十四日。

私は朝から、兄と海に行く気満々だった。

我が家は海から徒歩十分の場所にある。子供の頃から海は慣れ親しんだ場所で、私たちの兄妹の夏の遊びの定番だった。

我ながら「いい歳して」と思わなくもないが、進学で少し変わってしまった兄を、懐かしい遊びで手元に繋ぎ止めておきたい気持ちがあったのかもしれない。

「ねぇ兄ちゃん、海に行こうよ」

朝食後早速そう持ちかけると、兄はあからさまに嫌な顔をした。

面倒臭がるかもとは思ったが、ここまでの反応は想定外だ。私は正直ショックだった。

「ん〜、ごめん。ちょっとムリ」

「なんで? 昔はよく海で遊んだじゃん!」

「いや、そうだけどさぁ」

「いいじゃん、海行こうよ」

「だってさぁ、ほら… 今お盆じゃん?」

明らかな苦し紛れのその言葉に、私は眉を寄せた。

「だからなによ」

「お盆に海に行っちゃダメって、お前も聞いたことあるだろ? 昔よく、子供会の肝試しで話してもらったよな」

確かに、そんな話を聞いたことはあった。

私たちの住む地域では、先祖の御霊たちは海から帰ってくるのだといわれていた。お盆になると海はあの世と繋がって、御霊たちは舟に乗ってあの世とこの世を行き来するのだと。

お盆の初めに海に行くのはまだいい。御霊たちは自分の家に帰りたいばっかりで、海で遊ぶ生者のことなど気にしないから。

でも、盆の終わり、送り盆の時期になると海に近づくのは厳禁だ。

御霊が乗ってきた舟は行きと帰りで人数が揃っていれば良いので、誰が乗るのかは構わないらしい。

それを知っているこの世に留まりたい御霊が、あるいは御霊を乗せてきた船頭が早く仕事を終えてあの世に帰りたがって、人数合わせのために生者の足を引っ張って溺れさせるのだという。

だから、お盆に海に行くと足を引っ張られるぞ、と昔からよく聞かされていた。

「でも、それってただの迷信でしょ?お盆過ぎたら波が高くなったりクラゲが出て危ないからでしょ。大体、今まで何度もお盆に海に行ったけど、何かあったことなんてなかったじゃん。なんで急にそんなこと言うの?」

そう詰め寄ると、兄は眉を八の字に下げて「ごめんな」と呟いた。

「とにかく、海には行かない。お前も絶対に行くなよ」

「兄ちゃん!」

「昔から言われてることが、全部迷信とは限らないんだから」

兄は真剣な目でそう言った。

私は、猛烈に腹が立った。兄の意図するところがわからない。海に行きたくないならその理由をはっきり言えばいいのに、昔話を出してはぐらかす。そのくせ、嘘をついている様子はない。でも、何か私に隠している。

大好きな兄のことがわからない。そのことが私にとってはものすごくショックだった。

「もういい!」

昔から怒った時の口癖を口にして、私は自室に引きこもった。

部屋に入る直前、兄の困った顔でなにか言いかけたが、相手にしなかった。

さて、兄への当て付けで部屋にこもることにしたはいいものの、特にすることはなかった。一応学生だが、勉強なんてする気は起きない。

ベッドに寝転がって見飽きた漫画をパラパラとめくっているうちに、なんだか眠気が襲ってきた。

そして、夢を見た。

・・・・・

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波の音がする。

私は、慣れ親しんだ浜辺に一人佇んでいた。

辺りは薄暗く、明け方なのか夕方なのかわからない。空には太陽も星も見えず、東西のどちらかが明るんでいるということもなかった。

なんとなく、抽象画の世界に迷い込んでしまったような不安感。

すると波の音に混じって、パチャパチャとなにかに水が当たる音が聞こえてきた。

なにかと目をやると、波打ち際から少し離れた沖にボロボロの小舟が浮かんでいた。昔話に出てくる渡し舟を思わせる手漕ぎの、古めかしい舟だ。

中には、青白い顔をした無表情の人々が、舟が沈まんばかりにひしめきあっていた。

その中に一人、破れた笠をかぶった人物がいた。櫂のようなものを持っているので、船頭だろうか。

船頭は、骨のように細い指で乗客たちをを順番に指していき、数え終わると一つ頷いた。そして、ゆっくり舟を漕ぎだした。

その光景に目が離せずにいる私に、一人の乗客が振り返った。舟の最後尾に乗り、最後に数えられていた乗客だ。

心なしか血の気の残ったその顔を見て、私は息を飲んだ。

悲しげな顔で私を見つめる乗客は、私と同じ顔をしていた。

・・・・・

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「あぁ!!」

悲鳴を上げて飛び起きた私は、周りを見回し、先ほどのことが夢だとわかって胸をなでおろした。激しい動悸をなだめるように深呼吸を数回する。

「へんな夢…」

呟いた時、ふと兄の言葉が頭に蘇った。

『お盆には海に行っちゃダメ』

『昔から言われてることが全部迷信とは限らない』

兄はもしかしたら、あの夢が夢じゃなくなることを恐れたのだろうか。

その時、少し控えめなノックの音が響いた。次いで「アイスでも食おうよ」というあっけらかんとした兄の声。

そういえば子供の頃から、こんな風に仲直りをしてきたことを思い出した。どんなに怒っていても、少しすれば何事もなかったような兄の態度に怒りは溶けてしまうのだ。

なんだか嬉しくて、私は怒っていたことも忘れて「はーい!」と大きく返事をした。

・・・・・

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八月十六日。

珍しく午前中から課題をこなしていた私の耳に、防災無線が鳴り響いた。

この防災無線は各家庭に配布されており、火事や台風とといった防災情報はもちろん、町内のイベントや休日当番医までお知らせしてくれる。そして時に、行方不明者の情報提供を求めることもあった。

無線から流れてきたのは、海で若者が行方不明になったことと、その情報を求める内容だった。

放送に聞き入る内に、先日見た夢が脳裏に浮かんできた。

暗い海に浮かぶボロボロの小舟、青白く生気のないたくさんの乗客、乗客の人数を数える枯れ木のような船頭の指。

そんなはずではなかったのに、舟に乗せられてしまった誰か。

ただ夢を思い出しただけのはずなのに、私は二の腕がゾワリと粟立つのを感じた。

寒気を感じて両肩を抱いた時、コンコン、と部屋のドアがノックされた。

ノックとほぼ同時に扉がガチャリと開き、ヒョイと兄が顔をのぞかせる。長い前髪がサラリと揺れた。

「兄ちゃん、開けるの早すぎ…」

なんだかホッとして、そんな軽口が漏れる。

「なぁ、コーヒー飲まない?」

「え?」

「ホットだけど」

「えぇ?」

この暑いのに? と言いかけて、私は依然粟立つ自分の腕を見た。

夏だというのに、今の私はなんだか寒い。

「なんかちょっとさ、あったまりたくない?」

「…あったまりたいかも」

兄は、どうして寒いのだろう。

もしかしてあの放送を聞いたからだろうか。

兄も、行方不明者の行方について思うところがあるのだろうか。

聞こうとして、やっぱりやめた。その代わりに、兄の横に並んで小声で呟く。

「一昨日、海行くなって言ってくれて、ありがと」

兄は何も言わず、私の髪をクシャリと撫でた。

・・・・・

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その日の夕食の席で、私たちは昼間の行方不明者が見つかったと父から聞いた。

生死については、父のため息を聞けば尋ねるまでもなかった。

夕食が済んで、リビングで観るともないテレビを二人で観ていると、兄がポツリと呟いた。

「舟に乗らずに残った奴って、どうなるんだろうな」

「え?」

なんのこと? と隣の兄を振り返ると、兄は左目を隠す長い前髪をかき上げ、テレビの上の方をじっと見つめていた。

「兄ちゃん?」

一点をじっと見つめる兄の顔が、みるみる青ざめていった。生唾を飲み込む音が大きく響く。冷房が効いた部屋の中だというのに、兄の額から汗が一筋流れた。

「兄ちゃん⁈」

思わず肩を掴んで声を上げると、兄はハッとした様子でかき上げていた前髪をパサリと下ろした。

「どうしたの?」

「……でかい虫がいた…」

兄はそう言って大きなため息をつき、少し疲れたような笑みを私に向けた。

「お前の声で外に逃げちゃったよ。ありがとな」

虫なわけないじゃん! と言いたかったが兄の顔を見ると詮索できなかった。

「…やっぱ、見るもんじゃないな」

私に聞かせるつもりはないであろうその言葉の意味も、聞けなかった。

兄は一体、その左目で何を見たのだろう。

「…兄ちゃん、やっぱりなんか変わったね」

「ん? いい感じに?」

「それはちょっとわかんなくなった」

「なんだよ、それ」

「イテッ」

苦笑した兄にデコピンされ、私は頬を膨らます。昔と変わらぬやりとりに、自然と笑みがこぼれた。

少し変わったところはあるかもしれないが、やっぱり兄は兄だ。

「別に、変わってなんかないよ」

そう言う兄の顔には、嘘は浮かんでいなかった。

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