電車に揺られながら、ウトウトしているうちに、見覚えのある車窓がぼんやりと見えて来た。
どこにでもある退屈な緑の絨毯のような田園風景が広がる。年老いた堅苦しい老夫婦の家にしばらく居なければいけないことにため息が零れる。たまには帰って来いと電話があったのだ。去年のお盆には、何かと理由をつけて帰らなかったのが気に入らなかったのだろう。
大方言われることはわかっている。男ならそろそろ身を固めろと。昭和気質の父親は結婚にこそ幸せがあると信じてやまない。母親からも早く孫の顔が見たいだの言われるし。俺の人生、結婚しようがしまいが勝手だろう。親の価値観を押し付けられるのが嫌で俺は家を出て遠く離れた街で働いているのだから。
親父の敷きたかったレールは、俺が地元で公務員になって地元で嫁さんをもらい暮らすことだった。もちろん、親と同居だ。考えただけでも息が詰まった。俺はそのレールには乗らず、大学卒業後、今はライターとして生計を立てている。もちろんそんな根無し草みたいな職業を親が歓迎するはずもない。
俺の憂鬱は、電車とともにゆらゆらと心の中で揺れていた。顔を見せたらすぐに帰ろう。なんなら、日帰りでも良いくらいだけど、それは許されないのだろう。母親の作る料理は食べたいのはヤマヤマだが、針のムシロで食べる料理は果たしてうまいのだろうか。
そうこう考えているうちに、駅に着いた。実家に着くと、母が山のようなごちそうを作って待っていた。
「こんなに食えないよ。」
「何言ってるの。若いんだから食べられるでしょ?」
「それより、お前、ちゃんと生活できているのか?物書きなど、仕事があったりなかったりの世界なんだろう?今からでも遅くない。帰ってきてこっちで就職したらどうだ。」
うんざりした。これでは食事も喉を通らない。
「あ、タバコ切らしたわ。ちょっとコンビニ行ってくる。」
「おい、今来たばっかりだろう!」
追いかけてくる声を追い払って俺は玄関のドアを閉めた。
ダメだ。あの人達は、自分の価値観だけで人を測ろうとする。仕事はそこそこある。雑誌やインターネットの記事などで、十分とは言えないが、一人で生活して行ける程度の稼ぎはあるのだ。
田舎でも十数分歩けばコンビニくらいあるもんだ。タバコを買う口実で訪れたが、しばらく帰りたくない。雑誌でも立ち読みしようと顔を上げるとそこには懐かしい顔があった。
「ユウタ?」
声をかけられたその男も顔を上げると破顔した。
「おー、ヒロキ。久しぶり!いつ帰ってきた?」
「今日だよ。八年ぶりくらいだべ?」
「だな~。お前、県外の大学行ったから、それくらいか。」
久しぶりに友人にあった嬉しさからつい方言が飛び出した。
「ユウタはこっちで就職したっけ?」
「うん。地元のH製作所。」
「へー、すげー。大手じゃん。」
「ヒロキは?どこで働いてんだ?」
「俺は、フリーのライター。」
「マジ?なーんかカッケエ!」
「カッケくなんかねえよ。まったく安定してねえし。」
「いやあ、でもなんかそういうクリエイティブな仕事って憧れるなあ。なんかお前らしいっていうか。」
「俺らしいってなんだよ。」
「懐かしいなあ。なあ、時間あるんなら、一緒に飲まねえ?」
「えー?このへん、飲み屋なんかあったっけ?」
「俺んちで飲もうや。ちょうどコンビニいるし。酒買って行くべ。」
「お前んち?でも親父さんとお袋さんに迷惑じゃねえかな?」
「いやいや、俺、随分前からアパート暮らしだから。」
「え?実家、どうしたん?」
「俺の親父とお袋、実は俺が大学卒業して就職したらすぐにタイに移住しちゃったんだよ。」
「え?タイ?マジか!」
「うん。以前から決めてたらしい。老後はタイに移住して悠々自適に暮らすって。実家をさっさと処分してタイに飛んでったよ。」
「ぶっ飛んでるなあ。お前の両親。羨ましいわ。」
「ヒロキんところの親は真面目だからな。」
そんな話をしながら、もう気持ちはユウタと飲み明かす気満々になっていた。渡りに船とはこのことだ。あの窮屈な空間から俺を救ってくれたユウタを神のようにも思えた。店を出てすぐに、両親に電話した。両親は俺に話したいことも話せずに不満そうだったが、友人に誘われたと言えば渋々了承するしかない。母親から飲み過ぎて羽目を外さないようにと釘を刺された。
ユウタのアパートはコンビニから歩いて五分程度の場所にあり、一人で暮らすには十分すぎる、2LDKの部屋に住んでいた。
「汚いところだけど、まああがれよ。」
促されて入った部屋は、言われる通り、まさに男の一人暮らしらしく適度に荒れていた。俺はその部屋に入ったとたんに、鳥肌が立った。寒い。この夏の暑い最中だというのに、部屋の中はいやにジメジメとして寒気というよりは怖気がたった。俺、体調でも悪いんだろうか。ところどころに、少し綺麗な場所があり、鏡台なんかもあったりで、以前、そこに女性が居た気配がある。
俺とユウタは昔のバカをやってた時代の話で盛り上がり、いろんな同級生の近況なんかも聞くことができた。誰が結婚しただの、子供がいるだのという話に、ただただ大人になった級友たちの顔を思い浮かべながら懐かしく思った。
「そういえばさ、ユウタは結婚してないん?高校の時から付き合ってた、ほら、なんて言ったっけ?あ、思い出した。森藤 由香!」
その名を口にしたとたんに、ユウタの顔が曇った。ああ、これは地雷を踏んでしまったっぽい。
「ユカは、出て行ってしまったんだ。」
「ん?出て行った?ってことは一緒にここに住んでたの?」
そう問うとユウタは頷いた。
「ユカとは大学が違ったけど、遠距離恋愛してて、お互い地元が好きだったから帰ってきて就職するさいに、俺の両親が移住しちゃったから一緒に住もうってことになって。」
「そっかぁ。でも、同棲までしてて、何で彼女は出てったんだ?」
俺がユウタに問うと、何故かキッチンのほうからカタカタという小さな連続する音が聞えて来た。そちらに目をやると、どうやら吊るしてあるフライパンが小刻みに揺れているらしい。地震?でも家は揺れていない。俺は不思議に思いながらも、ユウタの方に視線を移すと、ユウタは真っ青な顔をしていて、視線を泳がせていた。
「俺、浮気したんだ。」
「え?マジ?あれだけお前ら、ラブラブだったのに?」
すると、電気が一瞬暗くなった。まるで照明の前を大きな物が通り過ぎたように。俺は思わず、照明の方を見上げたが、そこには何もなかった。
「ちょっと魔が差したっていうか・・・。でも、一度っきりだったんだ。」
そう呟いたユウタの顔がまた明滅した。俺は思わず上を見上げた。
「なあ、この照明、電気切れかかってね?」
俺はどうしても、ゆらゆらと揺れて明滅する照明が気になって、全く脈絡ないことを口走ってしまった。
「ああ、壊れてるかもね・・・。」
そう一言いうと、ユウタは沈んだ表情で顔を伏せた。
「それで彼女が怒って出て行ったのか?」
そう言うとユウタはゆっくりと頭を横に振った。
「彼女は俺をめちゃくちゃ責めた。許せないって。毎日のように、俺に着き歩いて俺を責め立てた。だから俺はたまらず、しばらく家を出たんだ。」
「彼女を残して?女の所に?」
俺は若干軽蔑するような眼差しでユウタを見た。
「いいや、女とは一度きりだった。だから、彼女が疎ましくて一週間くらい家を空けたんだ。」
また照明の光が大きく揺れる。まるで、何かが照明の前を行ったり来たりするように、明滅を繰り返す。
「ひでえな。」
「でもさ、男なら、一度くらい、過ちなんてあるだろう?」
感情的にユウタが俺に言葉を投げかけたとたんに、バチンという音と共に、あたりが真っ暗になった。
「うわ、なに?停電?」
俺がうろたえていると、ユウタが暗闇から立ち上がって
「たぶん、ブレイカー落ちた。」
と言いながら、キッチンのほうに歩いて行く気配がした。
突然、ぱっと周りが明るくなって電気がついた。ユウタがブレイカーのスイッチを入れたのだ。
俺は、先ほどから鳥肌と寒気が止まらなかった。この部屋はおかしい。
俺は霊感などないはずなのだが、ここには何か居る。
直感的にそう思った。
ユウタはソファーに腰かけると、また話を続けた。
「一週間経って、俺は謝ろうと思って久しぶりに家に帰ると、彼女はもう居なかった。置手紙一つ残して出て行った。あなたにとって私が疎ましいだけの存在になったのなら私はもう必要ないよねと書いてあった。」
「それっきり帰って来ないのか?彼女。」
「俺は失って初めて彼女は俺にとってかけがえのない存在だと気付いた。だから、心当たり全て探した。彼女は実家にも帰っておらず、友人の家にも居ないっていうし、途方に暮れたよ。」
「見つからなかったのか、彼女。」
ユウタが目を反らして俯いた。ユウタが嘘を吐くときの癖だ。
そのとたんに、またユラユラと照明が明滅する。見上げると、光をさえぎって何か黒い物が、まるで振り子のように左右に揺れているのが見えた。
「なあ、ユウタ。本当のことを言ってくれ。この部屋には何か居る。」
たぶんユウタもこのユラユラと揺れる光の明滅に気付いているのだろう。
気付いていて気付かぬふりをしているのだ。ユウタが震える声で絞り出すように答えた。
「彼女、帰ってきたんだ。」
「えっ?」
「彼女が出て行って、方々捜し歩いて一週間経った頃、俺は疲弊して家に帰ると、自宅の電気が点いていた。だから、俺は彼女が帰ってきたと思って急いで駆け上がろうとして違和感を感じたんだ。」
「違和感?」
「カーテンの傍で何かがユラユラ揺れてたんだ。最初、何かわからなくて目を凝らしたら、それが人の形だとわかった。女だ。窓の傍でユラユラ揺れてた。」
「それって・・・」
「俺はすぐにそれが誰か察して急いで二階の自宅に駆け上がったんだ。でも、遅かった。玄関を開けて駆け込んだ時には、彼女は窓辺で首を吊って・・・。」
「嘘だろ・・・そんな・・・。」
「俺は死ぬほど後悔した。」
俺達は明滅する光の速度が速くなるのを感じて恐る恐る見上げた。
長い髪の毛が頬に触れたような感触があった。
俺は悲鳴をあげてその場にへたりこんだ。
「大家さんがさ、この部屋事故物件になったから、もう他に貸せないからずっと住んでくれって言うからさ。引っ越せないんだよ。俺。一生ここで彼女と暮らすよ。ごめんな、ヒロキ。怖い思いさせて。」
そのあくる日、ユウタにいくら連絡を取っても連額がつかなかった。
俺は心配になり、また部屋を訪ねた。
ユウタの部屋には灯りがついていたので、俺はほっと胸をなでおろした。
そして、次の瞬間、カーテンの影で何かがユラユラと揺れているのを見つけた。
彼女かと思った。
違う。あれは女ではない。
そう認識したとたんに、俺は脱兎のごとく走り出した。そして、ユウタの住む二階の部屋の前でドアを叩いた。
「ユウタ!ユウタ!」
中から返事はない。
ドアノブに手をかけて回すと、簡単にドアは開いた。
鍵がかかっていない。
俺は靴も脱がずに、奥の部屋に駆け込んだ。
そこには、友人の変わり果てた姿があった。
居間のロフトスペースからはロープが輪になって彼の首を捉えてユラユラと揺れている。
「ユウタ!なんでこんなことを!」
俺はすぐに救急車を呼んだが、すでに彼は息絶えていた。
お盆に実家に帰って、まさか友人の葬儀に立ち会うとは夢にも思わなかった。
一生一緒にあの部屋で彼女と暮らすって言ってたのに何故?
俺はユウタが自分から死を選ぶとは思えなかった。
「ユカ、一途だったからなあ。」
「ユウタ、連れてかれちゃったのかな。」
葬儀のあと、友人達は口々にそう呟いた。
今までずっと悩んできたのだろうか。
自分を責め続けて限界が来たのかもしれない。
ユウタの葬儀を終え、俺は故郷を後にした。
久しぶりに自宅に帰ると、何故か電気が点いていた。
おかしいな、確か電気は消して出たはず。
ユラユラと影が揺れる。
嘘だろう?何故俺の部屋で?
明らかに人影だと思われる黒いそれは、カーテンのすぐそばで揺れていた。
作者よもつひらさか