カラスの親・二〈『話』シリーズ 外伝〉

長編12
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カラスの親・二〈『話』シリーズ 外伝〉

次の週。美也子ははやる気持ちを抑えながら、季節外れに咲いた山吹の花を土産にホームを訪れた。

ヒワはまるで焦らすように、ゆっくりとお茶を淹れ山吹の花に喜び、小さく歌を詠んだ。

「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき、ね」

美也子はそれに応える余裕もなく、内心「早く早く」と話の続きを催促していた。それを見抜いたように、ヒワは「まぁ落ち着いて」とお茶を勧める。

「さて、先週はどこまでお話ししたかしら」

「ヒワさんがお屋敷に勤め始めて、一年が経ったある日、というところです」

「そうだったわね」

ヒワはお茶で唇を湿らせ、思い出を手繰るように空中を見た。

「あれは、お台所の勝手口から藤の花が咲いているのが見えた頃だから、確か春のことだったわ。一日の仕事が終わって、私は桜さんとお台所でお茶を飲んでいたの。そうしたら橘さんが、いつになく慌てた様子で私たちのところにやってきたのよ」

・・・・・

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忙しない足音を立ててやってきた橘を、ヒワと桜は驚いて見つめた。

「橘さん、どうかなさったんですか?」

橘は息こそ切らしていないものの困ったように眉を下げ、ヒワをまっすぐ見つめた。

「ヒワさん。申し訳ないが、私と一緒に旦那様のお部屋に来てください」

「えぇ?」

ヒワは驚いて声をあげる。主人である烏丸とは顔を合わせることも少ないが、その自室となると、ヒワは烏丸邸に勤め始めてこのかた入ったことすらなかった。

「どうしたんですか、急に。それに、旦那様のお部屋はお二階ですから、私の足ではちょっと…」

「そこは、私が抱えていきますので」

言うが早いか、橘はヒワの体を軽々と抱え上げた。ヒワは突然のことに悲鳴も出ない。

「ちょっと失礼しますよ」

そのまま、橘は壮年とは思えない足取りで階段を二段飛ばしにし、烏丸の自室の前にたどり着いた。

驚きすぎて声の出ないヒワだが、精一杯の抗議の目で橘を見る。橘はそれをスルリと交わし、ヒワを抱いたまま重厚な扉をノックした。返事はないが、そのまま中へ滑るように入り込む。

室内では、烏丸が俯いて肘掛け椅子に体を預けていた。足元には酒瓶が転がっており、それだけで酔ってしまいそうなアルコールの匂いが部屋中に充満している。ヒワは慣れない匂いに、思わず顔をしかめた。

橘は、烏丸と向かい合わせに置かれた椅子にそっとヒワを下ろした。そして耳打ちをする。

「旦那様は、時折こうして悪い酒を召されるのです。どうか、お話を聞いてさしあげてください。私たちにはできないことなのです」

ヒワは耳を疑った。長年側に仕えている橘でできないことが、どうして自分にできるのか。

しかしその思いも虚しく、杖なしでは満足に立ち上がれないヒワを置いて、橘はさっさと部屋を出て行ってしまった。

ヒワは恐る恐る烏丸を見た。先程から少しも動かず、ヒワが来たことに気づいているのかどうかもわからない。眠っているのなら、このままそっとしておけばいいか… そう思った時だった。

「…ゆきぃ」

烏丸がか細い声を漏らした。ゆっくり顔を上げ、目の前にヒワがいるのに気づくと、椅子から転げ落ちヒワの座る椅子の足に縋り付く。まるで子供がするように、ヒワの着物の裾を掴んだ。

「ゆき、かわいそうに。儂が悪かった、儂がすべて悪い。許してくれ、ゆき」

烏丸はヒワを見上げていたが、その目はヒワを通してどこか遠くを見ているようだった。あまりのことに竦んでいたヒワにも、烏丸の意味不明な言動が自分と誰かを混同しているためだとすぐにわかった。

「ゆき、儂が悪かった。すまない、すまない。ゆきぃ」

ヒワは迷った。酒のため曖昧になっているが、烏丸は懸命に誰かに謝罪している。これは、主人の気持ちを汲んでなにも言わずにおくべきか。それとも、自分は「ゆき」なる人ではないと伝えるべきか。

「だ、旦那様…」

結局ヒワは、正直に言うことにした。間違いとはいえ、女中の自分に頭を下げ続けさせるのが申し訳なかったのだ。

「申し訳ございません。私は女中の、朝井ヒワでございます…」

絞り出すようなヒワの声に、烏丸は呆けたように彼女の顔を凝視し、やがて大きなため息をついた。ヨロヨロと立ち上がると、先ほどまで座っていた肘掛け椅子に倒れこむように体を預ける。

気まずい沈黙が部屋を占めた。

長い静寂をようやく破ったのは烏丸だった。

「ゆきとは、儂の娘でな…」

その掠れた声は、ヒワに聞かせるというよりは独白のようだった。

「ここいらでは珍しく、雪が多く降った日に生まれたから、ゆきと名付けた。儂に似て聡明で、明るい子だった」

うなだれたまま話す烏丸の表情は読めず、突然話し始めた意図もよくわからない。ただ、橘が言った「話を聞く」とはこのことかとヒワは思った。とりとめのない話を誰かに聞かせることで、この老いた主人の心は幾ばくか癒されるのかもしれない。

「儂によく懐いていた。あれがまだ小さい時、ねだられて雛人形を買ってやっとことがあった。まだ貧しい頃だったから安い紙雛だったが、それでもそれをたいそう大事にして、雛人形だというのに一年中飾っていた。雛人形はきちんと片付けないと嫁にいけなくなるというが、儂はそれでよかった。儂にはゆき以外に子はいなかったから、そのうちゆきに婿を取り、一緒に儂の仕事を継がせたいと期待していた。……お前は、朝井ヒワといったか」

「はい」

「お前くらいの歳の頃に、ゆきはいなくなってしまった」

いなくなった?

曖昧な烏丸の言葉に、ヒワは首を傾げる。

「儂のせいなんだ。儂がすべて悪かった。なぜあの時、ゆきを差し出す気になったのか… あの時は、それが正しいと思っていたが、今となっては悔やむに悔やみきれん」

娘がいなくなったことに烏丸は関係しているようだが、それがなぜなのか、訊くのは憚られた。

烏丸はボロボロと涙をこぼしながら、その後はうわ言のように謝罪の言葉を口にし続け、やがて静かになったかと思えば低い鼾をかき始めた。

それを見計らったように、音も立てず橘が入ってきた。ヒワにそうしたように烏丸のことも軽々と抱え上げると、室内にある大きなベッドにそっと横たえる。

そしてようやく、ヒワに向き直った。

「ヒワさん、助かりました。ありがとうございます」

ホッとしたようにそう言うと、また当たり前のようにヒワを抱き上げ台所に戻った。

台所では、桜が新しいお茶を淹れて待っていてくれた。

「あの、旦那様は大丈夫でしょうか」

温かいお茶を飲んでようやく人心地がついたヒワが尋ねると、橘と桜は揃って深く頷いた。

「今はよくお休みになっていますよ」

「ヒワさんのおかげよ。ご苦労様」

それを聞いてヒワもホッとする。しかし、腑に落ちないこともあった。

「ですが、私なんかより橘さんたちがお話を聞かれた方が、旦那様も嬉しいのでは?」

なぜ新参者の自分にその大役が任せられたのか、当然の疑問だった。

橘と桜はチラリと目配せをしあい、そして少し悲しそうな目をヒワに向けた。

「私たちでは、残念ながらその役目は難しいの。以前も、あなたの他の女中さんが旦那様のお話を聞いていたのよ」

難しい? なぜ?

橘と桜は、心から烏丸に仕えているように見える。その二人がそう言うからにはなにか訳があるのだろうが、二人の悲しそうな目がそれを問いただすことを静かに禁止していた。

それで、ヒワは話を別のことに変えた。

「わ、私の他にも以前にはお女中さんがいらっしゃったんですね。こんなに大きなお屋敷ですもの、当然ですよね」

「あぁ、そうだね」

「ヒワさんより少し年上の方だったわね」

橘と桜が何事もなかったようにそう答えたので、ヒワは少しホッとした。

「私がここに来る前に辞められたんですね。もしかして、ご縁談とかでですか?」

桜は小さく首を振った。

「いなくなってしまったのよ」

「い、いなくなった?」

その言葉を聞いたのは、今日二度目のことだった。

ヒワはなぜかその時、烏丸邸で養われている子供たちのことを思い出した。

奉公先が見つかったといっては、屋敷を離れる子供達。再会を約束しても、誰一人戻ることのない子供達。

彼らもまた、「いなくなった」といえるのではないだろうか。

そこまで考えて、ヒワは心の中で激しく首を振った。主人のしていること、それもあんな人助けを疑うなんて、使用人としてあるまじきことだ。子供達は今頃、烏丸が見つけてきた良心的な奉公先で、忙しくも幸せな日々を過ごしているに違いない。

「ヒワさん?」

「どうかしたの?」

それでもその日は、橘と桜の優しい声かけに答えるのもそこそこに、ヒワは早々に自室に引っ込んだのだった。

・・・・・

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ヒワが一つ息を吐く。それに合わせるように、美也子も詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

まるで、推理小説の朗読を聞いているようだ。ヒワの不思議な話、その中に漂うほのかな不気味さに、いつしか美也子は夢中になっていた。

「烏丸さんには、なにか人に言えない秘密があったんでしょうか」

美也子の言葉にヒワも首を傾げた。

「私も、今になっても本当のところはよくわからないの。美也子さんには、なるべく私の憶測を含まない、あったことだけを話すようにするわね」

「ヒワさんの憶測も、ぜひ聞きたいです」

ヒワは「ありがとう」と微笑みながら、冷めたお茶を入れ直そうと体を動かす。それを制して自分が立ち上がり、急須に新たなお湯を注ぎながら美也子は言った。

「それにしても、ヒワさん大変でしたね。こう言っちゃなんですが、酔っ払いの相手でしょう? 父が酒飲みでこりごりしてるので、私にはとても務まりそうにありません」

眉を下げた美也子に、ヒワは声を上げて笑った。

「美也子さんも苦労なさったのね」

「そうなんです。飲み会帰りの父は玄関先で力尽きることが多くて、母と一緒になんとか引きずって家の中に入れたり。たまに歩いて帰ってきた時は面倒な絡み酒に一時間以上付き合わされたり。散々でした」

「確かに旦那様は酔っ払いだったけれども、大きな声を出したり暴れたりということはなかったから、私にも務まったんだと思うわ。酔った旦那様は静かに取り留めもないような話をするだけで、私はそれを、とにかくただ聞くだけだったのよ。気の利いたことの一つも言えなかったけれど、多分人形相手に話をするよりはマシだったんでしょう」

ヒワはそう謙遜したが、美也子の脳裏には主人の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、真摯に耳を傾ける少女の姿が浮かんだ。それは美也子の想像に過ぎないが、おそらく現実のヒワもそのようにして烏丸の話を聞いていただろう。

「旦那様の『悪いお酒』は、その後も一年に一回か二回、発作のように突然起こったわ。その度に私は橘さんに連れられて旦那様のお部屋に行き、お話を聞いていたの。お話といってもほとんどが、誰に対するものかもわからない懺悔や後悔の気持ちを吐露されるばかりで、はっきりしたことはほとんど口になさらなかったけれどね。やはり、大きな会社の創始者ともなると、時に非情なこともせざるを得なかっだということなんでしょうけど」

「それにしても、不思議というか、どことなく不気味な感じですね。その、『いなくなった』方達は、本当はどこに行かれていたんでしょう」

「…そこは、この先を聞いてのお楽しみ、ということにしましょう」

ヒワは美也子が新たに入れたお茶を一口飲み、小さなため息をひとつ吐いてから、また語り始めた。

・・・・・

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ヒワが烏丸の「悪い酒」に付き合うようになってから、烏丸に小さな変化が見られ始めた。

それまでは自室から出ることがほとんどなかった烏丸が、時折ヒワの前にも顔を出すようになったのだ。

はじめはなにも言わず、ヒワが料理をしたり繕い物をする様子を少し離れた場所から眺めているだけだったが、次第に二言三言声をかけるようになった。やがて、ヒワが尋常小学校を二年で退学したことを知ると、自ら教鞭をとると言いだした。

ヒワとしては、平仮名とカタカナしか読めなくても大して困っていなかったので、正直余計なお世話だった。烏丸にとっては暇な時間でも、自分には仕事がある。しかし、なぜか妙にやる気になっている主人の申し出を断るわけにも行かず、加えて桜の仕事のフォローを申し出てくれたこともあって、夕食後の一時間を烏丸との勉強に当てることになった。

ヒワが驚いたのが、烏丸が思っていた以上に教え上手で、辛抱強くヒワに付き合ってくれることだった。

烏丸から教わる内容は、文学、歴史、数学、物理と多岐にわたり、時にはピアノまで手ほどきしてくれた。

ヒワはいつしか、この烏丸との時間がなによりの楽しみになっていた。ヒワは素直で飲み込みの早い優秀な生徒で、勉強の楽しさに気がつくのも早かったし、烏丸との親子のような関係が思いの外心地よかったのだ。

勉強中も烏丸は多くを語ることはなかったが、おそらく自分をいなくなったという娘に重ねているのだろう。となれば、こうして教わっている時間は烏丸自身のためにもいいのかもしれない。そう思った、

「ヒワさんのおかげですねぇ」

ある時、橘が目を細めて呟いたことがあった。ヒワはなんのことかと首を傾げる。

「旦那様のことですよ。最近は随分明るくなられて。ヒワさんが来てからですよ」

「本当に。旦那様が元気だと、なんだか屋敷全体が明るくなったようで、私たちも嬉しいわ」

桜もにこやかに微笑む。

ヒワはなんだか照れ臭くて下を向いた。

穏やかな日々はあっという間に過ぎ、気づけば十年が経っていた。

・・・・・

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「ヒワさんの教養は、烏丸さんのおかげだったんですね」

美也子は穏やかに言った。先ほどまでの不気味さが嘘のような和やかな展開に、ホッとしていた。

ヒワもにこやかに頷く。

「旦那様は本当に頭の良い方だったんだと思うわ。さすが一代で大きな会社を築いた方だけあってね。ただ…」

そこまで言って、ヒワは表情曇らせた。

「ただね、あそこはやっぱり、普通とは違う場所だったと思うのよ」

どういうことなのか、美也子は無言で先を促す、

「お屋敷に奉公に上がってから十年間、そしてそれ以降もね、私はお屋敷の敷地から一歩も外に出ることがなかったの。確かに私は足が不自由で、外にお使いに出るような仕事はなかったわ。でもそれにしたって少しおかしいんじゃないかって、奉公を終えてから振り返ってみて思ったの」

「それは…そうですね」

「まだあるわ。私が奉公を始めたのは昭和十四年で、戦争の足音でだんだん世の中がきな臭くなり始めた頃だった。それは奉公前、学校にも満足に行かなかった十代の私でも感じていたわ。なのに、あのお屋敷では戦争の影を感じることはまったくなかったの。第一、毎日の食べ物に困るということがなかった。質素ではあったけれど、毎日三食お米のご飯と汁物とちょっとしたおかずがある生活が、当時どんなに貴重なものだったか。私はこのホームに入って周りの方のお話を聞いて、初めて先の戦争の悲惨さを知ったのよ。私がいた環境の不自然さにも、そこで初めて気がついた」

美也子自身は戦争を体験していないが、両親からその時代の大変さは聞かされていた。とにかく食べるものがなくて毎日空腹だった、と。その当時に生きていたヒワがそれをまったく感じていなかったというのは、確かににわかには信じ難かった。

「烏丸家のお屋敷というのは、まるで時間が止まったような場所だったわ。私が勤め始めた時九十近かったはずの旦那様も、壮年だった橘さん桜さんも、その十年後も二十年後も変わらずお元気だったり、ね」

「…ヒワさんは、いったい何年間烏丸家にお勤めされていたんですか?」

「十四の歳に勤め始めて、お屋敷を出た時にはもう四十を過ぎていたから、三十年くらいね」

「三十年…」

それは、美也子が教師として勤めた年数とそう変わらない年月だった。今振り返れば恐ろしいほどに長い年月を、ヒワは時が止まったような不思議な屋敷で、なにを思って過ごしたのだろうか。

そして、屋敷の主人で烏丸とそれを取り巻く人々は、いったい何者だったのだろう。

壁の時計が、三時を告げた。

「…今日は、この辺にしましょうか。美也子さん、来週も続きを聞いてくれる?」

「はい、もちろん」

よかったわ、とヒワは安心したように微笑んだ。

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