「ったく。なんで日直だからってこんなとこ掃除しなきゃなんねーんだよ」
口では悪態をつきながら、斑鳩烝助(いかるがじょうすけ)はともすれば緩みそうな口元を必死で押し隠した。
ほんの十五分ばかり時が遡り、下校のホームルームでのことだ。
『今日の日直、斑鳩と尾崎か。この後、理科準備室の片付けを少し手伝ってくれ』
理科教師である担任から、そんな面倒ごとを頼まれたのだ。
烝助は内心ガッツポーズをした。
もちろん、彼が掃除好きなわけではない。
もう一人の日直である尾崎美穂は、烝助の通う穂高中学では知らぬ人はいない、というほどの美少女だったのだ。
「斑鳩くん、そっち終わりそう?」
理科準備室の入り口付近で棚を拭いていた美穂が、烝助にそう声をかける。
少し小首を傾げてこちらを見る様は、そこら辺のアイドルなんて目じゃないほどの可愛さだ。手にした雑巾が、シミひとつないシルクのハンカチに見えるくらいに。
「うん、もう終わる」
高鳴る胸を押さえながら、努めて冷静に烝助は答えた。
自意識過剰とは思うが、美穂が自分の一挙一動を見つめているようで落ち着かない。そう考えれば考えるほど、なんだか余計視線を感じてしまう。
少し震える手でようやくゴミを集め終わった頃、美穂は休憩とばかりに部屋の中央に置かれた椅子に腰掛け、長机に頬杖をついていた。
「お疲れさま」
「あぁ」
「先生、来ないね」
「なにやってんだろうな」
掃除が終わる頃確認しにくるからな、と言っていた担任は、まだ姿を現さない。美穂と二人きりの時間が続くのは嬉しいことだったが、反面緊張からか烝助の胸は音を立てて脈打ち、まったく落ち着かなかった。
美穂はそんな烝助をチラリと見ると、なにもかもお見通しのように切れ長の目を細めてクスリと笑った。
美穂はそんな風に、どこか大人びた雰囲気のある少女だった。
「なんだよ」
心を読まれているかのようで悔しくて、烝助が拗ねたようにそう言うと、美穂は「なんでもないよ」と首を振り、まるで誤魔化すように別の話題をふってきた。
「ねぇ、斑鳩くん知ってる? ここ、幽霊が出るって噂があるんだよ」
「幽霊?」
予想外の単語に、烝助は思わず眉を寄せた。
「うん。他の女の子からね、『理科準備室に行くなら気をつけてね』って、注意されちゃった。誰もいないはずなのに物音がするとか、女の子の影を見たとか、いろいろ噂があるみたい」
「ふーん…」
「あ、信じてないでしょ」
「いや、信じてないっていうかさ…」
正直、烝助はこの手の話は苦手だった。しかし、憧れの美穂の前で『オバケは怖い』とは言い難い。
「見えないものは、ないも同然だろ」
結局口から出たのは、そんな強がりだった。
「でも、『見えない』ことと『ない』ことは、まったく違うんじゃない? だって、空気だって目には見えないけど確かに存在して、その成分だって解明されてるじゃない」
「それはさ、今尾崎が言ったように、きちんと科学的に『ある』ことが証明されてるんだから、もちろん信じられるんだよ。でも、幽霊だの妖怪だのってのは、そうじゃないだろ」
「でも、そういう話って昔からいくつも伝わってるよ? それこそが『ある』ことの証明になるんじゃない?」
「それは、『見えない』ものに名前をつけたがる人間の心理が、確かに『ある』といえるだけで、幽霊なんかの証明にはならないね」
半分以上口から出まかせだったが、美穂は珍しく、悔しそうにプクッと片頬を膨らませた。
「じゃあ、『見えない』ものが確かに『ある』ってことを証明できたら、斑鳩くんも信じるってことね?」
美穂は怒った顔も可愛い。
しかし、烝助をまっすぐ見つめる目には、なんだか有無を言わせぬ迫力があった。
「まぁ、証明できるもんならな」
美穂の視線に少し気圧されながらも、なんとか答えたその返事が終わらないうちに、美穂は先ほどまで棚を拭いていた雑巾を、長机の上に置いた。
「見ててね」
そう言うと、雑巾の上に右手をかざし、つまみ上げるような仕草をする。
実際は触っていないので、雑巾は動くはずがないのだが、
「え?」
動くはずのない雑巾は、ゆっくりと美穂の手の動きに合わせて、持ち上げられるように膨らんでいった。そして、五センチほどの小山を作る。
美穂がかざしていた手を外しても、雑巾は小山を作ったままだった。
呆気にとられる烝助の眼の前で、雑巾はピクリピクリと少し蠢き、やがてチョロチョロと前や斜めの方向に動き始めた。
まるで雑巾の下にハムスターが一匹入って、やみくもに動き回っているようだ。
なにがなんだかわからない烝助と、どこか得意そうな顔の美穂に見守られるようにして、雑巾はしばらく長机の上をあちこち動き回っていた。しかし、ある時ピタリと動きを止めると、空気が抜けるように膨らみはしぼんでいき、烝助の前には少し皺の寄った雑巾だけが残った。時間にして、一分程度だろう。
美穂がその雑巾を手に取り、ひっくり返す。
半ば予想できたことではあったが、雑巾の裏にはなにもなかった。
「な、な…」
烝助が震える声で「なんだ、今の」と言おうとした時だ。
「お、終わったか?」
担任教師の呑気な声が、理科準備室に飛び込んできた。
「よしよし、真面目にやってたようだな。斑鳩、尾崎、助かったよ。これ、お礼な」
「ありがとうございます」
なにも知らない担任の差し出す缶ジュースを、何事もなかったかのように受け取る美穂。その様子を、烝助は呆然と眺めることしかできなかった。
・・・・・
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「いてっ」
額に広がった小さな痛みに、烝助は思わず声をあげた。と同時に、まるでたった今目が覚めたような気分に襲われた。
気がつけば理科準備室をとっくに後にし、校門を出たところだった。
目が覚めた気分ではあるが、なんだか体が重い。二度寝に失敗した時のように、なんともスッキリしない気分だった。
「もう。斑鳩くん、ボーッとしすぎ」
隣には美穂がいて、右手を影絵のキツネのような形にして烝助を見ている。その手でいわゆるデコピンをされたのだと、烝助はやっと気がついた。
「お、尾崎。さっきのって…」
開口一番、烝助はそう口にする。すると、美穂はクスクスと笑いながら言った。
「やだ、あれは手品よ。信じちゃった?」
「手品…?」
「うん。だって、斑鳩くんがあんまり頭の固いこと言うから、ちょっとビックリさせたくて」
「…なんだよー…」
ガックリと脱力した烝助に、「ごめんごめん」と美穂は可愛らしく謝った。
「やっぱり、幽霊なんかいないんだよな」
ため息まじりに烝助はポツリと呟いた。
すると、美穂は「え?」と意外そうな顔で振り返る。
「私、そうとは一言も言ってないけど?」
「え?」
美穂はその整った顔を、グッと烝助に近づけた。そして唇を少し突き出す。
まるでキスをねだるような仕草に烝助の心臓は大きく跳ね上がったのだが、当然そんなことはなく、先ほどデコピンをされたあたりに、小さくフッと息を吹きかけられただけだった。
「な、なに⁈」
「斑鳩くん、理科準備室に入った時から、ずっと女の子の幽霊に見られてたんだよ」
「は?」
「あんまり普通そうにしてるから、私、気づいてて無視してるのかと思っちゃった。大丈夫、今、追い払ったからね」
美穂はなんでもないことのようにそう言った。
わけがわからない烝助だったが、確かに、美穂にフッとされた瞬間からなんだかスッキリしたような気がする。
「それじゃ、また明日ね」
呆然と立ち尽くす烝助をそのままに、美穂はスカートを翻して背中を向けた。数メートル歩いて、ふと立ち止まり、振り返る。
「斑鳩くーん。さっきの手品っていうの、やっぱり嘘だから!」
大声でそう言うとニコリと微笑み、大きく手を振り今度こそ帰っていった。
「…なんなんだよ、意味わかんね」
一人残された烝助は、茫然自失のまま呟く。
俺は、あの可愛い美穂にからかわれたのだろうか。
いや、そうじゃない。きっと美穂は、なに一つ嘘はついていないのだろう。
そう思った途端、全身が粟立つほどの寒気が襲ってきて、烝助は這々の体で帰路に着いたのだった。
「追い払ったからね」という美穂の言葉を、よすがのように胸で何度も唱えながら。
作者カイト
気分転換、第二弾です。