「お待たせしました」
後ろから不意に声を掛けられ、俺は振り向いた。
そこには、まだ高校生と言っても過言でないほどの少女が立っていた。
「アンタ、田中さん?」
「そうです。あなたが加藤さんですね?」
その少女はニコニコ微笑んでいた。
まさか、こんなあどけない少女が、売人だなんて誰が思うだろう。
俺はてっきり田中は男だと思っていたのだ。
田中っていうやつがそこに行くから待ってろとボスから連絡があったのだ。
田中ってやつは、襟元に三つ葉のマークのバッジをつけている、と聞いていたので俺がその娘っ子のジャケットの襟を見やると、確かに三つ葉のマークのバッジがついていた。
ただし、あまりの幼さにそのバッジは校章にも見える。
「へぇ~、アンタみたいな若い子がこんな商売してるなんてねえ」
「えー、いくつに見えるんですかぁ?私」
「高校生くらいには見えるよ」
「ホントですかぁ?わぁ、嬉しい!」
その娘はキャッキャとはしゃいだ。
「とりあえず、車に乗ってよ」
俺が促すと、田中は失礼しまーすとおどけて車に乗り込んできた。
どうにも調子が狂ってしまう。
この女には、薬の取引という緊張感が全く感じられない。
「ここじゃあまずいから」
そう言うと、俺は車を発進させた。
「ですよねー。こんな所ではね?」
女は助手席から意味深な笑いを俺に向けた。
「どこまで行くんですかぁ?」
「人目の無い所。場所は俺に任せてくれ」
そう言いハンドルを切ると、女は少し不安げな顔をした。
「大丈夫だ。絶対にバレないところだから。安心しろ」
俺がそう言うと、女は初めて真剣な顔で首を縦に振った。
俺は運転しながら、彼女に思いを巡らせていた。
何でこんな天真爛漫な娘がこんな裏社会に足を踏み込んでしまったのだろうと。
家庭環境が複雑なのかな、とか、悪い仲間がいたのか、とか。
俺の場合は、なるべくしてなった、歩むべくして歩んだ道なので後悔というより、諦めの気持ちの方が強かった。俺にはこの道しか無かったから。ボスがどうしようもない俺を拾ってくれなかったら、今俺はここで生きていないのだ。
その時、胸のポケットの携帯が鳴った。ボスからだ。
「はい」
俺はすぐさま着信のボタンを押し、答えた。
「てめえ、どこほっつき歩いてんだ!売人からてめえが来ないって連絡が入ったぞ?」
「えっ?」
俺は事態を把握できなかった。俺は今、隣に売人の田中を乗せているのだ。
「そんなはずは・・・今、俺はその売人と会ってるんですけど」
「アホ!その売人から電話があったんだよ!ちゃんと駅の北口に行ったのか?」
俺はそれを聞いて青ざめた。
俺が待っていたのは、駅の南口だ。
じゃあ、俺が今、隣に乗せてるのは・・・?
「ねえ、まだですか?ホテル」
最悪だ。おかしいと思った。
この女は、援助交際目的の娘であり、たぶん名前も田中なのだろう。
そして、偶然俺の名前が加藤である。
もちろん、お互い偽名だろう。
俺の本名は藤崎だから。
「降りろ」
「何でですか?」
「いいから、降りろ」
「ちょっとぉ~、呼び出しておいて何なんですか?」
ネコ撫で声から女の声が豹変して本性を現した。
「勘違いだ。俺はお前の援交の相手じゃねえ」
「でもぉ、あなた加藤さんでしょ?」
「本名じゃねえ」
「それ言ったら私だってそうだよ。本名なんて言うわけないじゃん」
「とにかく降りてくれ。俺は会わなきゃならないやつがいる。急いでるんだ」
「ふざけないでよ。何で私がこんなへんぴな所で降りなきゃなんないのよ」
「人違いだったんだよ。お前じゃない。とにかく説明してる暇はねえ」
ヤバイ。急がないと、大事な顧客を失ってしまうのだ。
この売人が捌く量はハンパねえって話だから失敗は許されない。
仕方ないので、ドアを開けると、女を蹴り出そうとした。
すると、女にぐっと腕を掴まれた。
「キャー!助けてー!誰かぁ~!助けてくださーい!」
女は急に叫びだした。蹴り出そうとしていた足を止め俺は咄嗟に女の口を塞いで車の中に引き込んだ。
「何やってんだ、てめえ!」
へんぴな所とはいえ、すぐ傍には住宅街もある。
俺は慌てて、車を発進させた。
「ふざけんな!何で降りねえんだよ、てめえ!」
「ふざけてんのはどっち?こっちは生活かかってんだからさあ。ちゃんとやることやって、金払いなよ」
先ほどまでの天真爛漫さは微塵もない。
「今それどころじゃねえんだ、俺は。急いで会いに行かないとマズイんだよ。」
「へえ~、そんなに大事なの?その女」
見当違いもいいところである。
「女じゃねえ。仕事の相手だ」
まるで彼女への言い訳のようなセリフだ。俺は何をやってるんだ。
「だって、女のアタシが来ても、アンタはアタシを田中って認識しただけで車に乗せたんでしょう?もうその女すっぽかしてアタシにすればいいじゃん」
「だから援交じゃねえって言ってるだろ!」
「じゃあ、仕事ってなぁに?」
「・・・」
言えるわけねえだろう。他人のお前に。俺が薬の売人の元受けだなんて。
とんだドジを踏んでしまった。
「お前、金が欲しいんだろ?いくらだ。」
「三万円」
女は、爪で髪の毛の先をいじりながら呟いた。
「わかった。三万円やるから、次の駅で降りろ。何もしなくて三万円もらえるんだからラッキーだろ」
「・・・やだ」
「はぁ?何でだよ。お前、お金が欲しくて援交なんてしてるんだろ?何もしなくっていいって言ってるんだから上等だろ!」
「アタシ、あんたのこと好きになっちゃったもん」
「ふざけんな。今あったばかりなのにそんな訳ないだろ」
「顔がタイプなの」
「マジで勘弁してくれ。俺は今から仕事で会わなきゃならない人がいるんだよ。金なら色付けるから降りてくれ。頼む」
「アタシもその人に会いたいな」
「ふざけんな。マジで殺すぞ、お前」
「やってみなさいよ。こう見えても、顔は広いんだから。あんたなんてすぐに捕まるわ」
「お前、何がしたいんだ・・・」
「わかんない。とりあえず、アタシも連れてってよ」
「わかった。今、元の駅に戻ってる。実は俺、待ち合わせ場所を駅の北口と南口を間違えてしまったんだ。お前は元の駅の南口で降りる。そして本当の援交のオヤジと会え。そして俺は、駅の北口で本来会うべきだった客と会う。OK?」
「ふーん、アンタ、薬の売人か何かなんだ?」
うっかり客という言葉を発してしまった。
駅の周りは数台のパトカーが停まっており騒然としていた。
パトカーに乗せられているのは、人相の悪い体中に入れ墨をした男だった。
「ま、まさか・・・」
ここは駅の北口だ。あれは売人であり、本来あう予定の田中ではないだろうか?
俺の背筋を冷たい汗が流れた。
「良かったじゃん。アンタが予定通りあの人と会ってたら、今頃あんたもあのパトカーに乗ってたかもしれないね」
そう言うと、女はクスクスと笑った。
「感謝しなさいね」
女はそう言った。
俺はすぐさま、ボスに電話を入れた。
「てめえはしばらく大人しくしてろ。売人が口を割るかもしれねえから、どこかに雲隠れしてろ」
そう言うと電話は切れた。
さて、どうしよう。きっとアパートにも、警察の手は回るだろう。
「どこか、遠くに行こうか」
突然、女がそう言った。俺が黙っているとさらに続ける。
「行くとこ、無いんでしょ?」
全てを悟ったように俺を見つめるその目は、出会った時の少女の面影はなく、女の顔だった。
「お前は親が居るだろ。親の所に帰れ」
「居るけど、居ないよ?」
「居るけど、居ないってどういうことだよ」
「アタシ、虐待されて育ってきたから、物心ついたら施設にいたの」
「そっか・・・でも、友達とかカレシとかいるだろ」
「そんな面倒くさいもの居ないよ」
「面倒くさいって・・・」
「だってそうでしょ?友達もカレシも、人って裏切るもんなんだよ」
そうだ。人は裏切る。俺の両親は、借金を作ってどうにも首が回らなくなって夜逃げした。俺を残して。取り残された俺の元に、借金の取り立てにきたのが今のボスだ。小学生だった俺が一人取り残されて、餓死寸前のところをボスに拾われた。
ボスには恩義がある。俺はボスのために働いて恩返ししなくてはならないのだ。
「どこへ行く?」
俺はすっかり女を追い払うことを諦めた。
俺達は、北へ北へと旅を続けた。
小さなホテルを転々とし、俺達は旅を続けた。あてなどない。
「アンタはアタシを抱かないんだね」
「抱かれたいのか?」
「別に」
きっと彼女は傷ついたことだろう。別に構わなかった。傷つけることにも傷つけられることにも慣れている。
ニュースでボスが逮捕されたことを知った。
俺はショックで茫然としていた。
もう俺には何も残されていない。居場所もどこにもないし、唯一身内だと思っていたボスの逮捕は精神的に応えた。
電車に乗った。
「一緒に死のうか」
彼女が言う。俺はその言葉を無視した。
「アタシね、実は、余命一年なんだぁ」
嘘だと思った。ここまで来て自分に気を引きたいのか。
苛立ちを感じる。
「嘘だと思ってるでしょ?」
これも無視した。
「あのね、アタシ、援交でできちゃった子供を産んで死ぬの」
とうとう頭がおかしくなっちまったか。この女は。
「信じてもらえないかもしれないけど、アタシには未来が見える能力があるの。夢に見たことが本当になっちゃう。だから何も希望が持てなくて。どこまで行っても、幸せになれないってわかってたら、もうどうでもよくなっちゃうでしょ?」
女はさらに続ける。
「だから、どうせなら好きな人の子供を産んで死にたいって思った。アンタはアタシの運命を変えた人なんだよ?」
俺はそこで初めて顔を上げて彼女を見つめた。
「だって、アンタがドジ踏んだから、駅で会う予定だった人がアンタになっちゃった」
「俺は運命だとは思わない。そんなものは存在しない」
「そうかもしれないね。でも、アタシ、アンタに会えてよかったって思ってる」
彼女は小さくため息をついた。
「次はきさらぎ~、終点、きさらぎ駅です。お忘れ物の無いようご用意願います」
車掌のアナウンスと共に、どこともわからない終点の駅に着いて俺達はその駅のホームに降り立った。
「ここでバイバイだよ。ねえ、最後に本当の名前、教えてくれる?」
女が悲し気に見つめてくる。
「俺は、藤崎 徹。お前は?」
「行橋 里奈」
そう言うと、彼女はホームから走り出した。
10メートルくらい先で、踵を返して振り向き、思いっきり手を振った。
満面の笑みで。
それと共に、眩しい光でホーム全体が包まれ、俺は目がくらんだ。
気が付くと俺は、電車の中で眠っていた。
今のは夢だったのか?
隣を見ると、彼女は居ない。
「里奈?」
寝ぼけ眼で呟いた。気付けば電車は自宅の最寄り駅に着いていた。
彼女はどこに行ったのだろう。
それとも、あれは長い夢だったのだろうか。
駅のトイレの周りが騒然となっていて、しばらくすると救急隊員が到着して、トイレから一人の女性が搬出される。
「里奈!」
顔面蒼白で運ばれているのは間違いなく彼女だ。
「彼女のご親族の方ですか?」
救急隊員に尋ねられ俺は何と言っていいかわからないので
「知り合いです」
と答えた。
「そうですか。とにかく乗って!」
と付き添いを促された。
「彼女、どうしたんですか?」
「トイレで出産されました。出血が酷くて、危ない状態です」
「えっ?」
嘘だろう?彼女は余命一年だって言っていた。
それに、どう見ても彼女は妊娠している体ではなかった。
「赤ちゃんは?」
「一命はとりとめました」
俺は何故かほっとしていた。
病院に運ばれたが、やはり里奈は亡くなってしまった。
身寄りのない赤ん坊は乳児院に預けられるとのことだった。
「父親は俺です。俺が引き取ります」
咄嗟に出た言葉に驚いてしまったが、これはたぶん運命なのだ。
数年が経った。
公園の日だまり。天気が良い。
「パパー、ボール取って~」
息子の声に俺は笑顔でボールを拾うと、空高く放り投げた。
小さな手を広げ、太陽に向かって息子が思いっきりジャンプした。
作者よもつひらさか