ある女性が語った、不思議な話。
都内、某区にあるコーヒーショップには、「出る」という噂がある。
これは、客の間、というよりも、従業員の間の噂。
そのコーヒーショップは有名なチェーン店であり、早朝から夜遅くまで営業をしている。
特に、「出る」のは、夜シフトのアルバイトたちであった。
例えば、M実は、夜シフトの際、店を閉め、片付けをし始めようとした時に、「すいません」とカウンターから女性の声がしたので慌てて振り向いたことがある。
もちろん、店の戸の鍵はしまっているので、客がいるわけがない。振り向いたところには誰もいなかった。
また、別の日、同じく夜シフト。閉店間際だったのだが、K子がコーヒーを準備して出したとき、客がいなくなっていた事がある。
注文を受ける際に勘違いをしたのだろうかとも思った(例えば、他の客が本当は一つしか注文していないところを2つ注文したと勘違いしたなど)が、そもそも、店内に誰もいない以上、間違えようもないはずである。確かに、「ブレンドひとつ」という声を聞いた。女性の声だった。
聞こえる以外のこととしては、T夫だったが、赤い靴を履いた足だけが歩いているのを確かに見た、と言って騒いでいたことがある。T夫はふざけがちで、バイト仲間からもいい加減と思われていただけに、そのときにはみんな大して気にしていなかったが、M実やK子の話が広がるに連れて従業員たちの中には、幽霊が出る、と言い始める者が多くなってきた。
この店の店長は28歳の男性であった。このまま妙な噂が広がって、アルバイトがやめると言い出しては大変だと、自らが夜シフトに立つようにし始めた。もちろん、店長一人では店を回せないので、最低一人はアルバイトがつくのであるが、店長が夜シフトについてから、アルバイトたちが幽霊を視ることはなくなった。
店長は
「やっぱりみんなの気のせいだったんだよ」
などと言っていた。
ところが、今度は店長と一緒にシフトに入ったアルバイトが、妙な事に気づいた。
「悪かったよ・・・」
店長がふと独り言を言う。普段はそんなことを言わない店長だったので、ちょっとギョッとした。店に誰もいない時、バックから在庫を取って戻ってきたときなどが特にひどかった。
「もういい加減してくれよ」
など、苛立っているときもあれば、
「ごめんよ、ごめんよ・・・」
半ば泣きそうになっているときもあった。
店長はみるみる衰弱していった。食事もろくに取らず、顔色が悪くなっていった。仕事こそこなしているものの、どこかいつも上の空であった。この様子を見て、アルバイトの中では「店長に恨みがある女性の幽霊が出ているんだ」という噂が流れ出し、次々にアルバイトがやめる事になった。
最初にやめたのは、実際に幽霊の声を聞いたM実やK子であった。
3ヶ月後には、店長は病気のため休暇を取るようになり、店は本部スタッフが来て切り盛りするようになっていった。バイトがいつくまで本部からのテコ入れがあったので、店はなんとか存続できた。
幽霊は、その後全く出なくなった。
実は、この話を教えてくれたのは、この店長の妹であった。
その女性は言った。
「兄は私が言うのも何ですが、ひどい人でした。
顔がよく、もてる感じだった兄でしたが、身持ちが悪く、何人もの女性を付き合い、すぐに捨てていましたから。
中には、妊娠させたが、そのまま音信不通にした、なんてことを言っていることもありました。
その中のひとり、高校生の子でしたが、兄に妊娠させられ、挙句に捨てられ、堕胎を余儀なくされた子がいました。
その子は手首を切って、昏睡に陥ってしまったのです。
ちょうど、兄の店で幽霊が出ると言われていた頃です。
私はピンときました。
この女性は、ちょっと前まで兄の店でバイトをしていたからです。
私はM実やK子、T夫に会いました。
彼らはすぐに白状しました。友達をひどいカタチで捨てた店長に仕返しを考えたと。
彼らは自分らが夜シフトに入ったときの幽霊話をでっち上げたのです。ホンの出来心だったのだろうと思います。兄が困ればいいと。
しかし、兄が夜シフトに入るということで、そのイタズラもできなくなりました。
事態はそれで終わるはずだったのです。」
「しかし、その後、兄は妙に怯え始めました。
たまにしか話さなかったのですが、何度か「店で夜、女の声が聞こえる」とか、
「なんで、なんでって言うんだ・・・」とつぶやいていました。
そのことも当然M実たちに聞きましたが、全員が知らないと言いました。そして、自分たちは聞いていない、と。」
「兄は今、入院しています。
重度のうつ病です。ほとんど話すことはないのですが、
たまに妙に怯えて私に夜通しそばにいるように言うことがあります。
『あいつがくる、あいつが・・・』とその時は言います。」
「私は、兄が良心の呵責から幻覚を見るようになったのだと思っていました。兄にも人の心が在ったのかと、逆に安心したくらいです。」
でも、と女性は続けた。
「一度だけ、特別に許可を得て、兄に付き添ったことがあります。そのときに、私にも聞こえたのです。
『よくも』
と言う女性の声を」
作者かがり いずみ
日常生活には実は、こんな微細な怪異が多くあるのかもしれませんね。
私達が気づかないだけで…