長編23
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「オパールの涙」

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近所に、アンティークショップなるものが開店し、もうかれこれ半年以上になる。

何の変哲もない住宅街の片隅に、ひっそりと佇むその店には、掘り出し物が多いとの噂だ。

それも、店主との折り合いがつけば、言い値で売ってくれるのだという。

モノによっては、ただ同然に手に入るらしい。

そんなうまい話があるものだろうか。

一つ、騙されたと思って、訪ねてみることにしたのだが。

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これが、大当たりで。

お目当ての品を手に入れるためには、ちょっとした、というか、まぁ、かなり面倒な手続きを要したのだが、来月、誕生日を迎える妻にプレゼントするのに丁度いい宝石が、言い値、つまり安価で手に入ったのだ。

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宝石の名は「オパール」

そう、10月の誕生石。

妻の誕生日と私たち夫婦の結婚記念日が10月13日で、それに合わせて購入したってわけだ。

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「オパール」は、誕生日と結婚記念日、ふたつのアニバーサリーに相応しい、上品で気高く、それでいて、人をほっとさせる暖かさがある。

まるで私の妻にぴったりの宝石なのだ。

ダイヤモンドやルビー、サファイヤにはない、清楚で神秘的な輝きといったらいいのかな。

その魅力に惹きつけられる人多いと思うよ。

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妻には若い頃から、苦労のかけっぱなしだったから。

この辺で、少し、恩返しでもしようかなと思ってね。

妻は、なかなかの美人で。

若い頃は、街を歩いていると、すれ違いざまに振り返られたり、ナンパされたりなんてこともしばしば。

姉さん女房で、ちょっと勝気なところが玉に瑕なんだけど。

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絵本作家とは名ばかりの三文小説家の私の夢を、自分の人生を捧げてまで叶えようとしてくれた。

命の恩人。

これから、その妻の話をしようと思うのだが、聞いてくれるかな。

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あぁ、一つ大事なことを言い忘れていたよ。

私たち夫婦には、娘が一人いたんだ。

めぐみって子がね。

これが、また、天使のような子でねぇ。

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いつだったか。妻と同じ白衣の天使と区の児童相談所の職員と一緒に、私の目の前から急に天国に旅立ってしまったのさ。

差別とか偏見とか、排除とか、貧困とか、戦争とか、そんなものがない国に。

それはそれは、嬉しかったねぇ。

そう、まさしく神の国に行ったのだから。

娘の名かい?

めぐみ っていうんだ。

命名したのは、父親である私。

めぐみ

どうだい。いい名前だろう。

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目覚まし時計の無機質な音が鳴り響く。

5時半か。

促されるように、布団から這い出し、ぼんやりと辺りを見渡す。

珍しく早起きした夫が、慣れない手つきで、娘の口元にゼリーを運んでいた。

「あぁ、ちょっと待って。※体交(体位交換)まだ済んでいないでしょう。

それと、左を向かせてから、背中にクッションを入れて固定しないと苦しいでしょう。

それから、ギャッチアップするんだったら、もっと角度を高めにしないと。食べた後、逆流してきちゃう。身体は、もう少し上にあげて。ほら、ずり落ちて来ちゃうじゃない。」

寝起き早々、ついとげとげしい言葉が、口をついてしまう。

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「やっぱり、ママの方が手早いし上手だ。さすが、ベテラン看護師だね。」

「別に看護師じゃなくても、普通そうするでしょう。自分がめぐちゃん

だったらどうしてもらいたいか、よくよく考えたら出来ることよ。」

「あー、そっかぁ。そうだよね。ごめんね。めぐちゃん。パパ、まだまだだね。

ママやめぐちゃんから、もっともっとたくさん教えてもらわなくちゃね。」

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どんなに辛く当たられても、きつい言葉を浴びせられても、

夫は、柔らかい物腰で、笑顔を絶やさない。

それが、逆にイラつく。

なぜなのだろう。

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「ぞれから、ゼリーは、デザートだから。一番最後に食べさせて頂戴。

めぐちゃんの朝ご飯は、三食セットにして冷蔵庫に入れてるの。知らなかった?

我が家で、冷蔵庫を開ける回数が一番多いの誰よ?」

「ごめーん。めぐちゃん。パパ、冷蔵庫の中身一番よく知っているはずなんだけどなぁ。

見ているようで見てなかったんだねー。」

床をすり足で歩きながら、徐に冷蔵庫を開ける夫。

そのどこか天然で間抜けな所業に、更にイラつく。

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「どれどれ。ほんとだぁ。きちんと三食分並べてあったよ。今度から、冷蔵庫の中身もちゃんと管理しなくちゃねー。」

夫は、冷蔵庫の中から、牛乳パックを取り出すと、手元のマグカップに、とぽとぽと注ぎ、一気に飲み干すと、

「ふわぁ、久しぶりに早起きしたから、調子狂っちゃったよ。」

大きく口をあけ、欠伸(あくび)をした。

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「そうよ。いつものように、ゆっくり起きてもよかったのに。今日は、どういう風の吹き回し。」

私の棘のある言葉を気にする風もなく、夫は、ほほ笑みながら、私の手を取った。

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「ハッピーバースディ。今日は、ママのお誕生日。そして、僕たちの結婚記念日だったよね。」

すっかり忘れていた。壁のカレンダーを見る。今日は、10月13日か、確かに私の誕生日だ。

そして、私たち夫婦の結婚記念日。

「それで?だから、何?」

もっと喜んでもいいはずなのに、なぜこんな言葉しか出てこないだろう。

我ながら情けなかった。

夫は、在宅でフリーの仕事をしている。

そのせいか、今日が何月何日の何曜日なのかなんて、気にも留めていないように見えた。

そんな野放図で能天気だった夫が、今年はどうしたというのか。

あまりにも唐突すぎる言動に困惑している自分がいた。

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「今年は、結婚10周年でしょ。だから、親子三人で、ママの誕生日祝いと結婚記念日を一緒にお祝いしたいと思うんだ。今日は、何時にお仕事終われるの。」

「ごめん。いつもなら15時には終われるはずなんだけど。今日は、主任がお休みなの。あとパートさんが一人、家庭の事情で欠勤しているし、もし急患が入ると、帰りが遅くなるかもしれない。」

「それでもかまわないよ。ね?めぐちゃん。お母さんが来るまで、お父さんと一緒に待っていようね。」

娘は、大きく目を開け、ゆっくりと2回瞬(まばた)きをした。

「OK。了解だってさ。」

夫は、娘に向き合うと、その頭を優しくなでた。

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さっき、食べたゼリーが口元に付着している。

「ごめん。ちゃんと口に入らなくて。今、拭いてあげるからね。」

夫は、濡れティッシュを掴むと、ぎこちない手つきで娘の口元を拭った。

優しくて穏やかな夫。

温厚篤実。沈着冷静を絵にかいたような男。

私は、結婚してから呼び捨てにされたことも、暴力をふるわれたことも、怒声を浴びせられたこともない。そもそも世間一般で語られる夫婦喧嘩なるものを私は知らない。一度もしたことがないのだ。

いつも、イライラし、がたがた騒ぎ立てているのは私だけ。

怒りをぶつけ、罵声を浴びせているのは、妻であり母である私。

そんな私に対し、夫は、常に泰然自若と構えている。

なぜ?どうして?あなたは、イライラしないの?

娘に、自分に、この私に。

10歳年下だから。

家計の大半を賄っているのが私だから。

負い目や引け目を感じているの。

だから、言い返せなくて、我慢しているの。

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いや、違う。

これが夫の本質。

キャラクターなのだ。

そうでなかったら、こんな生活、10年なんてもつわけがない。

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夫と知り合ったのは、私が28歳。夫が18歳の時だった。

夫は、当時高校三年生。

私は、看護師になってから既に5年が経過していた。

夫は、ヘルペスから帯状疱疹に悪化したとのことで、

安静のため入院していたらしいのだが、検査の結果、CRPが急上昇していることが分かり、

更に詳しい精密検査をすることとなった。時々、不整脈も見られ、重篤な病が隠れているかもしれないとの懸念があったらしく、当分の間入院し、検査結果を待つこととなったらしい。

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幸い検査結果は良好で、順調に快復した夫は、当時、私が勤務していた地方都市の病院に転院してきたのだった。

同世代の患者も少なく、時間を持て余すような毎日を送っていた夫に、私は、頻繁に声をかけるようになった。

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絵を描くことと、読書が趣味で、将来は、絵本作家になりたいという夢を熱く語る少年の穢れのない瞳が、仕事に忙殺され、カサカサに乾いた私の心をとらえた。

夫もまた、かいがいしく患者と向き合う私の姿に、憧れと尊敬と感謝の気持ちを抱くようになっていったのだという。

不器用で、どこかぎこちない二人だったが、いつしか将来を誓い合う仲になり、その二年後。夫が、美術専門学校を卒業した年の10月13日に入籍をし、私の住んでいた2LKの小さなアパートで慎ましく暮らし始めたのだった。

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翌年の4月。絵本作家としてデビューするにふさわしい著名なタイトルを若干20歳で受賞した夫は、ぼちぼち書店に本が並ぶようになっていった。やがて、都心から電車で30分程離れた郊外に、やや広めのアパートを借り、そこをアトリエ兼自宅とした。とはいえ、夫の収入だけでは、到底食べてはいけない。

夢と希望を与えるため 皆に愛と幸せを与えるために、絵本を描き続けるんだ。そんな夫の夢を叶え、夫のピュアな心を支え続けることが、当時の私の生きがいでもあり、希望でもあった。

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新居に引っ越して三月ほどたった時、妊娠していることに気づいた。

出産前、心音が弱いとのことで、緊急入院になったのだが、医師からは、このままでは死産になるかもしれない、母体にも傷がつく惧れがある、今回は諦めてほしい。と掻破手術を勧められた。

夫はそれを強く拒み、何が何でも産んでくれ。と懇願し、医師を説得し続けた。

ぎりぎりまで待って、仮死状態のまま帝王切開によって、取り出された娘は、先天性の障害を持って生まれてきた。

医師と助産師は、無言でその場を立ち去り、後を任された看護師の「あなたナースなのよね。」の一言が、ことの重大さを物語っていた。

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それでも、夫は、落胆したり悲しんだりはしなかった。

むしろ、この子は、多くの人に夢と希望を与えるために、神様が授けてくださったのだ。

夫婦ともに力を合わせ、愛し愛される子に育てよう。

目をキラキラさせながら喜んでくれた。

それまで、ずっと忍耐し続けてきた私は、夫にしがみ付き、何時間も泣き続けた。

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名前は、夫が付けた。

ひらがなで、「めぐみ」

この子は、神が僕たちに与えてくれた 愛の恵みだから。

って。

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「めぐみ」

私たちは、いつの頃からか、愛着を込めて、

「めぐちゃん」

と呼ぶようになった。

夫は、いつも娘に話しかける。

「君はね、多くの人を愛し、多くの人に愛されるために生まれてきたんだよ。」と。

私たちは、ことあるごとに、そう言い続けて暮らして来た。

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こんな幸せってある?

私は世界一幸せな妻

天使を育てるために

神によって選ばれし母

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天使を育てるに相応しい

世界一恵まれた女

こんなにも夫に愛されているのだもの

そう思わないと

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この世は、地獄になってしまう

そう思わないと

生きてはいけない

この子と

夫と

生きてはいけない

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「今日、※訪患(訪問看護師)さんが、午前10時と午後2時に来るから。

お願いね。めぐちゃんの体調も変わりないし。

たった今、薬飲ませたから。しばらくは、落ち着いていると思う。

パパは、いつもより早く起きたんだから。少し休んだら。」

「ありがとう。ママ、めぐちゃん。ママは、やっぱり世界一だね。さすが、選ばれしもの。素晴らしいお母さん。」

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「朝っぱらから、きついこと言って悪かったわね。疲れているのね。きっと。」

「そうだね。疲れているんだよね。毎日、お仕事ご苦労さん。あ、違う、お疲れ様だよね。

僕の仕事が、もう少し増えればいいのだけれど。そうしたら、もっと楽をさせてあげられるんだけど。でも、今より忙しくなってしまうと、日中、めぐちゃんのお世話が出来なくなるし。

家だって、今よりも大きなところを借りなくちゃならなくなる。」

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また、その話か……。

うんざりして横を向いたその鼻先に、夫は、文芸誌のようなものを差し出した。

「あのさぁ、絵本の出版社の人がね。今度、こういう分野にもチャレンジしてみたらって言ってくれたんだけどね。絵本じゃないんだけど。挿絵だけでも描いてみてくれないかって。」

『霊』と大きく書かれた表紙には、円山応挙の幽霊画が冠してあり、素人目にも「ホラー」専門誌であることが解る。「怪しと妖し」と書かれたサブタイトルの下に並ぶ作家名に、私は身体の芯から震えが来て止まらなくなった。

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「どうして。こんな本の仕事しなくちゃならないわけ。

これの、どこに夢と希望と未来があるの。

真逆じゃない。私は反対。絶対に反対だからね。」

そう言って、夫の胸につき返した。

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「そうかぁ。やっぱり、駄目っていわれると思ったんだよ。うんうん。解る。よく解るよ。

ママの気持ち。僕もね。こんな怖くて汚いお話や絵なんて描きたくないって言ったんだ……でもね、出版社の人が……」

それ以上は、聞きたくなかった。

「あなたは、自分の描きたいものを描いて。あなたでなければ、描けない世界があるはずよ。天使のようなめぐちゃんと、日がな一日暮らしているんでしょう。だったら、そんな心温まる夢のようなお話や絵を描いてみてよ。」

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よくも、ここまで、堕ちてくれたものだ。

「今日行けば、明日明後日と二連休だから。

頑張って早く帰って来れるようにするね。

それじゃぁ。もう時間だから、めぐちゃん、ママ行ってきまーす。」

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娘の瞬きを確認することもなく、アパートを飛び出した。

参ったな。いつもより、5分遅れている。

バス停まで全速力で走って、ギリギリ間に合う時間だ。

「行ってらっしゃーい。愛してるよママ。今日もお仕事がんばれ。」

閉じられたドアから、聞こえる物腰穏やかな夫の柔らかな声。

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今日もお仕事がんばれか。

いい人なんだけど。

とってもいい人なんだろうけれど。

ズレてる。

夫は、いつ、どこからズレ始めたのだろう。

そう、何かが狂っている。

時々、夫が人間に思えなくなる時がある。

さっき、夫が見せてくれた あのホラー専門誌のサブタイトルのような怪しい、いや妖しいモノの化身にすら思えてくる時が。

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親の話は、聞くものだ。と、今になって、つくづく思う。双方の親たちが猛反対したのは、単に歳の差や家庭環境の違いではなかったのだろう。

特に、夫の父親は、

「あなたほどの人なら、どんな立派な方とでも結婚できるでしょう。

釣り合わぬは不縁の基と言われているではありませんか。

どうか、一生のお願いです。

後生ですから、息子と別れていただけないでしょうか。そのためなら、どんなことでも、いたします。お金で解決できるの柄あれば、土地、家屋、借金をしても構いません。このとおり、後生ですから。」

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二時間近く土下座していたのを思い出す。

とうとう、根負けした義父が、最後に発した言葉。

今頃になって蘇ってくる。

「息子は、普通ではないんです。あなたには、まだ、それが解らないから、そんな甘い夢を描いていられるのです。」

その義父も、昨年、風の便りに帰らぬ人となったと聞いた。

実の息子なのに、訃報すら教えてもらえないなんて。

「普通じゃない。」

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もうかれこれ、10年になるのか。

20代から30代。無我夢中で走り続けてきた10年間だった。

早いというよりは、どこか異世界に迷い込んだような歳月だったと思う。

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今日から、40代に突入する。10代の頃に思い描いていた40代は、成熟し、揺らぐことなく、迷うことなく、シャキッと前を向いて生きている大人のイメージだった。

今の自分は、どうだ。いつもイライラして、時間に追われ、目の前の仕事に翻弄される、幼稚でちっぽけな存在。

「こんな生活、いつまで続くのだろう。」

「こんな生活、いつまで続けるのだろう。」

「こんな生活、いつまで続けられるのだろう。」

「あなたの夢は、いつ叶うの。」

「あなたの夢が、叶うのはいつ。」

夢・希望・愛 人は、愛し愛されるため生まれてきた…か。

深く大きく息を吸い、私は空を仰いだ。 

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悪い予感は、当たった。

15時上がりだったはずが、立て続けに3名の急患が入った。

いずれも、重篤な患者ばかりだったが、最後の患者は、心肺停止の状態で滑り込んできた。

自宅で急に倒れたのだという。

救急車から降りる際、患者の妻らしき老婆と一瞬目が合った。

老婆は、慌てて視線を手元に落とすと、左手薬指を見ながら、微かな笑みを浮かべた。

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ぼんやりとしか見えなかったが、乳白色とコバルトブルーの淡い光のようものが、老婆の指に留まるように光っていた。

指輪か。

でも、それにしては、どことなく不自然な気もする。

「どこ見てる。別のストレッチャー準備。急いで。」

「すみません。」

患者を搬入する際、ストレッチャーのストッパーが効かなくなる、という想定外のハプニングが起きていた。

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他にも、度重なる重篤な患者搬送に、トリアージの混乱など、普段なら考えられないような人為的ミスが重なった。

更に、最後に搬送された急患の妻が、待合室で倒れたとの報が入り、現場は騒然とした空気に包まれた。悪いことは、重なるものだが、20年近くこの仕事をしてきて、こんな日は、初めてだった。誰もがそう思っていたに違いない。

「なんなんだ。みんな気を引き締めてやってくれないと困るよ。」

ERの医師の怒りの声が響き渡った。

「私たちだって、いっぱいいっぱいなんですよ。」

誰かが、そう呟き、その場にいた全員が唇をかみしめた。

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どうしたのだろう。

急にめまいが襲ってきた。一瞬、意識が遠ざかる。

ふらつく私の上腕を、看護師長が掴み、耳元で声をかけた。

「あなた、もう上がっていいわ。お疲れ様。15時上がりだったんでしょ。今までありがとうね。娘さんのこともあるんだから。早く帰ってあげて。」

「ありがとうございます。それでは、お先に失礼いたします。」

未だ、混乱が続く現場から、ひとりだけ抜けるのは、後ろ髪惹かれるような思いだったが、それ以上に、我が家の二人が心配でならなかった。

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今日、二回訪問に入る予定だった看護師の派遣先に電話を入れるも、何度かけても不在着信になる。

14時過ぎに、見慣れない番号から立て続けに不在着信があった。

どこからだろう。

掛けてみるが、コール音はするものの誰も出ない。

誰からだろう。

どんな用事だったのだろう。

lineもチェックしたかったが、歩きスマホは危険だ。

それより、今は、一刻も早く、自宅にたどり着くことを優先しなければ。

一抹の不安を抱えつつ、日が傾きかけた西の空を眺めながら、バス停めがけて走り出した。

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はぁはぁはぁ。

息を切らし、発車寸前のバスに飛び乗る。

かろうじて、空いていた席に腰を下ろし、汗を拭き、乱れた髪を手ですくう。

「コホン」

頭上から、わざとらしい乾いた咳ばらいが聞こえた。

ふと見上げると、先般、相前後して乗り込んだ黒いスーツを身にまとったロマンスグレーの紳士が、吊り輪に両手を突っ込んだまま、こちらを覗き込んでいる。

座りたかったのだろうか。

無言の圧力をかけてくるのが分かる。

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(疲れているのは貴方だけじゃない。私がどんな生活をしているのか、知りもしないくせに。)

視線をそらし、無視を決め込んだ。

しばし目を閉じ、バスの揺れに身を任せ一日を振り返る。

いつにもまして、長い日勤だった。

ずっと休む暇もなく、動いていたような気がする。

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バス停2つ程通り過ぎたあたりだったと思う。

「ねぇ、奥さん。あなたに、かなりやばい奴が憑いちゃってるね。とってあげたいけど、手遅れ。俺には無理。気の毒だけどね。」

耳元にかかる生暖かい息遣いに、ぞっとして目を覚ます。

見上げると誰もいない。

疲れていると幻聴まで聞こえてくるものなのか。

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「次は、○○に停車します。降車なさる方は……。」

いけない。寝過ごすところだった。

慌てて、降車ボタンを押し、買い物袋を両手に抱えながら、やっとの思いでバスを降りた。

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秋の日は、つるべ落とし。

夕焼けが眩しかった西の空に、下弦の月が見えだし、雲の間から、宵の明星が顔を出している。スマホを確認すると、16時20分

lineをタップする。

夫から数回の着信があった。

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「ママ~、お仕事まだかなぁ。連絡してね。」15:30

「ごめんね。もしかして、急患入った?」15;40

「めぐちゃんと待ってるよ。」15:55

「ママ~、どうして連絡くれないの。」15:57

「お客様が来たんだけど。」15:59

「お客様とめぐちゃんと

ちょっと出かけてくるね。」16:03

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「ここどこかな。あれ?お客様、どっか行っちゃった。

まいっか。用事は、たった今住んだよ。」16:05

「しばらく、外出たことなかったから、道まよっちゃったかな。」16;10

「帰りの道がわかったよ。」16:12

「なんだ、ここか。随分風景が変わっていたから、

解らなかったよ。」16:15

「まま~、めぐちゃんがさぁ。16:16

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ちょっと、何してるのよ。

大急ぎで電話をする。

何度コールしても出ない。

今どこ?

どうやって、めぐちゃんを連れだしたの。

お客様って誰?

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アパートの玄関の前に着くと、再びlineが入った。

「ママ~、やっと着いたね。鍵あいているから。早く中に入って。」

「もう、何やってんのよ。ふざけるのもいい加減にしてよ。」

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思いっきりドアを開ける。

「ママ~、サプライズだよ。お誕生日おめでとう。」

なんなのこれ。

部屋中、いたるところ、真っ赤なペンキが塗られている。

生臭い臓物の臭いが漂っている。

いや、これは、ペンキじゃない。

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ヌルヌルしたものに足を取られ、思わず尻もちをついた。

なんなのこれ?

起き上がろうとしても、ずるずると滑って、立ち上がれない。

ふと、何かが手に触った。

長いひも状の人間の贓物だった。

こらえきれず、その場で吐き続けた私の足元に、めぐみの昼食用にと用意しておいたプリンの空き容器と食器やスプーン、フォークが散乱していた。

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ちょっとこれ、なんなの。

ここで、いったい何が起こったというの。

夫は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべながら、私の目の前に立った。

「お誕生日おめでとう。愛しているよ。ママ。これは、僕からのプレゼントだよ。」

血だらけになったズボンから、小さな箱を取り出すと、乳白色とコバルトブルーに輝く指輪を取り出し、ぬらぬらと血糊で濡れた私の左手の薬指に嵌めた。

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ひぃっ。

今日、これと同じものを見た記憶がある。

最後に搬送されてきた患者の妻。

あの老婆が指にはめていたものと同じ。

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「凄いなぁ。狙った通りの指輪のサイズで合ってたよ。」

「何なの。これ、どこから手に入れたの。こんな高価なもの。あなたに買えるわけないわよね。」

「やだなぁ。ちゃんと、正当な取引で購入したものだから安心して。」

夫は、甘えた声を発すると、拗ねた表情を見せた。

「私、今日、病院でこれと同じ指輪をしている人を見かけたわ。おばあさんだったけど。何なの、これ?」

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夫は、クスっと笑うと、ポリポリと頭を掻きながらこう言った。

「そのおばあさんがしていたっていう指輪とママにあげた指輪は、違うものだと思うけど。そのあたりのことは、僕にもよくわからない。大人の事情ってやつ。」

「いい加減にふざけるのはやめて。」

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「悪かったね。実はね。ずっと前から、もう絵本作家は、辞めたんだ。

どうしてかなぁ。めぐちゃんが生まれて、しばらくして、ママがまた病院に勤め始めてからかなぁ。きれいな絵、きれいなお話が描けなくなったんだよね。

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そしたら、手っ取り早くお金になる話を持ってきてくれた人がいてね。

ほら、一昨年の冬、めぐちゃんがインフルエンザ脳症に罹患して、入院した時があったでしょう。ママ、お金に困って、(ママの)お義父さんのところに借金をお願いしに行ったことがあったよね。駄目だよ。そんなことしたら。僕たちは、たった二人だけで、身内や親族にも誰にも頼らないで、頑張っていこうって約束したじゃない。僕に内緒でお金を無心するなんて。がっかりしたんだ。ママにじゃないよ。僕自身にさ。

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それで、決心がついた。僕は、絵本じゃなくて、こっちの道に進むってね。描いてみたらさ。意外と面白くて。次から次へと描けちゃうんだ。意外と反響が大きかったんだって。仕事もたくさん入ってくるようになったんだ。評判が良くてね。ママも知ってる有名な作家先生が、今度私の本の挿絵を担当してくれないかなんて。言ってくれてるんだって。最近では、YouTubeにもアップされたりしてさ。これが、結構、お金になるんだよ。」

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夫はそういうと、両手で、私の左手を包み込むように握り、自分の左の頬に持っていくと、

うっとりとした表情で目を閉じた。

「あぁ、この消毒の臭い。ふくふくした手の感触。大好き。」

血糊でドロドロになった私の左手を頬に擦(こす)り付けると、指を一本ずつ、ゆっくりとゆっくりと舐め始めた。

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身体中を気色悪いナメクジが這いまわっているかのような感触に襲われた私は、

恍惚の表情を浮かべている夫の右頬を、力いっぱい殴りつけた。

「めぐちゃんは、どこ?ねぇ、めぐちゃんは、どこにいったの。」

「なにすんの。痛いじゃない。暴力をふるうのは、いつもママばかり。酷いよ。」

夫は、血と臓物でずぶずぶになった床を、摺り足で歩きながら、

「めぐちゃんはね。とってもとってもいい子でしょう。

だからね。天国に行かせてあげたの。天使さんがね。

お仕事のついでにって、お迎えに来て連れて行ってくれたんだ。」

「あなた何言ってるの。

訪問看護師さんは、来たんでしょう?」

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「来たよ。午前10時と午後2時にね。

午前中は、無理やり帰ってもらったんだ。

だって、お父さん、めぐみさんを施設に入所させませんかっていうんだもの。

どうしてそんなことしなくちゃならないんですか?って聞いたら。

お二人だけで、めぐみさんのお世話をするのは大変じゃないですかって。

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どうして?めぐちゃんは、ここにいるのが一番幸せなんだよってお話したらね。

お父さんには、日中、めぐみさんのお世話をさせられませんって。無理ですっていうの。

そしてね。ほら、こんなふうになってるって。

めぐちゃんを裸にしたの。身体中痣だらけだっていうの。

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でもね、どこを見ても痣なんて付いてないの。

おかしな言いがかりつけないで頂戴って言ったんだけどね。

烈火のごとく怒ったかと思うと、急に出て行ったの。

午後2時にも来たのよ。

めぐちゃんたら、どんなに食べさせようとしても、頑として口を開かないから、二時間近く、格闘しちゃってたところに、やってきたの。

今度は、年配の男性の方と一緒にね。

食事の食べさせ方がどうとか、こうとか、もう、二人がかりで、うるさいったらありゃしない。

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今日は、ママの誕生日だから、その準備があるから帰ってください。と言って、帰ってもらったんだけど。

ものの10分もしないうちに、また、戻ってきて。

奥さんの了解を得るからって。携帯に電話するっていうのよ。

どうせ、ママは、仕事中だから、電話に出られないし、かけても無駄ですよって言ってやったんだわ。

そしてら、激高してね。だったら、こっちから職場に直接伺いますって。困っちゃったから、天使さんを呼んで助けてもらったの。」

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「天使さんっですって。そんな人いるの。誰の事?」

「あのね。今、ママにあげた指輪。それを売っていたアンティークショップにいた人。

アンティークショップなんてしゃれたお店じゃなくてね。骨董屋みたいな古風なお店だったの。その人、いつでもお店にいるわけじゃないみたい。

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それに、そのお店。誰彼が行けるお店ではないみたいでね。ちょっと、面倒な手続きが必要だったのね。でも、うちには、めぐちゃんがいたから。らく~に通してもらえた。」

「あなた、めぐちゃんを利用して、そのお店と取引したってわけ。」

「利用しただなんて。酷いなぁ。天国に行かせてあげるから。めぐちゃんを譲ってくれって。面倒な手続きはいらない。それでだけでいいって言ってくれたんだ。それとねぇ。その指輪なんだけど、とってもとっても哀しいことがあると、人間のようにハラハラと涙を流すんですって。」

「めぐちゃんを売ったのね。めぐちゃんを愛しているなんて嘘だったのね。あぁ、私ったら、どこまで、お人よしだったのかしら。あなたは、本当にバカね。くるってる。宝石は、水で洗ってもいけないし、水をつけてもいけないのよ。特に、オパールわね。そもそも、宝石が涙を流すなんて、ばかばかしい。そんな嘘信じる人なんかどこにもいないわ。」

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「僕は、めぐちゃんを愛しているよ。僕なりの愛し方で愛してきたよ。なのに、いつまでたっても、上手くお世話できないとか、どうして、あなたはそうなのだどか。みんなで寄ってたかって、僕を、バカにしてたじゃないか。天国なら、そんな心配はご無用って。天使さんがいうんだ。でも、天国に行くのが、めぐちゃん一人じゃかわいそうって言ったら、天使さんが、優しい優しい看護師さんと、ちょっと短気だけど、親切なおじさんと一緒に連れて行ってあげるから。って。三人一緒に、連れて行ってもらったの。

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天使さんは、天国に居なきゃ。

こんな酷い世の中に至って大変なだけ。

だって、僕も病弱だし、なんか、普通じゃないってみんな言うし。ママだって、いつまでも元気で働けるわけじゃないでしょう。

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めぐちゃんは、いつかは、施設やどこか知らないところで、知らない人にお世話されながら、生きていかなきゃならない。

ママや僕のように、きちんとお世話できる人たちばかりとは限らないでしょう。

ありのまま受け入れて愛してもらえるところなんて、世界中どこを探しても見つからないと思うよ。

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そんな所に居たら、いずれ、誰かに殺されちゃうんじゃないかって。ママ思わない?

だったら、差別もない、偏見もない、病気や障害で苦しむこともない。

神様といつも一緒に居られる神の国に、天使さんに、連れて行ってもらった方がいいと思わない?

ママだって疲れただろう。毎日毎日。こんな生活、いつまで続くんだろうって思いながら暮らすの厭じゃない。」

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私は、台所に駆け寄り、出刃包丁を取り出すと、夫の喉元に突き付けた。

「黙れ。殺されたくなかったら、そのアンティークショップ、骨董屋とやらに連れて行って。そこは、どこにあるの。教えて。それから、この指輪返すわ。要らない。どうせ、まがい物でしょう。そうじゃなかったら、悪魔召喚の道具ね。昔、大学の図書館で、これと似たようなものを見たことがあるわ。」

左指から指輪を外し、床に叩きつけるように投げ飛ばした。

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「おい!お前なぁ。いい気になってんじゃねえぞ。」

かつて、一度も聞いたことのない夫の怒声があたりに響き渡る。

両頬を平手で何度も打たれ、そのはずみで床に倒れ伏した。

「痛っ!」一瞬のスキを突かれ、出刃包丁を取り上げられると、左手を床にねじ伏せられた。

ボギっという鈍い音がし、肩から左上腕に激しい痛みが走る。

骨折したらしい。

それから、髪の毛を鷲掴みにされ、無理やり仰臥位にさせられ、腹部を蹴られた。

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馬乗りになった夫に、身体を床に押し付けられ、身動きが出来ない状態にされる。

左肩の激痛と、突然起きた衝撃に耐え兼ねて目から血の涙が流れていた。

過去一度も見たことのない鬼の形相で出刃包丁を振り上げる夫の罵声が、頭上に降り注ぐ。

「黙っていりゃぁ、いい気になりやがって。死ね。くそばばぁ。」

「わかったわ。殺しなさい。思う存分、めった刺しにすればいい。

でも、最後に教えて。めぐみはどこ。どこにいるの。」

「そんなに会いたいか。あの化け物に。天国だよ。天国。

俺が殺した。俺は、天使なんだよ。神から遣わされた天使。

看護師と区の職員と一緒にな。そこに、ころがっていたじゃねぇか。

そいつらの臓物が。お前が踏んづけた場所にだよ。

お前、意外と頭悪いな。とっくに察してもよさそうなもんだがな。

お前も今、連れて行ってやるよ。あちらの世界に。」

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「あなた、そんな声が出せるんだ。怒れるんだ。良かった。天使なんかじゃなくて。ただの人間。クソしょんべんする人間。」

ハハハハ……私は、哄笑した。

「うるせぇ、おっと。お前に天国はもったいねえな。そうだ、地獄こそふさわしいわ。地獄へ堕ちろ、くそばばあ。」」

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出刃包丁が腹部に深々と突き刺さり、私の意識は、そこで途切れた。

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泉様
本作も、お読みいただき、怖いの評価を頂戴いたしましたこと感謝申し上げます。
ありがとうございました。
私の従来の作風とは、少し毛色の変わった作品となりました。
もう少し、書き込めればよかったと思いますが、恐怖以外に、大切な何かを感じていただけましたら幸いに存じます。
これからも、精進してまいりたく存じます。
よろしくお願い申し上げます。

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