寒月が、東の空に冴えざえと冷光をはなっていた。
静かな夜である。
遠くのほうで、夜陰を引きずる鐘の音がする。
赤坂田町にある成満寺が、四つを告げるための捨て鐘をついたのだ。
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山田吉利は、さかづきを干して深いため息をついた。
いつものことだが、いくら飲んでもまったく酔えない。
すでに亥の中刻となり、屋敷の周辺はひっそりと寝静まっていた。
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江戸時代、半蔵門から西へは閑静な武家地がひらけており、
大名や旗本などの屋敷が、いらかを競い合うように土塀をつらねている。
山田の家も、そのなかで居心地悪そうに門を構えていた。
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東へ一丁上ったところには平河天満宮もあるが、
さすがにこの時刻となると、門前町の賑わいも絶えている。
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時の鐘が打ち終わると、またもとの静寂がやってきた。
晩秋の冷え切った夜気に、野良犬の遠吠えが鬱々と尾を引いている。
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吉利は、火鉢に手をかざしながらぼんやり酒を飲んでいた。
彼のすわる正面には、紫檀を磨いた大きな仏壇があり、
内張りの金箔が、こうこうと燃える百目ろうそくの灯を反射している。
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ろうそくは、全部で三本立ててあった。
つまり、今日は三人斬ったということだ――。
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山田家は公儀から「お試し御用」の任をあたえられ、
歴代の当主は代々「浅右衛門」を名乗っている。
すなわち罪人の死体をつかって、
依頼を受けた刀剣の、試し斬りをおこなうことを家業としているのだ。
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七代目の「朝右衛門」である吉利は、
その日斬った人数ぶんだけろうそくを立て、
それが燃え尽きるまで酒を飲むことを日課にしていた。
罪人たちへの密かな供養のつもりであった。
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すっかり冷めてしまった燗酒を、すずの瓶子からそそいでいると、
きゅうに部屋の空気が変わったような気がした。
見れば、風もないのにろうそくの炎が揺らいでいる。
「……どうも今夜は出るらしいな」
吉利は、酒器を置いて息をついた。
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わきにある刀掛けから、そっと愛刀をたぐり寄せる。
加賀の名工、三代兼若が鍛えた業物だ。
三つ立てたろうそくのうち、真ん中の一本が、ごうっと炎の高さを増した。
それを見て、吉利がつぶやいた。
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「さては、あの若い女か……」
今日二番目に試し斬りをおこなったときの生白い肢体が、彼の脳裏によみがえった。
すでに首を打たれていたが、その女はあきらかに身重であった。
膨らんだ腹を両断したときの、なんとも言えない嫌な感触がまだ両手のうちに残っている。
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「一番会いたくないのが出てきやがるぜ」
はたして部屋のすみの暗がりから、肝の冷えるような女のすすり泣きが聞こえはじめた。
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ああああ、なんて口惜しい、恨めしいんでしょう
鉄くさい血のにおいが濃厚にただよってくる。
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吉利は、闇を見据えたまま不機嫌な声をはなった。
「そこでめそめそ泣かれたんじゃ酒が不味くてかなわん。
なにか言いたいことがあるなら聞いてやるから、こっちへ出てきやがれ」
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食膳をはさんで彼の真向かいに、忽然と女があらわれた。
やはり刑場で二つにした女だった。
あさぎ色の襦袢を血でまっ赤に染め、
うつむいた顔に長い黒髪をべったりと張りつかせている。
その凄惨なすがたは、幽霊の出現に慣れっこのはずの吉利さえも青ざめさせた。
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「ふん、聞くところによるとおめえは、奉公先のだんなに毒を盛った悪女だそうじゃないか。
恩を仇で返すようなまねをしたんだ、
死罪になっても文句の言える筋合いじゃあるめえ」
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あたしはやっちゃいないよ
女は泣き濡れた顔で吉利を見あげると、
血を吐くように嗚咽しながら言葉をつないだ。
紙のように白い顔面のなかで、目だけが充血して赤く澱んでいる。
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みんなおかみさんの仕業だ
あたしにだんな様のお手がついたのを許せず
夕餉の膳に一服盛りやがったのさ
しかもその罪をぜんぶあたしになすりつけやがって……
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この時代の犯罪捜査というものは、とにかく犯人に自供させることを目的としていた。
容疑者として目をつけられたものは激しい拷問を受け、むりやり罪を白状させられてしまう。
当然、冤罪も相当な数あった。
人権思想の発達した現代では考えられない乱暴なやりかただが、当時はそれがあたりまえだったのだ。
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いちいちそんな不平を聞かされたのではたまらないと思い、
吉利はあえてつき放すような口調で言った。
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「そりゃ気の毒なこった。
まあ、化けて出ようって了見になるのも分からなくはねえ。
だがよ、詮議したのは町方なんだぜ。
おれんとへこなんぞ寄らねえで、まっすぐそっちへ行きゃあいいじゃねえか」
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あたしを責め問いにした十手持ちにはあとで祟ってやるさ
もちろんおかみさんにもね
でもそのまえに……
女の目が、すうっと細くなる。
おまえに訊きたいことがある
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「なんだ?」
試し斬りにしたあと あたしの体からなにか盗んだろう
吉利は内心で舌打ちした。
「ああ、そのことか」
いつものことなので、悪びれる様子もなく言う。
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「肝臓と、胆嚢をいただいたよ。
塩漬けにするんだ。
あと脳みそも黒焼きにする。
みんな人胆丸という丸薬の原料になるんでな。
だが、これはお上の許しを得てやっていることだ。
だれにも文句を言われる筋合いはねえ」
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ひどいことをおしじゃないか
「ふん、おれたち山田のものはその稼業ゆえに未来永劫、血の穢れを背負うことになるんだ。
これくらいの役得がなくちゃ、やってられねえよ」
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……ところであたしの赤ちゃんはどうした
「腹の子か?
それならおまえを胴斬りにしたとき一緒に死んだはずだ。
仕方ねえだろう、産み月に満たない子どもは母親の命と一蓮托生だ」
そんなことを訊いているんじゃないよっ
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音もなく、女が立ちあがった。
眼球がこぼれるほど見開いた目で、じっと吉利のことを見おろしている。
あたしの赤ちゃんの亡骸をどこへやったかと尋ねてるんだ
よもや、おまえ……
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とても女とは思えない低くドスの効いた声だ。
吉利は、こういうとき見せる悪ぶった笑みを顔に張りつけ、
挑むような口調で言い返した。
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「がきの死体なら、胎盤と一緒に麻のふくろに詰めて、この家の軒に吊るしてあるぜ。
人胞という薬の原料になるんでね」
な、なんてことを……
女の全身がわなわなと震えだす。
彼女は、文字どおり血の涙を流していた。
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おのれえ 首切りあさえもん おまえそれでも人間かっ
あああ口惜しや 恨めしやな
この身のうちに宿りし怨念 晴らさずんばわが子の魂も浮かばれまいぞ
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とつぜん、女の体躯が倍くらいに膨れあがった。
振り乱した髪が、ろうそくの明かりを遮って障子にうねうねと長い影をつくる。
吉利は後じさって身構えると、刀の鯉口を切った。
刹那、女が獣のように咆哮しながら襲いかかってきた。
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抜きつけの一閃が、灯火を跳ね返してギラッと輝く。
手応えはなかった。
だが、さすがにひるんだのか、女は一歩退いたようだ。
吉利は半身になると、剣を八双に構えなおした。
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愚かなりあさえもん 怨霊が刀で斬れると思うたか
ケタケタと女が笑う。
応じて吉利の目が、一切の感情を排した半眼になった。
試し斬りをするとき見せる、いつもの目だ。
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「わが試刀術は、この一剣に全霊をこめてすべてを両断する。
二つ胴だろうが、三つ胴だろうが、怨霊だろうが、
なんでも斬ってやるさ」
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面白い やってみな
胸のまえにだらりと垂らした女の十指から、にょきにょきと長い爪が生えてきた。
先端がどれも小刀のように研ぎ澄まされている。
覚悟するがいい
その体ずたずたに引き裂いて あたしがされたように腹わた引きずり出してくれるわ
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女の影がぬっと膨れあがり、天井から覆いかぶさってきた。
同時に、吉利は一歩踏み込んでいた。
びゅっと風を切って剣が振りおろされる。
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今度はたしかに斬ったという感触があった。
その証拠に、ぎゃっという悲鳴があがった。
青白い人魂がすっうと尾を引いて、天井の暗がりへ吸い込まれてゆく。
同時に、女の姿は一瞬でかき消えていた。
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吉利は納刀すると、静かに息を吐いた。
女が立っていたあたりを見おろす。
床に、両断された護符が落ちていた。
そっと拾いあげてみると、それは入谷にある日蓮宗の寺のものだった。
本尊は、鬼子母神である。
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「こいつが、怨霊の正体だったのか……」
わが子の供養のために女が隠し持っていたのを、非人どもが取り忘れたのであろう。
こういうものには、得てして死者の情念が宿るものだ。
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吉利は、手のなかの護符を火鉢へ放った。
めらめらと炎があがり、まるで女の髪を焼いたようないやな臭いがした。
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「ちくしょう、なんだか冷えてきやがったな」
彼はぶるっと身を震わせると、綿入れのまえをかき合わせた。
膳のまえにすわりなおし、残っていった酒を一気にあおる。
胃が、ぎゅっと縮むほど苦い酒だった。
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「まったく、嫌な稼業だぜ——」
鼻のつけ根にしわを寄せて、酒くさい息をつく。
見れば、仏壇のろうそくはいつの間にか三本とも燃え尽きていた……。
作者薔薇の葬列
イメージ的には「御家人斬九郎」みたいな感じでww