長編10
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香港

俺がまだ都内のアパレル会社で働いていた頃の話。

その年は猛烈に忙しかった。

というのも、社長が香港に住居を構えてしまったからだ。

日本が急に嫌になったのか、ただの税金対策かは知らないが非常に迷惑極まりない。

いや、迷惑どころの騒ぎではない。

重要な決済もプレゼンも会議に至るまで、わざわざ香港に行かなくてはならないのだ。

月に1回か2回は香港に飛んだ。

通常の出張も行かなくてはならないので、今週は香港、来週は岡山、次の週はベトナムに行ってから香港経由で帰国。

とまあ、大袈裟ではなく一年の半分くらいは家に居なかった気がする。

パスポートのスタンプ欄はあっと言う間に一杯になり、増刷して貰う事になった。

この歳になるまで知らなかった。増刷なんて出来るんだ。

いつ呼び出されても行けるように、パスポートを常備するのが俺の部署では当たり前になった。

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余談だが、当時香港へ日帰り出張したことがある。

「このデニムを作ったのは誰だー!!」

海原雄山ばりの剣幕で呼びつけられた俺は、次の日の朝イチで成田から香港へ飛び立った。

今は羽田からも香港便があるようだが、当時は成田からだった。

支社に着くなりボロクソに詰められ、挙げ句灰皿を投げつけられて支社を後にした。

運転手のお兄ちゃんが慰めてくれたが、泣きそうになった。

そのまま空港へ向い税関へ。

税関のおじさんはスタンプ欄を見て

「え?お前さっき着いて今帰んの?」

といった顔をして、俺は別室に連れて行かれた。

荷物チェックをされるが、殆ど何も持っていない俺を良からぬ物の運び屋とでも思ったのだろう。

色々と質問された。

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「YOUは何しに香港へ?」

「仕事の打ち合わせ。」

「日帰りで?どんな打ち合わせ?」

そんな事聞かれても困る。

まさか灰皿を投げつけられに、と言うわけにもいかない。

が、無理も無い。

長髪で髭面の男が殆ど手ブラで日帰りで香港へ、パスポートのスタンプ欄は香港をはじめ怪しげなアジアの国で一杯である。

怪しいと思うに決まっている。

俺が税関でもそうする。

いっそ入国拒否でもしてくれないかな。

そしたらもう来なくて済むのに。

俺は割と本気でそう思った。

そんな訳で俺は香港にいい思い出がない。

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本社からは三人が香港へ出向していた。

顔だけ有能オールドマン課長。

スタイルだけ抜群ハジメさん。

憑いてる男民生くん。

のトリオである。

出向が決まった時はまさか社長まで来るとは思わなかったのだろう。

「こんなはずじゃなかった…」

お気楽出向のはずがとんだ最前線に送られた彼等の顔はカサカサにひび割れ、さしずめ活ける屍の有様だった。

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その日も俺はアホほどサンプルを詰め込んだスーツケースを引きずり香港へ降り立った。

いつ来ても暑い。

同行者は同じ課のお祭男、大吾さんである。

大吾さんのスーツケースもパンパンだ。

中身は俺と同じようにサンプルや決済待ちの重要書類だ。

毎週のように誰かしら香港に行くのだが、その度にここぞとばかりに決済が必要なものを持たされる。

もやは下地が何色だったか解らないほどベタベタとステッカーの貼られたRIMOWAのスーツケースからは

「こんなはずじゃない!俺は可愛い女子大生とパリやニューヨークに旅行する為に産まれて来たんだ!」

という無念の叫びが聞こえてくるかのようだった。

ちなみにスーツケースはRIMOWAが最高である。

ここまで酷使されても壊れる気配が全くない。

以前使っていた私物のスーツケースはあっと言う間におしゃかになった。

勿論俺のスーツケースもRIMOWAである。

が、私物ではない。

殺人的に繰り返される香港との往復の為、会社が用意して貸し出してくれたものだ。

何度も香港へ飛ばなくちゃならない航空費も含めて、うちの会社は金の使い方がおかしい。

こんなの用意しなくていいから給料上げてくんないかな。

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支社に着く。

外は茹だるような暑さだが建物内は寒い位に冷房が効いている。

香港人はエアコンが空気も綺麗にしてくれると信じてやまないのか、常時ガンガンに冷房を効かす。

湿度が高いのでエアコンは加湿器かと思わんばかりに霧を吐く。

エアコンの下には垂れる水を吸う為のタオルが山積みになっているのがデフォルトである。

そのうちに雲が発生して室内で雨が降り出すのではと半ば本気で心配してしまう。

そんな湿度の中、カサカサの顔の民生くんとハジメさんが現れた。

オールドマン課長はまだ出社していないらしい。

室内の積乱雲から雷でも落ちればいいのに。

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早速社長へのプレゼン準備をする。

前述のように社長は怖い。

体育教師の怖さというよりは野生動物を相手にするような怖さがある。

人語を操り予測不可能な指示を出す、人の理が通用しない化物である。

社長の怖いエピソードを挙げていくと一冊の本が刷れる程の量になるが、怖いの種類が変わってしまうので割愛させて頂く。

視えないが民生くんの落ち武者もここでは大人しくしているはずだ。

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地獄のようなプレゼンが終わりランチタイムになる。

湿度ではなく全身から出た嫌な汗でビショビショになった俺と大吾さんは、虎の檻から這い出した。

五体満足だろうか?

足や手を持っていかれてないだろうか?

髪の毛は?ごっそり抜けてないか?

俺と大吾さんはお互いの身体の無事を確認して息を吐く。

緊張が解けてホッとしたのか大吾さんは

「ちょっと吐いてくる。」

と言い残しトイレに消えた。

先に行かれた。我慢しよう。

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午前の部は終了。

午後は他部署の案件の確認になるので多少は気が楽だ。

山場は越えた。

俺達は昼飯を食べに外へ出た。

いい思い出はまるで無いが、香港は住みやすい所だと思う。

物価は安くはないが、飯は美味いし交通の便もいい。

治安も悪くはない。

夜中に一人で酔っ払ってタクシーに乗っても無事目的地まで届けてくれる数少ない国の一つだ。

まあ日本が異常に良いだけなんだが。

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4人で大通りを歩き、人混みの交差点で信号を待つ。

こうして見ると渋谷や新宿のようだ。

ふと反対側に目をやると女の子が一人、ピョンピョンと飛び跳ね大袈裟に手を降っている。

明らかに周りから浮いたその姿に、

幽霊か?

俺だけに視えてんじゃないだろうな?

と思い3人を見ると、皆不思議そうに彼女を見ていた。

どうやら人間らしい。

信号が変わると彼女はまっしぐらにこちらに走って来て、俺に飛び付いた。

驚きながらもよく見ると、学生時代の友人だった。

信号の向こうに俺を見付け、間違いないと走って来たらしい。

聞くと今は仕事で香港に住んでいるとの事。

お互いの近況をしばし報告し合い別れた。

ビックリした。

こんなとこで合うなんて。

世間は狭い。

他の3人は、

「▲くんが、キ○ガイに刺された!!」

と思って動けなかったらしい。

相変わらず薄情な連中だ。

ちなみにこの時再開した女の子が、後の俺の嫁である。

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という事はまるでない。

一回きりの登場だ。

思い出したので書きたかっただけ。

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香港に来るとよく行く店で昼食。

民生くんが久しぶりに日本食が食べたいと駄々をこねるが、却下。

聞くとカレーが食いたいだけだった。

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食べ終わり支社に戻って午後の部開始。

特に何事もなく終了。

決まった案件をまとめて日本に報告。

駄目だった方の案件の検討ミーティング、今後の確認。

あっと言う間に夜になった。

いつの間にか現れたオールドマン課長が、夜は社長も交えて皆で食事。と余計な案を出すが丁重に断る。

明日は大吾さんは上海に向い、現地で部長と合流。

俺は煙台という所に行くので別行動となる。

折角なので民生くんとハジメさんも合わせて4人で食事となった。

4人で先月部長が来た時の話で盛り上がる。

これはこれで面白い話だったのだが、長くなるので割愛。

食事の後、どうしても行きたいと言い張る大吾さんを連れてハジメさんはマカオに渡った。

「肉欲」

という字をでかでかと貼り付けた顔を俺と民生くんは見送る。

オカマにでも当たればいい。

マカオのオカマ

史上最もどうでもいい回文を胸に俺達は帰路についた。

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本来なら出張者用に契約している部屋があるのだが、今回は民生くんの住むマンションが宿泊先だ。

というのも香港に来る人数と頻度が激増した為、会社が新たにいくつかのマンションを契約中だった。

本来はそこに泊まる予定だったのだが、社長が無駄にこだわりを見せた為、まだ内装工事が終わっていなかったのだ。

それならホテルを手配してくれても、と思うのだが流石は我が社。

何故かここだけ経費削減された。

なんで?

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香港の建物は高い。

地震がないからだろう。40階50階建ては当たり前だ。

民生くんとハジメさんもマンションも確か60階くらいあったかと思う。

同じ形のマンション郡の一つだ。

確かA棟からE棟まであった。

その鉛筆のうちの一本が民生ハジメ棟で、そのうちの一本が俺ら出張者用の棟だったと思う。

もう住所もマンション名も覚えていないが、

今、香港に行っても部屋まで辿り着けるかもしれない。

そのくらい身体が道順を覚えている。

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民生くんの部屋に着く。

寒い。

エアコンつけっ放しだな?

全部会社持ちだからって節約は大事だぞ。

と先輩らしい事を言うと、

「エアコン?つけてませんよ?」

嘘つけ。

「香港の人、ガンガン冷やしますからね。

他の部屋が冷えてるからここも冷えるんじゃないですかね。」

ああ、なるほど。

上下左右の部屋は鮮魚の冷凍倉庫か。

アホか。そんな理由があってたまるか。

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アホの意見はさておき、この室温は異常だ。

なんか居るんじゃないか?

俄然不安になってくる。

落ち武者はどうした?

仮に幽霊かなんかが居るにしても、あの落ち武者が黙っているはずがない。

まさかやられたのか?

あの落ち武者を倒す程の存在の可能性に、俺は怖くなってくる。

そんな俺の心配をよそに、民生くんは

「もう飲んだりしないですよね?

シャワー適当に使って下さい。

明日8時にはここ出ますから。それじゃ。」

と言って寝室に引っ込んだ。

俺はソファにタオルケットで寝ろという事らしい。

先輩に対しての扱いが雑である。

まあ、俺のベッド使って下さいと言われても困るのだが。

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しようがない。

寒くて寝られるか不安であるが寝るしかない。

俺は諦めてソファに転がった。

このソファ合皮だな。社長に言って変えて貰え。

ペタペタして寝辛い。

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明日は支社に寄ってからすぐに空港に向かう。

出来れば何事もなく朝を迎えたい。

が、俺の希望は勿論無視された。

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夜中に足先の冷えで目が覚めた。

目が覚めると駄目だ。

ペタペタの合皮が気になって眠れない。

窓の向こうには知らないおじさんの姿もある。

おじさん?

誰だ?お前。

おじさんは音もなく室内に侵入して来た。

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おーい。民生くーん。誰か入って来たよー。

めちゃくちゃ怖いんだけど。

絶対に人じゃない。

人でも怖い。

幸い金縛りではないので体は動く。

でも動けるからってどうすることも出来ない。

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どうすりゃいいんだろう。

電気点けようかな。

でも電気点けても居たらやだな。

そう思っていると、寝室の方で何かが動いた。

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落ち武者だ。

やられてなかったんだ。

久しぶりの落ち武者の姿にホッとする。

わけがない。

相変わらず怖い。

恐らく生きている時も、死んでからも沢山斬り殺してきただろう殺人狂の顔だ。

その顔がおじさんを睨んでいる。

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おじさんも負けじと睨み返す。

俺は完全に蚊帳の外である。

日本の武者と香港の達人の戦いである。

俺は目の前で繰り広げられるであろう死闘に胸を躍らせた。

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落ち武者が動いた。

目にも止まらぬ速さで刀を抜くと、一気に間合いを詰めおじさんに斬りかかる。

おじさんはその刀を紙一重で避けると、気を溜めた掌底を繰り出した。

落ち武者も受け流す。

俺は達人たちの無駄のない動きに目が離せない。

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嘘である。

落ち武者もおじさんも睨みあったまま動かない。

俺は最初こそ固唾を飲んで見守っていたが、何も起きない現状に次第に飽きてきた。

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よく考えてみれば別に落ち武者が勝とうが、香港のおじさんが勝とうが俺には関係ない。

会社の幽霊も解決済みである。

もうここに泊まる事も無いだろうし、異国の地でゴジラとキングギドラが戦おうが知ったこっちゃない。

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なんだか馬鹿らしくなってきたので俺は寝返りをうち無視を決め込んだ。

もう、なんだよこのソファ。寝苦しいな。

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浅い眠りと覚醒を繰り返すうちに朝になった。

もう落ち武者もおじさんも居ない。

シャワーを浴びて出てくると民生くんも起き出した。

俺は昨夜の事を民生くんに教えてやった。

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「そんな事になってるんですか?ここ。

どっちが勝つのかな、気になるなあ。

あ、でも落ち武者に勝って欲しいですね。

香港人のおじさんよりは、落ち武者が憑いてる方がいいですよね。」

知らねえよ。

そもそもなんで勝った方が憑いてくる前提なんだよ。

悪霊のカリスマかお前は。

取り敢えず涼しくて助かるという、カリスマの意見を無視して俺は部屋を出た。

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支社で合流したツヤツヤ顔の大吾さんと、同じくツヤツヤ顔のハジメさんに別れを告げ、俺は忌まわしき香港を後にした。

決着が着いたのかは解らないが、日本に帰国した民生くんには相変わらず落ち武者が憑いていた。

あの後、あそこでどのような戦いが繰り広げられたのかは誰も知らない。

別に知らなくてもいい。

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それからも何度も香港には行ったが、民生くんの部屋に泊まる事は二度となかった。

俺達は新しく契約したマンションに泊まった。

社長が無駄にこだわった内装は、なるほどなかなかにお洒落だった。

だが、室内に置いてあるソファは合皮だった。

家具にもこだわってくれよ社長。

合皮のソファ嫌いなんだよな。

Concrete
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@カイト 様
コメントありがとうございます。
信じられないでしょ?
本当なんですよ。
当時は面倒くせえなあ。なんて思ってましたが異常ですよね。
そのうちに社長はN.Yに引越しました。
流石にその時は社長を退いて会長でしたが…
それでも役員は年に何回かはN.Yに飛んでましたよ。

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