ある男性から聞いたお話です。
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彼、今は普通に働いてアパートで独り暮らしをしているんですが、以前2年間だけ路上生活をしていたそうなんですね。
仕事も住む場所もなく、駅前の地下道で寝泊まりしていたそうです。
もちろん冬場は冷え込みますし、ガラの悪い連中にからまれたことも何度もありました。
そんな辛い生活を送っていて、身体的にも精神的にも日に日に弱っていったんですね。
そのうちに地上に出るのも嫌になって、地下道から出るのも3日に1度とかどんどん減っていったそうです。
路上生活も1年以上続いて希望もないし、もうこのまま死んでしまおうかなんて考えていたらしいんですよ。
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その日も終電が発車する音と振動を感じ、彼は毛布にくるまりました。
今日も何もしなかった。死のうとすることもなければ生きようとしたわけでもなかったと、どうしようもない虚無感を抱いて目を閉じました。
しかし、一日中座って何もしていなかったため寝ようとしても寝られません。
悔しくて涙が流れました。
明日こそは死のう、明日こそは死のうと自分に言い聞かせてひたすら夜が明けるのを待ちました。
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何時間経った頃でしょうか。
静かな地下道に突然、何者かの足音が聞こえてきたそうです。
カーン……コーン……カーン……コーン……
どうやらヒールを履いた女らしい。
それも1人で歩いているようなんですね。
終電もとっくに行ってしまっているわけですから、どうしたんだろうなぁ、この近くに家がある人なのかなぁなんて気になったそうなんですよ。
さっきまで死のう死のうと思っていた彼ですが、なにしろ何もない生活だったのでちょっとしたことが気になったんですね。
でもやっぱり、タチの悪い酔っ払いだったら嫌だなぁ、こっち来ないでほしいなぁとも思ったんですね。
カーン……コーン……カーン……コーン……
でも、どうやら足音は彼の方に向かっているようだったんですね。
ゆっくりですがヒールの音が近づいて来る。
うわ何だろうなぁ、面倒な奴だったらどうしようなぁと思って毛布を頭から被りました。
カーン……コーン……カーン……コーン……
地下道に響く足音がどんどん近くなってきました。
カーン……コーン……カン……コン……
カン……コン……カン……コン……
カンコン……カンコン……
もうすぐそこまで来てる。何だ何だ何だ?
横向きに寝ていた彼は腕で毛布を少しだけ持ち上げ、通り過ぎる人物を確認しようとしました。
カンコン……カンコン……
黒いハイヒールを履いたちょっと太めの脚が、ゆっくりと彼の横を通り過ぎて行くのが見えました。
どうやら中年の女らしい。あー、そんなにヤバい人じゃなさそうだな、いや良かったぁなんて安心したんですね。
その人を驚かせないよう、彼女が完全に通り過ぎてから毛布を捲って後ろ姿を確認したんです。
そしたら彼、目を真ん丸くして驚いたそうなんですよ。
その今通り過ぎた中年の女性、服装は普通の主婦のような格好してるんですが、背中に羽が生えてたって言うんですよね。
白のような灰色っぽいような鳩に似た羽が、その女性の背中にあったらしいんですよ。
広げたら3メートルくらいありそうな大きな羽だったそうです。
彼もさすがに自分の目を疑ったらしいんですが、何度目を擦ってもその羽の生えた女性が見えたんですよ。
身長は低めで、体型は少しふくよかなくらい。髪は白髪混じりの茶色で、どこにでもいる普通の中年女性。そんな普通の女性に羽が生えている。
何もできずに固まっていると、女性はそのまま階段を上がって地上に出て行ってしまったそうなんです。
再び地下には静寂が戻り、彼はまた独りになりました。
今のは何だったんだ?
何だあの女、人間か?
驚きはしましたが怖いとかそういう感じはまったくしなかったそうです。
しばらくは女性のことを考えていたんですが、だんだん目蓋が重くなってそのまま眠ってしまったらしいんですね。
次の朝目が覚めると、なんだか身体が軽い。気分もスッキリして、昨日死のうとしていたこともばからしく感じたそうなんですよ。
でも昨日見たあの中年の女の人は何だったんだろう、夢じゃなかったよなぁ……なんて思っていると、地下道に顔見知りのおじいさんが入ってきたんですよ。
そのおじいさんというのは、彼が路上生活を始めた頃から良くしてくれていた、同じく路上生活者の方だったんですね。
おじいさんは彼を見ると、「これはどうも、おはようございます」って挨拶してきたんです。
彼も、「あ、おはようございます」って返したんですね。
そしたらおじいさん、「何かいいことでもありましたか?」って聞いてきたんですよ。
当然、「えっ?」って聞き返しますよね。
おじいさんが言うには、彼その時すごくニコニコしてたらしいんですよ。自分では気づいてなかったんですがね。
あ、もしかして昨日のあれが原因かなって思ったんで、おじいさんに話してみたんですよ。
「信じてもらえないかもしれませんけど……」って前置きしてから、実はこうこうこういうことが昨日あったですよって自分がした体験を話したんです。
そしたらそのおじいさん、「そうですか、それは良かったですね」ってだけ言ってまたスタスタどこかへ行ってしまったんですよ。
でもその話を聞いていたおじいさんも、なんだか自分のことのようにニコニコして聞いてくれていたそうなんですね。
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そんな出来事があってから彼は人が変わったように必死に職を探して、何個もアルバイトを掛け持ちして、やっと今の仕事に就けたんですよ。
彼はあの中年の女の人が自分を引っ張りあげてくれた、あの人がいなかったら自分は次の日死んでたって言うんですね。
もちろん彼、薬に手を染めたことはありませんし、お酒なんかもずっと飲んでなかったので自分は確かに見たっておっしゃってるんですよ。
背中から大きな鳩のような羽を生やした、中年の女性。
彼ね、私にこの話をしてくださった時終始ニコニコしてたんですよ。
そしてその笑顔のまま、話をこう締め括ったんです。
「あのおばちゃん、本物の天使だったのかなぁ。でも天使って、もっとスラッとしてる若い娘だと思ってなぁ」
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ちょっと不思議なお話ですよね。地下道を歩く中年の天使。
彼が見たものはただの夢だったのか。
極限状態から来る幻覚だったのか。
それとも、本当に地下道に天使が現れたのか。
何にせよ、彼は深夜の地下道で出会った何者かがきっかけで今も生きています。
作者千月
人生何があるかわかりません。
死にたくなるほど辛いこともあれば、ちょっとしたことがきっかけで救われることもあります。
今回はそんな、人生が変わった男性のお話です。