明治三十四年の秋、白鳥明夫(しらとりあきお)は明星新報の二代目社長に就任した。
創始者である新(あらた)はまだ五十前の若さだったが、隠居すると宣言した後は山間の別荘に引っ込んでしまい、ハツヱたちの前に姿を見せることはほとんどなくなってしまった。
社長になっても明夫の優しさや穏やかさは変わらなかったが、どこか表情に陰りが見えることが増えた。
社長の重圧がそうさせるのだろう。せめて家にいるときくらいは穏やかに過ごしてもらいたい、とハツヱは心を砕いたが、彼女は彼女で悩み事があった。
ハツヱは毎朝、明夫を仕事に送り出した後、義両親のいる母屋へ赴き挨拶と御用伺いをする。大抵はなにも言いつけられることなく挨拶だけで帰るのだが、最近は姑から「そろそろ孫を抱きたいわねぇ」と横目で見られることが多くなった。
以前はトゲ程度だったその言葉が、結婚から三年が経った今ではグサリと音を立てて突き刺さる。
重い足取りで母屋から戻ってくると、ちょうど洗濯物を干そうと出てきたみのと顔を合わせた。
「ハツヱねえさん、大丈夫ですか?」
ハツヱの表情を見てだろう、みのは気遣ってそんな言葉をかけてくれた。
初めて会ったときは、いかにも田舎娘といった風だったみのだが、この数年で雰囲気も言葉遣いもすっかり垢抜けた。まだまだ子供の域は出ないが、それでもまるで露を抱いた蕾のようなみずみずしさを秘めた少女へ成長しており、ハツヱはそれを誇らしく思っていた。
しかし、そんなみのの表情も今日は暗く沈んでいる。
「私は平気よ。それより、みのちゃんこそどこか悪いんじゃないの? 顔色が悪いわ」
ハツヱがそう言うと、みのは顔を伏せた。
「すみません。実は最近、ちょっと夢見が悪くて」
「夢? どんな夢か、話してごらんなさいな。悪い夢は口に出したほうがいいって言うわ」
促され、みのは洗濯物を干しながら話し始めた。
「最近、頻繁に見る夢なんですが。夢の中で、なんだか私は暗い部屋にいるんです。一寸先は闇、という言葉がぴったりの、暗い部屋です。でもそのうち、向こうの方がボゥっと明るくなって、そこには女性が二人、立っているんです」
「どんな方なの?」
「お一人は、私より少し年上くらいの若い方。女学生さんのような格好をされています。もう一人は、四十代くらいのご婦人です。二人は親子なのかしら、並んでじっと私を見ているんです」
「みのちゃん、その方たちに心当たりはあるの?」
「いえ、さっぱり。……でも」
みのはそこで言葉を切り、あたりを憚るようにキョロキョロと見回すと、いっそう声を落として言った。
「……若い方の方を、さっき見かけました」
「あら」
やっぱり、どこかで見かけた印象深い方だったのよ。ハツヱはそう言おうとして、みのの次の言葉に凍りついた。
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「私の部屋の押入れの下の段で、座ってこちらを見ていました」
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「……え?」
「泥棒とか、そういうのではありません。私と目があってしばらくして、消えてしまいましたから」
「ゆ、幽霊…ってこと?」
ハツヱの声が震える。みのが「そういったもの」を見ることができることを、当たり前の生活の中ですっかり忘れていたのだ。
「もう、亡くなっている方なのだとは思います」
「それは…もしかして以前言っていた、裏の納屋にいるものなの?」
ハツヱが恐る恐る訊くと、みのは首を振った。
「それは違います。納屋にいるものほど、恐ろしくは感じません。なにか訴えたいことがあるのだろうとは思いますが、それがわからないんです。私は本当に、見えるだけで…」
みのはそう言って、深くため息をつく。
ハツヱは、その細い肩を抱いてやることしかできなかった。
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それから、みのは日に何度もその少女の霊を目撃しているようだった。
ハツヱを怖がらせまいとするのか、見えていると口にすることはない。ただ、ふとした時に不自然に動きが止まるので、そうなのかとハツヱも察することができた。
たとえば朝食時に漬物に伸ばした手が止まったり、玄関で履物を片足だけ履いた状態で動かなくなったり。床の間の花を生けている途中、座敷を掃きながら、ハツヱとおしゃべりをしている最中でも、とにかく昼夜も場所も問わずだった。
みのが始終うつむいて過ごすようになるのに、時間はかからなかった。ハツヱが心配すると「いっそ目を瞑って過ごしたいくらいです」と笑ってみせたが、無理をしていることは明白でかえって痛々しかった。
一度ハツヱは、廊下の隅の暗がりに話しかけるみのを見たことがある。
「言いたいことがあるなら、言ってください」
強張った顔にいつになく強い口調。しかしその声は悲鳴のようだった。みのはしばらく一点を見つめた後、ヘナヘナとその場に座り込んで大きなため息をついた。
みのが見つめていたその暗がりに、ハツヱはなんの姿も見つけることもできなかった。
ハツヱは何度か、みのにこのことを義両親に相談するよう勧めてみた。もしかしたらなにか知っている可能性もあるし、お祓い等してくれるかもしれない。
しかし、その度にみのはそれを拒んだ。自分の不思議な力について、知られたくないというのだ。
それは、気味悪がられるのを嫌がるのではなく、そのことでみのの実家になんらかの害が及ぶことを危惧しているからだった。
その気持ちがわかる分、ハツヱもそれ以上は強く言うことはできなかった。
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年が明けた明治三十五年。最近明夫は仕事が忙しく、帰宅は日付が変わってからということも稀ではなかった。
この夜も、壁の時計がもうすぐ十二時をさすのを見て、ハツヱはもう少し待とうかそれとも先に休もうか、迷っていた。
その時だ。
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「きゃあああああぁぁぁ‼︎」
ものすごい悲鳴が聞こえた。みのの部屋からだ。
「みのちゃん⁈」
急いでみのの部屋に駆け込むと、みのは布団の上で上体を起こし、両肩を抱いてガタガタと震えていた。
「大丈夫⁈ 怖い夢でも見たの?」
ハツヱが触れたみのの手は、驚くほど冷たくなっていた。みのは首を振り、涙で喉を詰まらせながら言った。
「だ、誰かがっ、部屋の中に」
「え?」
「わたしを、の、のぞき込んでいたんです!」
ハツヱは慌てて室内を見回す。しかし、薄暗い中でも自分たち以外の人影がないことは明らかだったし、満足に隠れるような場所もなかった。明かりを灯し、押入れの中から天井の隅まで照らしたが、やはり誰もいない。
「みのちゃん、誰もいないわ。怖い夢を見たんじゃ…」
「違います!」
みのの涙で濡れた目は、恐怖で血走っていた。
「あれは夢なんかじゃないし、人間でもない。ハツヱねえさん、本当なんです」
「みのちゃん、わかったわ。わかったから、落ち着いて」
「あれは、きっと裏の納屋にいるものです。夜の闇より黒いものが、大きな目で私を見ていました。ハツヱねえさん、怖いんです。私きっと、あれに殺されてしまう…!」
みのはほんの小さな子供のように泣きじゃくり、ハツヱの寝間着の袖を離そうとしなかった。
ようやく落ち着いた、というより泣き疲れて眠ってしまったのは、一時間ほど経ってのことだった。
みのの頬の涙を拭ってから、ゆっくりとハツヱは部屋を後にする。なんだかドッと疲れていた。
ちょうどそのとき、明夫が帰宅した。ハツヱは早速今しがたのことを伝えようとしたのだが、
「悪い、ハツヱ。今日は本当に疲れているんだ。明日にしてくれないか」
明夫はハツヱの顔も見ず、寝室へと直行してしまった。
「もう」
憤慨しつつ、ハツヱも布団へ入る。
明日になったら朝一番に、義両親にみののことを相談しよう。彼女の不思議な力のことは伏せて、夢見が悪く悩んでいるようだから、お祓いをしてもらえないだろうか、と。
正直なところ、ハツヱはみのの言う「少女の霊」や「裏の納屋のなにか」が、本当にいると信じているわけではなかった。みのはいつもなにかに怯えているが、見えないハツヱには実感が湧かないのだ。初めの方こそみのの言動に一緒になって恐怖を感じていたが、最近は慣れもあってか少し懐疑的になっていた。
みのの怖がりようを見ると、嘘をついているとは思えない。ただ彼女自身の思い込みや気の迷いから、恐ろしいものを見ているのだと言われた方が、ハツヱとしては納得ができた。
もしそうなのであれば、神職を呼んで形だけでもお祓いをすれば、みのの気持ちも落ち着くかもしれない。
なんにしても、このままではみのが保たない。
みのを守ってあげられるのは自分だけなのだと、ハツヱはそう言い聞かせながら目を閉じた。
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次の朝目覚めると、隣の布団に明夫の姿はなかった。鞄や靴もなくなっていたから、もう仕事に出たのだろうと思われた。
遅くなることはあっても朝早いことは今までなかったし、ハツヱになにも言わず出ていくのも不自然だった。昨夜の様子から、もしかしたらなにか仕事上の問題が生じているのだろうか。
ハツヱは首を傾げながらも、朝食の支度に取り掛かった。
今朝は、いつもハツヱより早く起きて台所にいるみのの姿もなかった。
昨夜のこともあるし、もう少しゆっくり寝かせてあげよう。明夫さんもいないことだし。そう思いながら、ハツヱもいつもよりはのんびりと準備をし、食卓が整ってからみのの部屋へ向かった。
「みのちゃん、朝食ができたわよ」
襖越しに声をかけるが、室内から応えはない。ハツヱは首を傾げもう一度呼びかけたが、やはり襖の向こうは静まり返っていた。
「みのちゃん? 開けるわよ」
妙な胸騒ぎを覚え、ハツヱは襖に手をかけた。襖はなんの抵抗もなく開いたが、室内にみのの姿はなかった。
「みのちゃん…?」
中央には布団が敷かれたままだった。枕元には、次の日着ようと思っていたであろう衣類が、丁寧に畳まれて籐籠の中に収まっている。
布団に乱れたあとはなかったがひんやりと冷たく、みのがいなくなったのは今しがたのことではないと物語っていた。
ハツヱの脳裏に、昨夜のみのの姿が浮かぶ。
『私きっと、あれに殺されてしまう…!』
ハツヱは弾かれたように部屋を飛び出した。
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「すみません、みのちゃんはこちらにいますか⁈」
母屋に飛び込むと、姑が驚いた顔で玄関に出てきた。
「まぁまぁハツヱさん。どうしたっていうの?」
「みのちゃんの姿が見えなくて。こちらに来ていませんか?」
「来てないわよ。散歩にでも出てるんじゃないの?」
「でも、着物も履物も家に残ったままなんです」
姑は、なにをそんなに騒いでいるのか、と怪訝そうな顔をしている。自分でも説明のつかない不安に襲われるハツヱは、その態度に苛立ちを覚えた。
「なにかあったの?」
そこにやって来たのは治彦だった。学帽に袴姿、雑嚢を斜め掛けにし、これから登校らしい。
「あぁ、治彦。いってらっしゃ…」
「治彦さん、みのちゃんを見ませんでした⁈」
姑を遮ってハツヱは治彦に詰め寄った。交流はほとんどないとはいえ、みのは治彦の許嫁だ。もしかしたら何か知っているかもと思ったのだが、
「みの…?」
治彦は首を傾げる。そして次の言葉に、ハツヱは愕然とした。
「…あぁ、みのか。いや、知りませんよ」
治彦はみのの居場所を知るどころか、みのの存在自体を忘れかけていたようだ。
━━いくら形だけの許婚とはいえ、あんまりだわ。
ハツヱは唇を噛みしめる。
姑は治彦を追い立てるように玄関の外に送り出すと、ハツヱに向き直り呆れたように口を開いた。
「みのさんだって子供ではないのだから、そんなに騒ぎ立てる必要はないでしょう。そのうち帰ってきますよ。それよりハツヱさん。そうやってみのさんにばかり構っていないで、自分の子供のことをもう少し真剣に考えたらいかが?」
ハツヱは目の前が真っ暗になるのを感じながら、なんとか頭だけを下げて母屋を後にした。
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自宅の玄関の上り口に腰を下ろし、ハツヱは頭を抱えた。目を瞑りゆっくり呼吸を数えて、気持ちをなんとか落ち着かせる。
姑や治彦の態度に自分たちの存在意義を問い質したくなるが、それに頭を悩ませるのはとにかく後だ。
今は、みのがどこにいるのかだけを考えよう。
確かに、姑の言うことにも一理あった。単なる気分転換に出歩いているだけかもしれないし、みのはもうそこまで心配するほどの年齢でもない。
しかしいくら自分にそう言い聞かせても、胸の中の不安は消えるどころかいや増すばかりだった。
にゃあ。
その時、ハツヱの足になにかが触れた。目を開けると、飼い猫のすず丸が長い尻尾を立て、じっとハツヱを見つめていた。
ハツヱは、このすず丸が子猫だったとき、いなくなるたびにみのが見つけてくれていたことを思い出す。
━━そうよ。今度は私が見つけてあげなければ。
ハツヱが立ち上がると、すず丸は当然のようにその足元に寄り添ってついてきた。
つい先日花の種を蒔いて芽が出るのを楽しみにしていた菜園、見た目にも涼しくて好きだと言っていた庭の隅のネムノキの周り。一の蔵、二の蔵、表の納屋。姑に見つからないよう身を低くして、母屋の周囲もぐるりと回った。
そして、みのが以前すず丸を見つけてくれた、離れに向かう渡り廊下。
そのどこにもみのの姿はなかった。
仮にただの散歩だとしても、寝巻きに裸足のまま敷地の外にまで出たりはしないだろう。みのはこの墨村家の敷地内にいる。ハツヱは強くそう感じていた。
渡り廊下の先には、今はもう誰も住んでいない離れがあり、その奥には「裏の納屋」がある。
義叔父が立ち入りを厳しく禁じていた納屋。
みのが「なにかがいる」と怯えていた納屋だ。
『私きっと、あれに殺されてしまう…!』
もう一度、昨夜のみのの言葉がハツヱの頭の中に鳴り響く。それは、納屋に近づいてはならないという警告にも思えた。
それでも、敷地内で探していないのは、もうあそこだけだ。
ハツヱは大きく深呼吸をして、ゆっくりと納屋へ近づいていった。
離れを外壁に沿って半周ほどすると、ごく当たり前の納屋の姿が目に入った。ところどころ隙間のあいた外壁に、板葺きの屋根。屋根には明り取りのためなのか天窓があり、中から外に向かって三十センチほど開いている。
「表の納屋」とほとんど変わるところはないが、一つだけ決定的に違うところがあった。
「なに、あれ……」
ハツヱは思わず呟く。
「裏の納屋」の入り口には、まるで財宝をしまってある蔵にするような、大袈裟な錠がかけられていた。それも一つだけではない。錆び付いたものから黒光りする新しいものまで、錠は少なくとも五つはあるようだった。
あんな納屋に、いったいなにを厳重に隠しているというのだろう。あんな薄い板張りの、隙間だらけの納屋に。
その異様な光景に、ハツヱは動悸が高鳴るのを感じた。それはハツヱだけではないらしく、さっきからすず丸が足元で尾を膨らまして唸っている。
この先は、本当に行ってはいけない。
すべての事柄が、ハツヱにそう告げていた。
それでも、ハツヱは震える足を一歩前へと踏み出す。
全身が近づいてはいけないと叫ぶ一方で、みのはこの納屋にいるという確信に近い思いが、ハツヱを動かしていた。
ほんの数メートルの距離を、ジリジリとかたつむりのような速度で進む。ようやく納屋の戸が目の前にきたが、錠に触れるのはどうにも恐ろしかった。
ハツヱは、壁にあいた隙間にそっと右目を近づける。
天窓が開いているはずなのに、中は真っ暗でなにも見えなかった。それでも目を凝らし瞬きを繰り返すうちに、壁に掛けられた農具や藁の山の輪郭がうっすらと見え始める。
やがてハツヱは、納屋の中央になにか黒い塊があるのに気がついた。
それは俵の山のようにも、太い注連縄をとぐろのように巻いて置いているようにも、あるいは巨大な鳥が卵を抱いているようにも見えた。
そしてソレは、小刻みに動いているようだった。
いくら目を凝らしても、ソレがなんなのかはわからない。しかし、ハツヱの耳はソレの立てる微かな音を拾った。
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クチャ、グチャ、ゴリ
柔らかく、硬く、水気のあるものを、咀嚼し啜る音。
ハツヱの体は、まるで子供がふざけて振り回す操り人形のように大きく震えていた。震える手が納屋の壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
納屋の中のソレの小さな動きが、ピタリと止まった。
━━あぁ、気づかれてしまった。
絶望感に目を閉じたときだった。
フーッッッ!!
ハツヱの少し後ろにいたすず丸が、火を噴くような勢いで唸った。
その途端、ハツヱは弾けるようにその場を逃げだした。
何度も転びそうになりながら、ようやく自宅の玄関の内側に飛び込む。鍵をかけると、涙が滝のように溢れてきた。
家に着いても、恐怖の波は収まりをみせなかった。いったいなにが起きたのか、さっぱりわからない。ただただ、恐ろしい。
しかし、もうみのには二度と会えないのだと、そのことだけははっきりとしていた。
作者カイト
「カラスと白・一」
http://kowabana.jp/stories/33331
「カラスと白・二」
http://kowabana.jp/stories/33348