死んだ妹の家を訪れてみた。
海辺を見下ろす小さな木造の貸家だ。白いペンキがあちこち剥げかかり、傷んだ木目からは隙間が覗いている。そこから吹き抜ける風が寂しい音を奏でていた。ドアには鍵が掛かっていなかった。中は荒らされた形跡があり、様々な調度品が床に散乱していた。それらを避けて足を運ぶたびに、ミシミシと床板が軋んだ。
妹が親元を離れたのは数か月前だ。母は私達が幼い頃に他界しており、父親と不仲だった彼女は、度々家出をしては警察に連れ戻されるという日々を送っていた。そして、高校を卒業すると同時に遠く離れたこの町に移ってきたのだ。この取り立てて何もない、廃れ行く僻地に。
尤も、彼女がここにいることを知ったのはつい二月ほど前のことだ。音信不通だった彼女から突然電話が入った時、私は思わず受話器を落としそうになったものだ。その時は何ということもない話をしただけだった。
次に電話があったのは一週間後であった。その時、自分がどこにいるかを話してくれた。
それからは週に一、二回電話がくるようになった。そして二週間前、前触れもなく彼女の訃報が届いたのだった。葬儀に立ち会ったのは私だけだった。彼女の死因は腹部の刺傷による失血死だった。犯人はまだ見つかっていない。
警察の聴取を上の空で終えた私は、その足で一人彼女の住んでいたこのあばら家同然の家に足を運んだ。
私とも縁を切っていたのに、なぜ突然電話などしてきたのか。ついに聞くことはなかった。彼女は電話を切る間際、何か言いたそうに沈黙することがあった。しかし私はその先を言われるのが怖くて、「じゃあ、元気でね」と一方的に通話を切っていた。
棺の中の彼女は苦痛に顔を歪めていた。髪を触ると、私と同じくせ毛が指に絡みついた。ごめんね、そう囁いた私に、彼女は何ら反応を返すことはなかった。その時になって初めて私は泣いた。涙が頬を伝って彼女の額を濡らした。
テラスに出ると、薄汚れた布張りのソファがあったので腰を下ろしてみた。彼女もここから浜辺を見下ろしていたのだろうか。磯の匂いが風に運ばれてここまで漂っていた。灰色の砂浜を、白い波が寄せては返していく。そのざわめきに心をくすぐられる様な思いがした。ここで彼女は何を思っていたのだろう。
忌まわしき父親との関係をあの群青の波が浚ってくれると思っていたのだろうか。妹を残して自分だけ逃げだした私を恨んではいなかったのだろうか。この鈍色の空の下で、海風が不安も吹き飛ばしてくれると信じていたのだろうか。
何もしてあげられなかった。ただそれだけが棘にように心に突き刺さっていた。怖かった。かつては私自身、誰に相談することもできず、一人背負っていた。だが、いざ自分の前に自由が広がると、結局はすべてを妹に押し付けて逃げ出してしまったのだ。
婚約者にすべてを話そうか悩んだこともあった。しかしそんな事情を知れば、彼は私を見放すかも知れない。そう思うと身動きが取れなかった。
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ギギィ、と家鳴りがした。回想から戻った私は、辺りが暗くなり始めていることに気付いた。そろそろ戻らねば。立ち上がった私は、床の上を黒っぽい影が走り抜けるのを見た気がした。それは猫くらいの大きさで、テーブルの下から廊下の奥へ消えたのだ。
いずれ家を出るには、廊下を抜けなくてはならない。鼠だったら嫌だなと思いながら、暗い廊下を進んだ。玄関扉に手をかけたとき、すぐ横のドアの向こうから物音が聞こえた。
ドアは半開きになっていたので、隙間から恐る恐るそっと覗いてみる。そこには洗面台があり、音は奥の浴室から響いているようだった。
鼓動の高鳴りを感じながら、好奇心を抑えきれなくなって浴室までそろりそろりと足を運んだ。
浴室からはヌチャリ、ヌチャリと粘着質な音が断続的に響いてくる。水漏れとは明らかに違う。
ガラス戸の向こうがやや明るいところを見ると、浴室には窓があるのだろう。震える手で隙間に手を入れて引き戸を開く。ガラガラと音が鳴ったためか、ヌチャヌチャした音がパタリと止んだ。
やはり生き物がいるのだろう。もし猫なら、妹が飼っていたものかも知れないし、それなら私が引き取るべきだろう。そう思いながら中を覗き込んだ私は、悲鳴を上げて脱兎のごとく車に駆け戻った。
大急ぎでエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。もはや何の未練もなかった。二度とここには来るまい。あのおぞましい生物がいる限り。
妹はあれに腹を食い破られたのだ。葬儀場で彼女に妊娠の痕跡があると言われたものの、何も聞いてなかった私は連絡すべき相手も分からなかった。だが、もしその相手が実の父親だとしたら。
彼女は一人出産のために、ただ己と子供だけで生きていくためにこの地を選んだのかも知れない。父親を明かすことのできないその子供とともに、すべてを忘れて生きていこうと…………。だが、その思いをすべて無に帰したのは、彼女自身の腹の中で育まれた忌み子…………。
胎児には不釣り合いな大きな牙を生やし、強靭な筋骨を持つ“あれ”が、彼女の抱えた罪悪感と劣等感、父への憎悪を一心に引き受けて、文字通りの鬼子となり果てたのだとしたら。
妹はさぞ不安だったろう。自分の中で育つ赤子が、普通じゃないと気が付いて…………。
ヘッドライトの向こうが闇に沈んでいく。その時、隣の席で赤黒い何かが動いた。視界の隅に、赤ん坊には逞し過ぎる手足が見える。血の臭いが鼻をつく。ヌチャリヌチャリと咀嚼音が聞こえる。
ああ、海岸を走る開放感で、窓を開けたままにしていたのだ…………
これは悪夢に違いない。
目が覚めれば、いつも通り愛しい彼の寝顔がきっと…………祈る私の隣で、オギャア、と野太い鳴き声が響いた。
作者ゴルゴム13