それは長い梅雨もようやく明けて、朝方であっても日射しが感じられる月曜日の朝のことだ。
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もうじき夏休みが始まるということで、キャンパスは妙に浮き足だっていた。
俺は大学の食堂で、380円のモーニングセットを食べていた。2時限めの授業までは、まだ大分時間があるからだ。
広い食堂の人影は疎らで、時間はゆったりと流れている。
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俺は大きく伸びをして目を擦ると、再びコーヒーカップに手を伸ばした。
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─眠い、、、
まるで頭の中に霧がかかっているみたいだ。
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昨晩ようやく眠りについたのは恐らく深夜の2時過ぎ頃だったろう。
原因は明らかだ。
ここ最近YouTubeにはまっているのだ。
特にお気に入りの動画があるわけではない。
床に入るとつい携帯に手が伸びてしまう。
この奇妙な悪習のせいで俺はかなり重症な不眠症になっていた。
開け放たれた窓からの弛い風と広い食堂の開放感に負け、うとうとと首を上下に動かしていたその時だ。
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─ポーン!、、、ポーン!、、、
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妙に耳障りなチャイム音がしたからふと顔を上げると、正面奥の壁に設置された巨大なテレビ画面の上部に「ニュース速報」のテロップが流れる。
すると先ほどまで放映されていた朝のワイドショーが切り替わり、どこかの駅のプラットホームが映し出された。
ホームには多くの人の姿が見え何があったのだろうか、時折男女の叫び声が聞こえてくる。
そしてたくさんの救急隊員や警察官が忙しなく動き回っていた。
画面中央に立つワイシャツ姿の中年の男が険しい顔をしながらしゃべりだす。
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「わたしは今N 市では最も乗降客の多いN 駅のプラットホームにいます。
今朝9時頃のことなのですが、ホームに上りの特急列車が入ってきたとき突然二人の男女が線路に落下し、次々と跳ねられました。
目撃者によるとホームに列車が入ってくる直前に、スーツ姿の痩せた中年男が列車待ちをしている人の中に乱入してきて20代の男女二人を線路の方へ押したもようです。
押されて線路に落下した二人は侵入してきた特急列車に次々と跳ねられ、その後死亡が確認されたもようです。
現場のホーム内は一時蒼然となり、しばらく悲痛な叫び声に包まれました。
その後男は駅員や乗客によって取り押さえられました。
男は取り調べに対して「白い悪魔だ、白いばかでかい悪魔が来る。 奴を止めないと、奴を止めないと』と訳の分からないことを供述しているらしく、警察は男の薬物の使用の有無も視野に入れて取り調べを進めていくもようです」
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─何だ、この事件は?薬物中毒者か何かか?
N 駅といったら俺の住むマンションの最寄り駅じゃないか
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画面には容疑者の顔写真がアップで映っていた。
N 市在住の会社員で42歳らしい。
だがとても、その年齢とは思えないほど、男の顔は痩せこけていて目の下には深い隈がある。
髪も真っ白だ。
そういえば俺の目の下にも同じような隈がある。
寝不足のせいだ。
もしかしたらこの容疑者もひどい不眠症なのだろうか
すると、
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─ポーン!、、、ポーン!、、、
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再び画面上部に速報のテロップが出、白文字で次のように流れてきた。
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─今朝9時頃、東京都の山手沿線のW 駅で男性2名、大阪府のJR 線Y 駅で男性1名と女性2名がそれぞれプラットホームから線路に落下し、侵入してきた電車に跳ねられたもよう。
どちらも電車待ちの列に突然乱入してきた者に背中を押されて線路に落下し電車に跳ねられ、その後全員の即死が確認された。
警察は容疑者の50代の男と30代の女の身柄を拘束し、現在取り調べ中。
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─おいおい一体これは、どういうことだ?
こんなことあるのか?同じ時刻に違う地域の違う駅で同じようなことがあるなんて、、、
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俺はこのままもう少しテレビを見ていたかったが授業が始まるのでモーニングセットのトーストには手をつけず、講義室のある棟へと向かった。
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その日夕方頃講義を終えた俺は大学正門前で待つ古ぼけた箱バンの後部座席に乗り込んだ。
そこには既に2人のくたびれた中年男性が座っていた。
運転席に座るヘルメットに制服姿の体格の良い男が、声をかける。
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「おい、今日も昨日と同じ現場な」
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俺は今交通整理のバイトをしている。
いわゆる「旗振り」というやつだ。
片側一車線が道路工事中の現場に行き交通誘導する仕事だ
暑さと排気ガスと騒音の中で眠い目を擦りながらたっぷり5時間、旗を振り続けた後は俺の疲れは頂点に達していた
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自宅であるワンルームマンション前に帰りついたとき、時刻は午後11時になろうかとしていた。
すぐにシャワーを浴びてテレビを見ながらコンビニの幕の内をかきこむと電気を消し、万年床に潜り込んだ。
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─疲れも貯まっているし今晩はすぐに眠れそうだ。
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俺は変な期待を抱きながら目をつむる。
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10分、20分、30分、、、1時間、、、
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時間だけがどんどん経過していく、、、
だが俺の意識はちっとも脳の奥深い沼の中には沈み込んでいかない。
いやむしろ意識はどんどん冴え渡っていき焦りだけが頭をもたげてきていた。
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─くそ!
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いけないこととは思ったが結局俺の右手は枕元にあるスマホを持っていた。
そしていつもの通り指先でYouTubeの画面をスクロールしていた。
暗闇の中、次から次に気になった動画を見ていく。
30分ほど経ったころだろうか。
俺の目はあるサムネイルに釘付けになった。
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─今晩も眠れないあなたへ、、、
97パーセントの確率で眠りに落ちます!
という魅力的なタイトルの背景には水平線に沈む夕日の美しい画像がある。
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動画アップは3日前。
だが既に再生回数は10万回を越えている
俺は迷わず画面上に人差し指を当てた。
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しばらくすると打ち寄せる波の音を背景にして穏やかなヒーリングミュージックが流れだした。
それから低く落ち着いた男の声が重なる。
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「今晩も眠れないあなた、、、
ご安心ください、、、これから私の呟く魔法の言葉を聞き続けていると、あなたは優しい微睡みの中にはまりこんでいくはずです、、、
それでは始めます。
まずは体の力をゆっくりと抜いていきましょう」
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俺は枕元にスマホを置くと仰向けになり、言われた通り全身の力を抜いていく。
しばらくするとまた先ほどの男の声が聞こえてきた。
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「さあ、あなたはこれから私の呟く言葉だけに意識を集中してください。
そしたらあなたの意識はいつの間にか深い深い微睡みの中にはまりこんでいくはずです。
それでは参ります、、、」
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翌朝すっきり目覚めた俺は一時限めの授業に出席するために、N 駅のプラットホームの電車待ちの列に並んでいた。
昨日までの眠気はきれいに晴れ、頭の中はまるで春の青空のように晴れ渡っている。
俺は軽く口笛を吹きながら先頭に並ぶOL風の若い女性の紺色の制服の背中を眺めていた。
やがて微かに警報器の音が、次に、カタン、カタンという電車が近づいてくる音が聞こえ始めた。
いつもの特急列車だ。
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その時だ。
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突然俺の意識の奥深いところから、何とも言えない強烈な衝動がマグマのように沸き上がってきた。
同時に身体中の毛穴という毛穴が開き血流がどんどん頭に上っていく。
首から上だけがたぎるように熱い。
心臓の鼓動を喉元に感じる。
口内もからからだ。
やがて目の前の情景が地震のときのようにぐらぐらと揺れだしたかと思うと、一瞬で周囲が漆黒の闇に包まれた。
まるで真夜中の原野にただ一人立っているような感覚。
ふと右前方に目をやると恐ろしい鬼の形相をした白い鯨のような巨大な何かが圧倒的な勢いで、こちらに近づいてきていた。
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─だ、、、ダメだ、、、奴を、奴を止めないと、、、
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そしていよいよそいつが目前に迫ったとき、俺の両手は目の前にある紺色の背中を力一杯押していた。
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ドスン!という鈍い衝突音の後、耳をつんざくような警笛が鳴り響き、続いてTREX の雄叫びのような不快なブレーキ音がしばらく続いた。
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怒号や悲痛な叫びに包まれ、
俺は屈強な数人の男たちから肩や頭を抑えつけられ、片腕を背中に回され片方の頬をアスファルトに押し付けられていた。
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皆様の普段何気なく見ている動画の中にも、もしかしたら恐ろしいサブリミナルメッセージが仕込まれているかもしれません。
くれぐれもお気をつけください。
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Fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう