豚がいた。
家に帰ってそれを見た俺は開いた口が塞がらなかった。妻は笑ったような困ったような顔しながら俺のことを見ている。
「どうしたんだよこれ…」
いや、豚がいるだけでも十分驚きである。しかし、その豚はなんと椅子に座っているのである。ジャブの後にアッパーでもくらったような感覚である。現に俺は軽いめまいを起こしていた。そして文字通り頭を抱えた。
「いやはやご主人」
俺はばっと顔を上げ、辺りを見渡した。妻の声ではない。もちろん、俺の声でもない。
自然と豚に目が行く。
「お邪魔してます」
どうやら、信じられないことに、この豚が喋っているらしい。俺はぶっ倒れる寸前であった。だが、何とか踏ん張って、俺は妻に尋ねた。
「どういうことだ?」
「いや、えっとね…どこから説明したらいいやら」
妻は目を泳がせながら、答えた。
「スーパーの帰り道にその子がいたの」
「は?」
日本語自体は理解ができる。しかし、妻の言葉の意味が分からない。
「私から説明しましょう」
豚が立ち上がった。二本足でこちらに歩いてくる。アニメのキャラクターのような動きだが、見た目は正真正銘のリアルな豚である。その『ズレ』に俺は失笑した。
「今日は雨が降っておりまして、私も濡れて困っていましたところ、奥さんに助けられたのです」
「は?」
いや、百歩譲ってこれが人間であったならば、状況は把握できた。しかし、この豚は何ら肝心な部分を説明していない。
なぜ、豚が喋っているのか、とか。なぜ豚が二足歩行で歩けているのか、とか。そもそもなんでスーパーの帰り道に豚がいるのだ、とか。
「…旦那さんの言いたいことは分かります。私がなぜこのように振舞えているのかが気になるのでしょう」
「そ、そうだよ。ど、どう考えたっておかしいだろ。豚が喋るなんて!」
「説明したいのは山々なのですが、私自身何故、自分がこのような状態になったのか分からないのです。申し訳ない」
「ど、どういうことだよ」
「気が付けばこうなっていたといいましょうか…私はもともとどこかの農業高校で飼われていた豚なのです。しかし、気づけばこうなっていて、スーパーの前にいた。そこを奥さんに助けられたのです」
俺はくらくらする頭を押さえながら、なんとか椅子に座った。
状況は分かったが、分からない。
「まあまあ、しかし、細かいことは…お気になさらず」
そう言って豚はにっと笑った。なんとも腹の立つ顔である。
「お気になさらずって…お前なあ」
俺はだんだんと腹が立ってきた。それと同時に喋る豚に苛立つ自分を滑稽に思った。
「ちょっと、落ち着いて」
豚に歩み寄っていた俺の前に妻が立ちふさがる。
「落ち着けって言われたって…豚だぞ。お前はなんで不思議に思わないんだ」
「私だって状況はまだわかってないけど、困ってるなら助けなきゃ」
妻は昔からこういう性分である。そう、俺たちが知り合った高校時代から――。俺は妻のこういう優しいところに惹かれたのだ。
「奥さん…お優しい!」
そういって豚は短い手を妻の腰に回し、後ろから抱き着いた。それを見て、俺は反射的に叫んだ。
「おい!」
豚はぶぅと言って、怯えた顔で俺を見てから、ゆっくりと手を離した。
「…そんな怒らなくたっていいじゃないの」
妻は豚の方に目をやってから、困った顔で俺を見た。
「あ、いや…すまん」
「…とりあえず、みんなで席に座りましょ」
妻の声に促されて、俺と豚は席についた。
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席についたはいいものの、状況は一向に進展しない。豚は何も覚えてないという。気づいたらこうなっていたの一点張りである。様子を見る限り、確かに豚が何かを隠しているような感じはない。
そして妻は豚が何かを思い出すまでこの家に居させたいと言う。人に見せなければいいし、もし見られてもペットと言えばいいと、妻はそう主張した。まあ、ここで数年過ごした俺の勘から言えば、おそらく人に見られることはまずないだろう。
しかし、それでも。
「豚か…」
俺は再び頭を抱えた。しかも、喋る豚である。昨日か一昨日、犬が欲しいねとお互い話していた矢先がこれである。
しかし、結局、俺は家に住まわせることにした。
豚はよく喋った。朝でも昼でも夜でも、いつでもよく喋る。豚が饒舌に喋り、それに俺が怒り、妻がそれを見て笑う――この流れが芸人のネタのようにパターン化していた。三回目辺りからは俺も本気では怒っておらず、その流れを楽しんでいた。
そんなある日のことである。
帰ると、リビングの机の上がクレヨンで散らかっていた。最初は妻かと思ったが、妻は必ず物は片づける。思い当たる人物――というか、動物は一人――いや、一匹しかいなかった。
「おい! 豚! この野郎!」
リビングで叫んだが、何の返答もない。あれ、と思って、耳を澄ませてみると、風呂の方から妻と豚の声が聞こえてくる。
まさか――俺は自分の頭に血が昇っていくのを感じた。足が勝手に動いて、気づけば脱衣所にいた。
風呂場にはカギがかかっている。
ドアを思い切り叩く。
「おい! 豚、中にいるんだろう!」
「ど、どうしたの…」
扉が少し開き、妻が顔を覗かせる。俺は隙間に手を差し込み、扉を開いて中に飛び込んだ。
見ると、豚が椅子に座っており、頭には泡が乗っていた。どうやら妻に頭を洗ってもらっていたらしい。
「てえめ、この野郎!」
俺は豚に飛び掛かった。
「ちょっと…! 何してるのよ…」
両腕を使って、首を絞めると、ぶひぶひと言いながら豚が暴れた。しかし、俺はお構いなしに力を強めていく。
「やめて…やめてよ!」
妻の声にはっと我に返る。俺は腕の力を弱め、鏡にうつった自分を見た。
なんとも情けない男の姿がそこにはあった。
その瞬間、なんとも言えない自己嫌悪が自身を襲った。
「あなた…?」
俺は覚束ない足取りで、風呂場を出た。
そしてそのまま寝室に向かうと、ベットに寝ころんで、泣いた。
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俺は何かに起こされ、目を開けた。どうやら眠っていたらしい。
顔を横に向けると、豚の顔があった。申し訳なさそうな顔をしている。
「ご主人…私、なんとも失礼なことをしてしまったか…。奥さんは悪くないのです。私が体を洗ってほしいとお願いしてしまったのです。でも、よくよく考えてみれば、あなた方二人はご夫婦…いくら私が豚とはいえ…」
「…やめろよ」
俺はへっと笑った。
「豚に嫉妬してる俺の方が異常なんだ。頭がおかしいんだよ」
「…そんなことはありません。その奥さんを思う気持ち、大切にしてください」
まさか豚にこんなことを言われるとは思っていなかった。俺は何故だが泣きそうになった。
「…あと、これ…」
豚が短い手で何かを俺に差し出してきた。
それは小汚い絵だった。男と女と――そして丸っこい物体が描かれている。まるで子供の落書きである。しかし、それが何を表すのかすぐに分かった。
「…ありがとう。ありがとな…」
「お気になさらず」
豚はにっと笑った。
とうとう俺は泣いた。しかし、それは先ほどとは別の意味を持った涙であった。
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その後、俺たちは仲良く暮らしている。豚はペットというよりかは家族であった。豚はまだ自分のことを思い出せずにいるが、それでもいいと思った。このままでいいのだ。
ずっとこのままで――。
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今日はちょうど、豚が家に来てから一か月である。帰り道に美味そうなケーキ屋を見つけたから、ホールケーキを買った。妻に『もう豚が来て一か月だよね? 豚にケーキを買ったけど、豚には言わないでくれよ』とLINEを送った。
しかし、一向に返信がない。
おかしい。この時間はいつも家にいて、返信をしてくれるのに。
妙な胸騒ぎがした。
まさか、妻と豚の身に何かあったのではないだろうか――そんな気がした。
俺は足を速め、家に急いだ。
玄関のドアを開け、リビングを確認する。
誰もいない。おかしい、いつもは妻も豚もここにいるのに。
上からぶひ、ぶひと声がする。苦しそうな声である。俺はケーキを持ったまま二階に急ぐ。
大丈夫だ。俺の思い違いだ。
二人が強盗に襲われている映像が頭に浮かんだ。
――やめろ。やめろ!
俺は飛び込むようにして寝室に入った。
そこには。
「あ、あなた…!」
俺は手に持っていたケーキを落とす。
全裸の妻の上に豚が覆いかぶさっており、かくかくと腰を振っていた。
「こ、これはちがくて…!」
コ、コレハチガクテ――妻の日本語自体は理解ができる。しかし、妻の言葉の意味が分からない。
豚が動きを止め、こちらを見た。
「お気になさらず」
豚がにっと笑った。
作者なりそこない