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中編6
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 豚がいた。

 家に帰ってそれを見た俺は開いた口が塞がらなかった。妻は笑ったような困ったような顔しながら俺のことを見ている。

「どうしたんだよこれ…」

 いや、豚がいるだけでも十分驚きである。しかし、その豚はなんと椅子に座っているのである。ジャブの後にアッパーでもくらったような感覚である。現に俺は軽いめまいを起こしていた。そして文字通り頭を抱えた。

「いやはやご主人」

 俺はばっと顔を上げ、辺りを見渡した。妻の声ではない。もちろん、俺の声でもない。

 自然と豚に目が行く。

「お邪魔してます」

 どうやら、信じられないことに、この豚が喋っているらしい。俺はぶっ倒れる寸前であった。だが、何とか踏ん張って、俺は妻に尋ねた。

「どういうことだ?」

「いや、えっとね…どこから説明したらいいやら」

 妻は目を泳がせながら、答えた。

「スーパーの帰り道にその子がいたの」

「は?」

 日本語自体は理解ができる。しかし、妻の言葉の意味が分からない。

「私から説明しましょう」

 豚が立ち上がった。二本足でこちらに歩いてくる。アニメのキャラクターのような動きだが、見た目は正真正銘のリアルな豚である。その『ズレ』に俺は失笑した。

「今日は雨が降っておりまして、私も濡れて困っていましたところ、奥さんに助けられたのです」

「は?」

 いや、百歩譲ってこれが人間であったならば、状況は把握できた。しかし、この豚は何ら肝心な部分を説明していない。

 なぜ、豚が喋っているのか、とか。なぜ豚が二足歩行で歩けているのか、とか。そもそもなんでスーパーの帰り道に豚がいるのだ、とか。

「…旦那さんの言いたいことは分かります。私がなぜこのように振舞えているのかが気になるのでしょう」

「そ、そうだよ。ど、どう考えたっておかしいだろ。豚が喋るなんて!」

「説明したいのは山々なのですが、私自身何故、自分がこのような状態になったのか分からないのです。申し訳ない」

「ど、どういうことだよ」

「気が付けばこうなっていたといいましょうか…私はもともとどこかの農業高校で飼われていた豚なのです。しかし、気づけばこうなっていて、スーパーの前にいた。そこを奥さんに助けられたのです」

 俺はくらくらする頭を押さえながら、なんとか椅子に座った。

 状況は分かったが、分からない。

「まあまあ、しかし、細かいことは…お気になさらず」

 そう言って豚はにっと笑った。なんとも腹の立つ顔である。

「お気になさらずって…お前なあ」

 俺はだんだんと腹が立ってきた。それと同時に喋る豚に苛立つ自分を滑稽に思った。

「ちょっと、落ち着いて」

 豚に歩み寄っていた俺の前に妻が立ちふさがる。

「落ち着けって言われたって…豚だぞ。お前はなんで不思議に思わないんだ」

「私だって状況はまだわかってないけど、困ってるなら助けなきゃ」

 妻は昔からこういう性分である。そう、俺たちが知り合った高校時代から――。俺は妻のこういう優しいところに惹かれたのだ。

「奥さん…お優しい!」

 そういって豚は短い手を妻の腰に回し、後ろから抱き着いた。それを見て、俺は反射的に叫んだ。

「おい!」

 豚はぶぅと言って、怯えた顔で俺を見てから、ゆっくりと手を離した。

「…そんな怒らなくたっていいじゃないの」

 妻は豚の方に目をやってから、困った顔で俺を見た。

「あ、いや…すまん」

「…とりあえず、みんなで席に座りましょ」

 妻の声に促されて、俺と豚は席についた。

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 席についたはいいものの、状況は一向に進展しない。豚は何も覚えてないという。気づいたらこうなっていたの一点張りである。様子を見る限り、確かに豚が何かを隠しているような感じはない。

 そして妻は豚が何かを思い出すまでこの家に居させたいと言う。人に見せなければいいし、もし見られてもペットと言えばいいと、妻はそう主張した。まあ、ここで数年過ごした俺の勘から言えば、おそらく人に見られることはまずないだろう。

 しかし、それでも。

「豚か…」

 俺は再び頭を抱えた。しかも、喋る豚である。昨日か一昨日、犬が欲しいねとお互い話していた矢先がこれである。

 しかし、結局、俺は家に住まわせることにした。

 豚はよく喋った。朝でも昼でも夜でも、いつでもよく喋る。豚が饒舌に喋り、それに俺が怒り、妻がそれを見て笑う――この流れが芸人のネタのようにパターン化していた。三回目辺りからは俺も本気では怒っておらず、その流れを楽しんでいた。

 そんなある日のことである。

 帰ると、リビングの机の上がクレヨンで散らかっていた。最初は妻かと思ったが、妻は必ず物は片づける。思い当たる人物――というか、動物は一人――いや、一匹しかいなかった。

「おい! 豚! この野郎!」

 リビングで叫んだが、何の返答もない。あれ、と思って、耳を澄ませてみると、風呂の方から妻と豚の声が聞こえてくる。

 まさか――俺は自分の頭に血が昇っていくのを感じた。足が勝手に動いて、気づけば脱衣所にいた。

 風呂場にはカギがかかっている。

 ドアを思い切り叩く。

「おい! 豚、中にいるんだろう!」

「ど、どうしたの…」

 扉が少し開き、妻が顔を覗かせる。俺は隙間に手を差し込み、扉を開いて中に飛び込んだ。

 見ると、豚が椅子に座っており、頭には泡が乗っていた。どうやら妻に頭を洗ってもらっていたらしい。

「てえめ、この野郎!」

 俺は豚に飛び掛かった。

「ちょっと…! 何してるのよ…」

 両腕を使って、首を絞めると、ぶひぶひと言いながら豚が暴れた。しかし、俺はお構いなしに力を強めていく。

「やめて…やめてよ!」

 妻の声にはっと我に返る。俺は腕の力を弱め、鏡にうつった自分を見た。

 なんとも情けない男の姿がそこにはあった。

 その瞬間、なんとも言えない自己嫌悪が自身を襲った。

「あなた…?」

 俺は覚束ない足取りで、風呂場を出た。

 そしてそのまま寝室に向かうと、ベットに寝ころんで、泣いた。

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 俺は何かに起こされ、目を開けた。どうやら眠っていたらしい。

 顔を横に向けると、豚の顔があった。申し訳なさそうな顔をしている。

「ご主人…私、なんとも失礼なことをしてしまったか…。奥さんは悪くないのです。私が体を洗ってほしいとお願いしてしまったのです。でも、よくよく考えてみれば、あなた方二人はご夫婦…いくら私が豚とはいえ…」

「…やめろよ」

 俺はへっと笑った。

「豚に嫉妬してる俺の方が異常なんだ。頭がおかしいんだよ」

「…そんなことはありません。その奥さんを思う気持ち、大切にしてください」

 まさか豚にこんなことを言われるとは思っていなかった。俺は何故だが泣きそうになった。

「…あと、これ…」

 豚が短い手で何かを俺に差し出してきた。

 それは小汚い絵だった。男と女と――そして丸っこい物体が描かれている。まるで子供の落書きである。しかし、それが何を表すのかすぐに分かった。

「…ありがとう。ありがとな…」

「お気になさらず」

 豚はにっと笑った。

 とうとう俺は泣いた。しかし、それは先ほどとは別の意味を持った涙であった。

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 その後、俺たちは仲良く暮らしている。豚はペットというよりかは家族であった。豚はまだ自分のことを思い出せずにいるが、それでもいいと思った。このままでいいのだ。

 ずっとこのままで――。

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 今日はちょうど、豚が家に来てから一か月である。帰り道に美味そうなケーキ屋を見つけたから、ホールケーキを買った。妻に『もう豚が来て一か月だよね? 豚にケーキを買ったけど、豚には言わないでくれよ』とLINEを送った。

 しかし、一向に返信がない。

 おかしい。この時間はいつも家にいて、返信をしてくれるのに。

 妙な胸騒ぎがした。

 まさか、妻と豚の身に何かあったのではないだろうか――そんな気がした。

 俺は足を速め、家に急いだ。

 玄関のドアを開け、リビングを確認する。

 誰もいない。おかしい、いつもは妻も豚もここにいるのに。

 上からぶひ、ぶひと声がする。苦しそうな声である。俺はケーキを持ったまま二階に急ぐ。

 大丈夫だ。俺の思い違いだ。

 二人が強盗に襲われている映像が頭に浮かんだ。

 ――やめろ。やめろ!

 俺は飛び込むようにして寝室に入った。

 そこには。

「あ、あなた…!」

 俺は手に持っていたケーキを落とす。

 全裸の妻の上に豚が覆いかぶさっており、かくかくと腰を振っていた。

「こ、これはちがくて…!」

 コ、コレハチガクテ――妻の日本語自体は理解ができる。しかし、妻の言葉の意味が分からない。

 豚が動きを止め、こちらを見た。

「お気になさらず」

 豚がにっと笑った。

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