中編7
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◇雨虎◇

今日の予報は曇り、だと聞いた。

けれど空を覆う雲はどんよりと暗く、今にも降り出しそうである。指でぴんっと弾けば中に溜まったものがたちまち溢れ出すだろう。

おまけに今日は特別湿っぽくて、じめじめと肌にまとわりつくような生暖かい風がいちいち鬱陶しい。

この時季になるとよく現れる妖怪がいる。ちょうど今、私の前を横切ろうとしているのがそうだ。

名は知らないけれど見た目はアメフラシ。しかし実際のアメフラシと比べると随分と巨大で、様々な模様の種類がある。赤の水玉模様や青の唐草模様、一昨年見たのは黒とピンクのボーダーで気持ちが悪かった。

私は幼い頃から幽霊や妖怪が見えてしまう。それが私以外には見えていないことを知ってから、この事は自分だけの秘密にしている。きっと人に話したら頭のおかしい奴だと思われる。それが嫌だったから…。

この時季、と言うのは梅雨なのだけれど、その妖怪はナメクジみたいにのろのろと動き、てらてらと光を照り返す表皮は見ただけで総毛立つ程に気味が悪い。

そうして、ぐちゅりと音を立てると突然動きを止め、体からもくもくと紫色の煙を噴き出す。その煙が天高くゆっくりと昇っていくと、雲のない晴れた日には天気雨を降らす程度の紫色の雨雲になり、曇りの日にはただの雲が煙に侵食されて大雨を降らす雨雲に変化してしまう。その様はまさにアメフラシである。

これだけ聞くと梅雨にぴったりな妖怪であるけど、別に季節限定の妖怪という訳ではない。春に現れることもあれば、真冬に現れることもある。

昨年のクリスマスには白と赤のクリスマスカラーで彩ったアメフラシが現れ、体から噴き出した紫色の煙が天高く昇っていくと雲を侵食して雨雲が出来上がった。

氷点下だった為、雲から降り注ぐ雨粒は地面に辿り着く前に氷の結晶となり、その夜は見事なホワイトクリスマスとなった。その時の妖怪はアメフラシと言うよりはユキフラシであった。

それともう一つ、この妖怪には奇妙なところがある。

雨粒がアメフラシの皮膚にぽつりと落ちると、そこからぶくぶくと泡を吹いて溶け始める。雨が土砂降りになる頃にはじゅるじゅると耳障りな音を立てながら、あっという間にどす黒い水溜まりに成り果てる。

この妖怪は自ら作り出した雨によって消滅してしまうのだ。なぜこの妖怪がこんな奇行に走るのか、それを教えてくれた人がいる。

前述で私は見えることを誰にも話したことがないと言ったけど、一人だけこの秘密を知っている人がいた。

それは私の祖母であった。

小学生時分、母の実家に訪れた時だった。

お庭で遊んでいると茂みからのそのそとアメフラシが現れた。地元で見る奇妙な色ではなく、そのアメフラシは淡い緑色で表皮が硝子細工のように煌めいていた。

「あっ、雨が降る」

そう思った私は台所へとことこ走っていくと、祖母の服をくいくいと引っ張った。

「おばあちゃん、雨降るかもしれないからお洗濯ものとりこんだ方がいいかも」

言い終わってから「しまった」と思った。こんな天気が良い日に雨が降るなんて、そんな妙ちきりんなこと言われてどう思うか。案の定、祖母は驚いた顔で私に振り向いた。

「アメフラシでもおったか?」

予想外の返答に私は目を丸くした。どう答えればよいか分からず、口をくっと紡いで下を向いた。一生懸命言葉を考えていると祖母が私の頭をそっと撫でてくれた。

「そうかそうか、莉柚(りゆ)ちゃん見えるんか」

顔を上げると祖母は優しく微笑んでいた。私は一瞬考える。そして大きく頷いた。

今思えば軽率な行動だったと思う。だけど長い事この秘密を一人で背負いこんでいるのが、当時の幼い私には色々と限界であった。ずっと誰かとこの秘密を共有したいと思っていた。私しかあいつらが見えないと言うのは、それだけで孤独で寂しく辛いのだ。遅かれ早かれ、その重さに耐えきれずに誰かに秘密を打ち明けてしまっただろう。その相手が祖母で本当に良かった。

「お庭にいるの。おばあちゃんも見えるの?」

訊くと祖母は首を横に振った。

「今はもう見えんけど小さい時はね、見えたんよ」

物心ついた時から私は見えていた。それらが居るのが普通だと思っていた。だけどそれが普通ではなく、異常だと知った時。それが自分以外には見えていないのだと、そう理解した時。私は幼いながらも冷静に、ただその事実を黙って受け入れた。それからずっと見えることは秘密にしてきた。けれど、こんな身近に同じ境遇の人がいるとは思わなかった。

だから私は嬉しくて祖母に訊いてみた。

「あれって雨が降ると溶けてなくなっちゃうの。なんで自分が溶けちゃう雨を自分で降らしてるの?」

祖母は「それはねぇ」と私の手をひいてお庭へ向かった。そこには淡い緑色の綺麗なアメフラシがのそのそ動いていた。

「アメフラシは自然がたくさんある綺麗な場所でないと生きていけないの。綺麗な土で育ったお野菜や果物、お山さんから流れる綺麗なお水、美味しくて澄んだ綺麗な空気。アメフラシはそういうもので育つの。そのお礼に恵みの雨を降らすんだよ。その雨がまたこの土地を自然豊かにしてくれるの。莉柚ちゃんが住んでるところは自然がすくないでしょう?空気は汚れて、道にはゴミが捨てられて…。悪いもので育ったアメフラシが降らす雨はとても汚れてしまっているの。だから溶けちゃうの」

「じゃぁ、ここにいるアメフラシは溶けないの?」

「溶けないの」

祖母は優しく私に話してくれた。

するとアメフラシがもくもくと真っ白な煙を噴き出した。

「あっ、煙ふいた」

「なら、今の内にお洗濯ものとりこんじゃおうか」

「うん!」

「じゃあ、おばあちゃんと競争だ!」

しばらくすると晴天だった空から雨が降り始めた。何も知らない母は「なに?お天気雨?」と居間から顔を出した。私と祖母は顔を見合わせ、くすっと笑った。

「なに?二人して?」

疑問符を浮かべる母に私達は口を揃えてこう言った。

「ひみつ!」

祖母の言う通り、アメフラシは雨を浴びても溶けなかった。むしろ、シャワーを浴びるように気持ち良さそうにしている。濡れた表皮はきらきらと輝き、まるで宝石みたいだった。

「ずっと一人で抱え込んで寂しかったねえ。今度からはおばあちゃんに何でも話すんだよ」

祖母はにっこりと笑うと優しく頭を撫でてくれた。

今にも降り出しそうだった雲が紫色の煙を呑み込んでいくと、その内ぽつぽつと雨が降り始めた。街の喧騒が雨音に支配される頃には、アメフラシがぶくぶく泡を吹いて溶けだしていた。

あの時の私もこの雨に負けないくらい大泣きした。

母から祖母がもう長くないと聞いた時は、頭が真っ白になり何も考えられなかった。ただ奥歯を噛み締め涙を堪えていた。そして一人になった時、堪えていたものが全て溢れ出した。

アメフラシの煙に侵食された雲のように、私は一晩中涙を流し続けた。泣き疲れてもひたすら泣いた。体中から水分が無くなっても泣き続けた。干からびてミイラになるくらいずっとずっと泣いていた。

私にとって祖母の死は、それだけ辛いことだった。

多分、この街には綺麗な雨を降らすアメフラシはいない。それほどに空気は汚れている。道端にゴミが落ちていて、それを烏が啄ばみさらに道が汚れる。橋の真下を流れる川には油が浮いてマーブル模様を描いている。

こんな場所には気味の悪い模様のアメフラシしかいないだろう。

やがてアメフラシが完全に溶けて無くなっても、雨は降り続いていた。

「気が済むまで泣くがいいさ」

その晩、私の言葉に答えるように紫色の雲は雨を降らし続けた。

翌朝、雲は泣き止みすっかり晴れていた。野暮用で下宿を出るとお向かいのおばあさんが、お家の花壇に咲く色とりどりの紫陽花を眺めていた。

「あら、おはよう」

おばあさんは私に気づくと優しい笑顔で挨拶をしてくれた。

「おはようございます。お花、綺麗ですね」

「ええ、今年は特にね。去年まではこんな色とりどりじゃなかったのに、頑張ってお世話した甲斐があったわねえ」

一緒に紫陽花を眺めていると花弁の中から、ひょこっとなにかが顔を出した。

「あっ」

「ん?どうかしたの?」

するとお家から「おばあちゃーん!」と元気良く女の子が飛び出してきた。

「あらあら。これからね、孫とお散歩なの。だから、失礼するわね」

おばあさんは頭を下げると女の子と手を繋いで歩き出した。

「おねえちゃん、ばいばい」

女の子がこちらに振り返って手を振るとおばあさんも一緒に手を振ってくれた。私は手を振り返して二人を見送った。

視線を紫陽花に戻す。そこにはナメクジサイズの小さなアメフラシがいた。あの時と同じ、淡い緑色で硝子細工みたいに煌めく綺麗な模様のアメフラシだった。

「色とりどりなのは君のおかげか」

アメフラシはもくもくと煙を噴き出すと、頭のすぐ上に飴玉みたいに小さい雨雲を作り、そこから降り注ぐ雨を気持ち良さそうに浴びていた。

こんな場所にも綺麗なアメフラシがいたとは、意外だ。きっとおばあさんの努力の賜物であろう。確かにこのお家は花壇だけでなく、お庭全体が丁寧に手入れされていて、こんな小さなアメフラシにとってここは、自然豊かで綺麗な土地なのだろう。そして、そのお礼が色とりどりの紫陽花、というわけだ。粋である。

しかし、おばあさんと女の子、綺麗なアメフラシの並びは当時の記憶が鮮明に蘇る。

私は空を見上げ、くっと涙を堪えた。今日は少々雲があるが天気が良い。だけど、この時季はアメフラシが突然現れ、雨を呼ぶから油断は禁物だ。私は鞄の中に折畳み傘があるのを確認する。

「よし」

もうじき梅雨が明けて鬱陶しく蝉が鳴き始めるだろう。無論、鬱陶しいのは蝉だけではない。そんな季節が到来しようとしていた。

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