昔から絵を描くのが好きだった。
しかしそれで金を稼ぐ自信もなく、俺は結局公務員として人生のほとんどを過ごした。
そんな俺は数年前、とある県の山奥に別荘を買った。退職した今はそこでただひたすら絵を描いている。
一緒に暮らしていた妻は一昨年死んでしまった。
だから俺はその別荘で独り寂しく絵を描くだけの生活を送っている。たまに孤独で寂しいと思うことはあるが、生活は充実していた。
俺は人の顔を描くのが好きだった。
テレビの有名人を描いてみたり、この世には存在しない人物を描いてみたり――とにかく、いろんな人の顔を描いた。
そんなある日のことである。
朝、目が覚めると、知らない女の顔が横にあった。
吃驚して、眼鏡をかけてよくみてみると、それはただの絵であった。しかも、自分の描いた絵である。
しかし。
見覚えがない。
昨日の記憶を掘り起こしてみても、その絵を描いた記憶はなかった。
黒く艶やかな髪。細く鋭い目。不気味なほど真っ白い肌。
「あれ」
そこで俺は、この女に口がないことに気が付いた。そのほかのパーツはすべて揃っているし、色も塗られている。しかし、口だけがすっぽりと抜けている。ほかの部分は完成しているのに、口だけ描かないなんてことはあるだろうか。いや、自分の性格を考えてみれば、ここまで描いているなら口も描くはずだ。
いや、そもそも――この女は何なんだろう。
俺は壁に飾ってある自分の絵を見た。
そこには様々な女性が描かれている。共通しているのはみな、美人ということだ。別に特段、テーマなどを掲げて書いているのではないが、自分が好みの顔を描くようにしている。しかし、目の前にいる女はお世辞にも綺麗とは言えない。はっきり言ってしまえば、醜い。
釣りあがった細い目は俺をじっと見つめているようで不気味である。
でも、いくら見ても、それは俺の絵である。線の具合から色の塗り方まで――何もかも俺の描き方だ。
「いや、やっぱり思い出せないな…」
こういう時に妻がいればいいのにな、と考えてしまう。妻は俺が絵を描いている姿が好きで、よく後ろから見ていた――俺は急いでその思い出を頭から取り払った。
駄目だ。昔を懐かしんでも、ただ孤独感に襲われるだけだ。
しかし。
なぜだか分からないが、今日はいい気がした。
いつもなら、孤独を実感することが分かり切っているから、考えるのをやめて、絵の世界に逃げる。しかし、今日は何だかいつもと違う。
今日ぐらい、昔のことを思い出してもいい気がしたのである。
妻の顔は今でも鮮明に思い出せる。
黒く艶やかな髪。細く鋭い目。不気味なほど真っ白い肌。
――あれ。
それは目の前の醜い女の特徴ではないか。改めて、目の前の絵を見てみる。
いや、妻はこんなに醜くない。寧ろ、美人の部類だろう。
しかし、妻の顔を思い出すと、やはり目の前の顔に行きつく。
俺の中の妻のイメージと本当の妻のイメージが乖離している――ということだろうか。長年、本当の妻の顔を見なくなったことで、妻のイメージだけが美化されていったということだろうか。
俺は『こんなの』と一緒にいたのか。
そう実感した途端、私は何とも言えない恐怖感に襲われた。現実を突きつけられて、萎えたのではない。
なんだか恐ろしくなった。
俺の記憶と現実が違いすぎる。まるで別の世界に飛ばされてしまったかのような感覚である。
俺は自分を落ち着かせるために窓の外を見た。綺麗な緑がそこには広がっている。耳を澄ますと、小鳥の鳴く音がする。
――ここはどこだろう。
唐突に自分のいる場所が分からなくなったのではない。そうではなくて、この別荘があるのは何県の何市の何町なのだろう。
俺は数年前にこの別荘を買った――どこの?
まったく思い出せない。
一つの疑問に応じるように、様々な疑問が頭の中に隆起した。
俺はこの別荘でどうやって過ごしていたのだろうか。
買い物に行った記憶がない。そもそも、何かを食べたという記憶がない。
ただ俺はずっと絵を描いていた。
しかし、そんなのはあり得ない話である。この別荘には数年間住んでいるのだ。数年間住んでいるのに、何も食べずに、生きていられるわけがない。
妻が居る時は妻が作った料理を食べていた。でも、妻が死んでから――俺はどうしてたんだろう。どうやってここで生活していたのだろうか。
妻が死んでから――。
そういえば。
妻の死体はどうしたんだっけ?
何気なく前にある絵に目を向けた。
その絵には口があった。横ににぃっと広げた口が。
笑っている。笑っているというよりかは、嘲笑っている。
自分の手元を見ると、筆が握られていた。筆の先には赤い絵の具が付いている。
「あなた」
後ろから声が聞こえた。妻の声だ。
妻は私が絵を描くのを後ろから見ているのが好きなのである。
作者なりそこない