国道沿いの細い歩道を早足で進む。
秋の暮れだと言うのに、額から頬にかけて玉の様な汗が流れて行く。だが、今の自分にはそんな事構う余裕も無く…ただひたすら、待ち合わせ場所に向かう事だけを考えていた。
「明日の午後4時、会いませんか?」
彼女からそう言われたにも関わらず、僕は何を思ったか寝過ごしてしまったのだ。
ようやく誘いが来た!と舞い上がり、日付が変わってから朝方までドキドキして眠れず、そっからの早朝バイト…
寝不足なのをテンションだけで乗り切ったせいで、帰宅するや否や、シャワーも浴びずに眠ってしまった。そして目が覚めたら午後3時30分…
通りの店のガラスに自分の姿が映る度、「これで大丈夫かな…?」と、急いで着た服の組み合わせが気になってしょうがない。
髪型はどうにかなるけど、靴とズボンの色、ズボンとシャツの色、シャツとカバンの色…彼女に会うのに、第一印象で「ダサい」と思われたら…ああ、凹む。
「何やってんだ俺…」
そんな風にうだうだ考えながら歩いているからだ。次の瞬間、ボフッ!と顔面に衝撃を受け、反動で後ろによろけた。むわっと汗ばんだ背中の熱気と臭いが鼻に来る…
「ってえな…」
横にも縦にもデカい図体をした男が、振り返ろうとしていた。金髪頭のいかつい男。ヤバイ、謝らなければ。
「あっ…あ、すみません!ごめんなさい!」
頭を下げ、その姿勢のまま男の横を通り過ぎた。
そう、これで大丈夫…まあ、次は彼女に謝らないといけないのだが…って、え?あれ、進めない…
「ちょい待ちなって!」
気が付くと俺は、さっきの大男に首根っこを掴まれていた。シャツの後ろ襟をグイッと引かれ、体が簡単に後ろに戻される。
俺、ヤバイ奴にぶつかっちゃった?途端に別の汗が額から噴き出るのを感じた。
「あ、ああ…あの…」
抵抗する力も無く、俺の体は大男の真ん前に立っていた。殴られるのか、それとも金を取られるのか…ぎゅっと目と瞑った。
「おい!大丈夫か?おれ、俺だって、覚えてる?」
「へ?」
見上げると…それは、見覚えのある顔だった。
「やっぱりそうだ、恵太の弟だろ?俺、恵太のダチの正人だよ!(笑)」
それは、兄の高校時代からの友達、正人さんだった。
「そんなに急いでどうしたよ?てか、髪の毛びしょ濡れだぞ…」
正人さんから言われ、ふと頭に手を伸ばす。びちゃっとした感触…手の平に、汗混じりの水滴がへばりついた。
「ああ、いや…これは…待ち合わせしてて…これから…」
「デートか?」
「は、はぁ…そんな感じです」
「デートに行くカッコじゃねえな~それは(笑)ダメだよ(笑)」
そんな直球で言わなくても…いや、でも図星だな…カッコ悪ぃ…
「はは…そーですよね、あ、でも…待ち合わせ遅れちゃうんで、行きますね!」
「………」
「あ、あの!ぶつかってしまってごめんなさい!じゃあ!」
ハンカチでバサバサと濡れた頭を拭きながら、俺は再度足を進めた。だが…
「待て!」
正人さんが、さっきと違った険しい声色で言った。まだ、まだ何かあるのかよ…
彼女は今頃、待ちぼうけしているかも知れない。
もし、ヒールでも履いて立っていたらキツい筈だ。そう、雑誌で見たことある…女性は、男を待たせるのは良くても、男に待たされるのは嫌いだ、と…
そう、今は正人さんに構っていられないんだ…彼女を待たせてはいけないんだ。早く!
「危ない!!!」
次の瞬間、膝から下に地面の感触が無くなり、視界が一気に、下に向かって歪んだ。例えるなら、映像がバグって縦にノイズが走る…そんな感じ。
そして、ザザザザザ!!!という音と共に、頭や腕に固い何かが当たる。あれ、何だこれ…何なんだ?
あ、落ち────
「うぉらああああ!!!」
耳元で大声が聞こえ、後ろ襟が、さっきとは比べ物にならない程強い力で引っ張られ…そこで視界は止まった。
「助かった!」「大丈夫か!?」
という声が、何故か頭上から聞こえる。目には、どんよりと曇った空と海が雑草越しに映っていて…その、謎のアングルに戸惑いを覚えた。
「引っ張るぞ!手伝え!」「救急車呼んで!」
頭上は段々と騒がしくなり…足元の感触がはっきりしてくると同時に、自分の置かれた状況を悟った。
俺はいつの間にか、海岸沿いの歩道のガードレールを乗り越えて…真下の崖に向かって進んでいたのだ。
separator
正人さんと他数人によって体を持ち上げられ、俺は崖から抜け出した。
幸い、脚と腕の数か所に擦り傷が出来ただけで大きな怪我は無く、救急隊員にその場で手当てして貰い、搬送される事は無かった。
だが…ガードレールから顔を出した瞬間に、自分と正人さんの周りに大勢の人間がいるのが見えて…皆心配そうに様子を伺っていた事に、申し訳ない気持ちと、何故自分が崖に向かって行ったのか訳が分からず…心臓がバクバクと鳴り、落ち着くまで暫く時間が掛かった。
「おまえ…ま、前、見えてなかったのかよ!」
正人さんも、俺の後ろ襟を引っ張った時に岩肌で腕を擦りむいた。着ていたシャツの前身頃が汚れ…息遣いがまだ荒い。
「…すみません…すみません…」
馬鹿の一つ覚えさながらに、俺は頭を下げて謝った。その内、後頭部にゴツン!と鈍い音がして、見上げると兄が仁王立ちしていた。正人さんにラインで呼ばれたそうだ。
「本気で死にてえのか、あれ程言っただろうが」
「兄ちゃん…ごめ、ごめん…」
「乗れ、帰るぞ!正人も乗って、それ、シャツ洗うからさ…」
兄の車に乗せられ、俺は家に戻るのを余儀なくされた。全部俺のせいだ…俺が無茶してバイトなんかして、寝坊して急ぐから…こんな大事になってしまった。
ふと、ハンドル横の時計を見ると…午後4時50分。終わった。マジで終わった。
今頃彼女…どんな気持ちで…どうしよう、泣いてるかも知れない。俺が、俺が約束を破ったって…最低だ、最低だ最低だ最低だ…!
「恵太…さっきのさ、何?」
「え、何って…」
「あれ程言っただろって、もしかして恵太、今日の事知ってたの?」
「…知ってた」
「マジで!?叩き起こしてやれよ~!デートってんだからさ(笑)」
「デートじゃねえよ、だろ?雄介」
「兄ちゃん……俺、謝らないと、彼女に…」
「向かってやったら?彼女んとこ、流石に無視は出来ねえって────」
正人さんの言葉を遮るように、兄が車を路肩に急停止した。
そして、ハンドルに寄りかかり、深く一度ため息をつくと…後部座席に座る、俺の方に顔を向けた。
「名前は?」
「え?」
「だから名前だよ…彼女の名前」
「…恵太、どうしたよ…?」
名前?知ってるに決まってんだろ…何言ってんだ兄ちゃん…彼女の名前は…あれ?
あれ?
「連絡は?メールか?電話か?まさか、パソコンだなんてふざけた事言わないよな?一週間前に壊れて、まだ買ってないんだから…」
「え?ちょっと何…?てか恵太、顔色青くね?」
確かに聞いた。声を聞いたんだ…!…どうやって?
俺はどこで、彼女の声を聞いたんだ?
「雄介、何て言われた?」
「午後4時にって…もう駄目だけど…」
「どこで待ち合わせてたんだ?」
「……わ、わかんないです…」
思い出せない。どこで待ち合わせてたのか。そもそも、待ち合わせなんてしてたのか?
「はぁ!?え、おま…場所も知らねえで歩いてたの!?あんな必死に!?」
「だって、彼女が言うんだよ!待ってるって…!」
「だから、その子の名前分かるなら言えるだろ!」
「そ、それが…わかんない…分かんないんだよ!」
「ちょ、ちょ…恵太も雄介も落ち着いて?な!?」
車内はピリピリとした空気に包まれていた。何がどうなってるのか分からない。全員の頭が混乱していた。
その時だった。
────どうしたの?
か細く、囁く声…彼女だ。
────大丈夫?わたし、待ってるから…来て。
ごめんな…ちょっと色々あって、行けなくなっちゃったんだ…
────何で?来てよ…
本当にごめん!せっかく会おうとしてくれたのに…また会ってくれる?次は絶対だから!
────やだ。今から来て…来てよ。
ごめん…駄目なんだ。…こわい…怖い…?
────来てよ。
行きたくない。いやだ…怖い!
────早く来てよ。
怖い!助けて!誰か!
早 く こ っ ち に 来 い よ!!!
…ぽちゃん…
恐怖で遠のく意識の中で、何かが水に落ちる音が聞こえた。
抱えていたバッグに付けていた小さな巾着袋が、引きちぎられたのか…細い紐の繊維を僅かに残して無くなっているのに気付く。
助手席の窓が開いているのが見え、兄がそこから、排水用の側溝に投げ捨てたのが分かった。
「雄介、俺が知らないとでも思ったのか?廃墟に行って、そこに落ちてたもん拾って来て…そういうのはな、危ないんだよ」
「恵太、どういう事だよ…?」
「一か月前からずーっと、なんかブツブツ言ってんなって思ったら…あのボロいお守りに向かって話し掛けてるんだよ。で、俺が『止めろよ』って言ったら…『彼女が話しかけてくる』なんて言うからさ…最初は冗談かと思ったけど」
「…なんだそれ…マジで言ってんの?」
「危ないから戻して来いって、何度も言ったのに…カバンに大事に付けてたなんてな…」
「あ、危なくなんて…ないよ…だって、彼女が…一緒に居たいって言ったから…」
「雄介…おい!大丈夫か!?どうする恵太!」
「大丈夫じゃないな…正人、峠の麓の寺知ってるべ?今からそこ行くから、正人も一応、祓ってもらわないと…」
車は再び、エンジンを掛けて進み始めた。お守りを残して、側溝が遠のいていく。
海沿いの廃屋。いつ頃に建てられたのか不明で、老朽化なのか何なのか…干潮時の僅かな間じゃないと姿を現さない、特殊な建物だ。
運良く入って、出てこれるか、そのまま満ち潮に流されるか…誰にも分からない。地元の人も、その存在すら知らない人の方が多いらしい。
俺は確かに、そこで彼女に出会った。いや、「立ち入ってしまった」というべきか…
あのまま、正人さんに止められていなかったら…俺はどこへ向かっていたんだ?
だって、わざわざ自分から、足が向く筈無いんだ。
潮が満ちて来ると、仰向けの水死体がプカプカ浮かんで来て…
崖の真下から、足を引っ張ってくるんだから。
作者rano