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中編7
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約束

国道沿いの細い歩道を早足で進む。

秋の暮れだと言うのに、額から頬にかけて玉の様な汗が流れて行く。だが、今の自分にはそんな事構う余裕も無く…ただひたすら、待ち合わせ場所に向かう事だけを考えていた。

「明日の午後4時、会いませんか?」

彼女からそう言われたにも関わらず、僕は何を思ったか寝過ごしてしまったのだ。

ようやく誘いが来た!と舞い上がり、日付が変わってから朝方までドキドキして眠れず、そっからの早朝バイト…

寝不足なのをテンションだけで乗り切ったせいで、帰宅するや否や、シャワーも浴びずに眠ってしまった。そして目が覚めたら午後3時30分…

通りの店のガラスに自分の姿が映る度、「これで大丈夫かな…?」と、急いで着た服の組み合わせが気になってしょうがない。

髪型はどうにかなるけど、靴とズボンの色、ズボンとシャツの色、シャツとカバンの色…彼女に会うのに、第一印象で「ダサい」と思われたら…ああ、凹む。

「何やってんだ俺…」

そんな風にうだうだ考えながら歩いているからだ。次の瞬間、ボフッ!と顔面に衝撃を受け、反動で後ろによろけた。むわっと汗ばんだ背中の熱気と臭いが鼻に来る…

「ってえな…」

横にも縦にもデカい図体をした男が、振り返ろうとしていた。金髪頭のいかつい男。ヤバイ、謝らなければ。

「あっ…あ、すみません!ごめんなさい!」

頭を下げ、その姿勢のまま男の横を通り過ぎた。

そう、これで大丈夫…まあ、次は彼女に謝らないといけないのだが…って、え?あれ、進めない…

「ちょい待ちなって!」

気が付くと俺は、さっきの大男に首根っこを掴まれていた。シャツの後ろ襟をグイッと引かれ、体が簡単に後ろに戻される。

俺、ヤバイ奴にぶつかっちゃった?途端に別の汗が額から噴き出るのを感じた。

「あ、ああ…あの…」

抵抗する力も無く、俺の体は大男の真ん前に立っていた。殴られるのか、それとも金を取られるのか…ぎゅっと目と瞑った。

「おい!大丈夫か?おれ、俺だって、覚えてる?」

「へ?」

見上げると…それは、見覚えのある顔だった。

「やっぱりそうだ、恵太の弟だろ?俺、恵太のダチの正人だよ!(笑)」

それは、兄の高校時代からの友達、正人さんだった。

「そんなに急いでどうしたよ?てか、髪の毛びしょ濡れだぞ…」

正人さんから言われ、ふと頭に手を伸ばす。びちゃっとした感触…手の平に、汗混じりの水滴がへばりついた。

「ああ、いや…これは…待ち合わせしてて…これから…」

「デートか?」

「は、はぁ…そんな感じです」

「デートに行くカッコじゃねえな~それは(笑)ダメだよ(笑)」

そんな直球で言わなくても…いや、でも図星だな…カッコ悪ぃ…

「はは…そーですよね、あ、でも…待ち合わせ遅れちゃうんで、行きますね!」

「………」

「あ、あの!ぶつかってしまってごめんなさい!じゃあ!」

ハンカチでバサバサと濡れた頭を拭きながら、俺は再度足を進めた。だが…

「待て!」

正人さんが、さっきと違った険しい声色で言った。まだ、まだ何かあるのかよ…

彼女は今頃、待ちぼうけしているかも知れない。

もし、ヒールでも履いて立っていたらキツい筈だ。そう、雑誌で見たことある…女性は、男を待たせるのは良くても、男に待たされるのは嫌いだ、と…

そう、今は正人さんに構っていられないんだ…彼女を待たせてはいけないんだ。早く!

「危ない!!!」

次の瞬間、膝から下に地面の感触が無くなり、視界が一気に、下に向かって歪んだ。例えるなら、映像がバグって縦にノイズが走る…そんな感じ。

そして、ザザザザザ!!!という音と共に、頭や腕に固い何かが当たる。あれ、何だこれ…何なんだ?

あ、落ち────

「うぉらああああ!!!」

耳元で大声が聞こえ、後ろ襟が、さっきとは比べ物にならない程強い力で引っ張られ…そこで視界は止まった。

「助かった!」「大丈夫か!?」

という声が、何故か頭上から聞こえる。目には、どんよりと曇った空と海が雑草越しに映っていて…その、謎のアングルに戸惑いを覚えた。

「引っ張るぞ!手伝え!」「救急車呼んで!」

頭上は段々と騒がしくなり…足元の感触がはっきりしてくると同時に、自分の置かれた状況を悟った。

俺はいつの間にか、海岸沿いの歩道のガードレールを乗り越えて…真下の崖に向かって進んでいたのだ。

separator

正人さんと他数人によって体を持ち上げられ、俺は崖から抜け出した。

幸い、脚と腕の数か所に擦り傷が出来ただけで大きな怪我は無く、救急隊員にその場で手当てして貰い、搬送される事は無かった。

だが…ガードレールから顔を出した瞬間に、自分と正人さんの周りに大勢の人間がいるのが見えて…皆心配そうに様子を伺っていた事に、申し訳ない気持ちと、何故自分が崖に向かって行ったのか訳が分からず…心臓がバクバクと鳴り、落ち着くまで暫く時間が掛かった。

「おまえ…ま、前、見えてなかったのかよ!」

正人さんも、俺の後ろ襟を引っ張った時に岩肌で腕を擦りむいた。着ていたシャツの前身頃が汚れ…息遣いがまだ荒い。

「…すみません…すみません…」

馬鹿の一つ覚えさながらに、俺は頭を下げて謝った。その内、後頭部にゴツン!と鈍い音がして、見上げると兄が仁王立ちしていた。正人さんにラインで呼ばれたそうだ。

「本気で死にてえのか、あれ程言っただろうが」

「兄ちゃん…ごめ、ごめん…」

「乗れ、帰るぞ!正人も乗って、それ、シャツ洗うからさ…」

兄の車に乗せられ、俺は家に戻るのを余儀なくされた。全部俺のせいだ…俺が無茶してバイトなんかして、寝坊して急ぐから…こんな大事になってしまった。

ふと、ハンドル横の時計を見ると…午後4時50分。終わった。マジで終わった。

今頃彼女…どんな気持ちで…どうしよう、泣いてるかも知れない。俺が、俺が約束を破ったって…最低だ、最低だ最低だ最低だ…!

「恵太…さっきのさ、何?」

「え、何って…」

「あれ程言っただろって、もしかして恵太、今日の事知ってたの?」

「…知ってた」

「マジで!?叩き起こしてやれよ~!デートってんだからさ(笑)」

「デートじゃねえよ、だろ?雄介」

「兄ちゃん……俺、謝らないと、彼女に…」

「向かってやったら?彼女んとこ、流石に無視は出来ねえって────」

正人さんの言葉を遮るように、兄が車を路肩に急停止した。

そして、ハンドルに寄りかかり、深く一度ため息をつくと…後部座席に座る、俺の方に顔を向けた。

「名前は?」

「え?」

「だから名前だよ…彼女の名前」

「…恵太、どうしたよ…?」

名前?知ってるに決まってんだろ…何言ってんだ兄ちゃん…彼女の名前は…あれ?

あれ?

「連絡は?メールか?電話か?まさか、パソコンだなんてふざけた事言わないよな?一週間前に壊れて、まだ買ってないんだから…」

「え?ちょっと何…?てか恵太、顔色青くね?」

確かに聞いた。声を聞いたんだ…!…どうやって?

俺はどこで、彼女の声を聞いたんだ?

「雄介、何て言われた?」

「午後4時にって…もう駄目だけど…」

「どこで待ち合わせてたんだ?」

「……わ、わかんないです…」

思い出せない。どこで待ち合わせてたのか。そもそも、待ち合わせなんてしてたのか?

「はぁ!?え、おま…場所も知らねえで歩いてたの!?あんな必死に!?」

「だって、彼女が言うんだよ!待ってるって…!」

「だから、その子の名前分かるなら言えるだろ!」

「そ、それが…わかんない…分かんないんだよ!」

「ちょ、ちょ…恵太も雄介も落ち着いて?な!?」

車内はピリピリとした空気に包まれていた。何がどうなってるのか分からない。全員の頭が混乱していた。

その時だった。

────どうしたの?

か細く、囁く声…彼女だ。

────大丈夫?わたし、待ってるから…来て。

ごめんな…ちょっと色々あって、行けなくなっちゃったんだ…

────何で?来てよ…

本当にごめん!せっかく会おうとしてくれたのに…また会ってくれる?次は絶対だから!

────やだ。今から来て…来てよ。

ごめん…駄目なんだ。…こわい…怖い…?

────来てよ。

行きたくない。いやだ…怖い!

────早く来てよ。

怖い!助けて!誰か!

早 く こ っ ち に 来 い よ!!!

…ぽちゃん…

恐怖で遠のく意識の中で、何かが水に落ちる音が聞こえた。

抱えていたバッグに付けていた小さな巾着袋が、引きちぎられたのか…細い紐の繊維を僅かに残して無くなっているのに気付く。

助手席の窓が開いているのが見え、兄がそこから、排水用の側溝に投げ捨てたのが分かった。

「雄介、俺が知らないとでも思ったのか?廃墟に行って、そこに落ちてたもん拾って来て…そういうのはな、危ないんだよ」

「恵太、どういう事だよ…?」

「一か月前からずーっと、なんかブツブツ言ってんなって思ったら…あのボロいお守りに向かって話し掛けてるんだよ。で、俺が『止めろよ』って言ったら…『彼女が話しかけてくる』なんて言うからさ…最初は冗談かと思ったけど」

「…なんだそれ…マジで言ってんの?」

「危ないから戻して来いって、何度も言ったのに…カバンに大事に付けてたなんてな…」

「あ、危なくなんて…ないよ…だって、彼女が…一緒に居たいって言ったから…」

「雄介…おい!大丈夫か!?どうする恵太!」

「大丈夫じゃないな…正人、峠の麓の寺知ってるべ?今からそこ行くから、正人も一応、祓ってもらわないと…」

車は再び、エンジンを掛けて進み始めた。お守りを残して、側溝が遠のいていく。

海沿いの廃屋。いつ頃に建てられたのか不明で、老朽化なのか何なのか…干潮時の僅かな間じゃないと姿を現さない、特殊な建物だ。

運良く入って、出てこれるか、そのまま満ち潮に流されるか…誰にも分からない。地元の人も、その存在すら知らない人の方が多いらしい。

俺は確かに、そこで彼女に出会った。いや、「立ち入ってしまった」というべきか…

あのまま、正人さんに止められていなかったら…俺はどこへ向かっていたんだ?

だって、わざわざ自分から、足が向く筈無いんだ。

潮が満ちて来ると、仰向けの水死体がプカプカ浮かんで来て…

崖の真下から、足を引っ張ってくるんだから。

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