「あなた良いわねえ、こんな可愛い娘さんがいて
わたしにも娘がいたんだけどね」
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女は黒目がちの小さな瞳を眩しそうに細め、恨めしげな口調で呟くと、荷台に座る4歳のアカリを見た。
赤茶けた長い髪に、これといった特徴のない地味な細い顔
そして、いつ会っても場違いな黒いシルクのドレスを着ている。
女は筋の浮いたか細い手を伸ばし、アカリの頭を触れようとする。
わたしは「すみません、急いでいるんで」と言いペダルに力を込めて、前方に自転車を走らせた。
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わたしが旦那と別れアカリと二人この郊外にある古い住宅街に越してきたのは去年のこと。
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住宅街の外れにある築30年の2DK の賃貸アパートは、母子二人が暮らしていくには十分な間取りと広さだった。
早朝から工場に通勤し、夕方には保育園にアカリを迎えに行く。
それから、その日の晩の食事とかの準備だ。
そんな単調な毎日を繰り返していた。
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あの日が来るまでは、、、
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女と初めて話したのは、引っ越してきて一ヶ月ほど経った頃のこと。
その後も数回話をした。
それはいつもアカリと一緒に自転車で晩の買い物に行く途中だ。
女はなだらかな坂の途中で、何をするわけでもなく立っている。
西陽に照らされたその姿は、まるで砂漠に立つ蜃気楼のようだった。
背後のブロック塀の向こうには、木立に囲まれた洋館風の建物が見える。
彼女の住む家なのだろうか。
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進路を遮るようなところに立って挨拶をするものだから、やむを得ずわたしは一旦自転車を止める。
そして女の話に付き合わされるのだが、その内容はいつも先ほどのような、自分にも同じくらいの年頃の娘がいたのだが事故で亡くしてしまったというものだった。
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面倒くさいからいつも適当に話をはぐらかして再びサドルをまたぐと、ペダルをこぎ出す。
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そしてとうとう、あの日はやってきた。
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それは決して忘れることが出来ない、引っ越してから三ヶ月経った日曜日のこと。
そろそろ日が西へ傾きかけるころ、わたしはいつものように4歳のアカリを荷台に乗せてサドルをまたぐと、ぐっとペダルに力を込める。
その時までは明らかに時間は優しく穏やかに進んでいて、その後にあんな事になるなんて思ってもいなかった。
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アパートの敷地を出ていつものスーパー目指して軽快に道路を走り出す。
スムーズに最初のT字路を左に曲がり朱色の西陽を左半身に感じながらしばらく真っ直ぐ走ると、あの奇妙な女の立っている辺りに差し掛かる。
だがその日は女の姿は無く直進すると、いよいよ最後の交差点に侵入した。
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その時だった。
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右の方から強烈なクラクションとけたたましいブレーキの音が鳴り響く。
わたしは慌ててそちらを見た。
いきなり黒い軽の車体が視界のど真ん中に入ってくる。
次の瞬間ガシャンという金属の衝突音と同時に身体全体に衝撃と激痛が走り、わたしの体は自転車と一緒に宙を舞いブロック塀に叩きつけられ、目の前が真っ黒になった。
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次に目を開いた時は、わたしは病院のベッドの上にいた。
頭には包帯を巻かれ、鼻にはチューブを差し込まれ腕には注射針を刺され、、、
駆けつけた若い看護師が「良かった、起きられたんですね」と安堵の笑みを浮かべる。
わたしは真っ先に聞いた。
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「アカリは、アカリはどうしてるんですか?」
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看護師はそれには答えずその場を立ち去り、しばらくすると初老の医師らしき男性が現れて「十分に手は尽くしたんですが、本当に残念です」と悲しげにうつむいた。
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目の前が再び真っ暗になった、、、
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ほぼ即死だったらしい。
医師が言うには恐らく、痛みとか苦しみとか感じる前に亡くなったということ。
それがせめてもの救いだったかもしれない。
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無免許の少年による暴走運転ということだった。
少年の両親が本人と連れだって病室を訪れた。
父親は床に額を擦り付け「本当にすみません、私どもの生きている限りあなた様の娘様への償いをやらせて下さい」と、泣きながら訴え続けた。
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幸か不幸か、わたしの容態はそこまで深刻ではなかったようだ。
実家の両親が来てくれて、わたしも車椅子に座りながら、何とかアカリを見送ることが出来た。
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病院を退院しアカリの初七日を終えた後、またあの平凡な日常が始まった。
工場の勤務を終えて眠い目を擦りながらアパートにたどり着くと部屋で着替え、外に出ると新しく買ったママチャリのペダルに足を乗せぐっと踏み込む。
自転車は難の抵抗もなくスムーズに前に飛び出す。
当たり前のことなのだが、なぜだろう目頭が熱くなってしまう。
わたしにとっては毎日の辛く悲しい一瞬。
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西からの日射しは、今日もわたしの身体を優しく包み込んでくれる。
こうやって、これからもありきたりな日常が積み重なり、いずれわたしも年老いて灰になるのだろう。
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いつものT字路を左に曲がり、真っ直ぐ進む。
緩やかな坂を最後の交差点目指して登りだした時だった。
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右上方から何となく視線を感じたわたしは、ふとそちらに視線を動かした。
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ぞわりと冷たいものが腰から背中を走る。
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ブロック塀の向こうには木立に囲まれた古い洋館がある
円柱型の外観と蔦のからまる白壁。
見ると二階部分にあるバルコニーに、あの女が立っていた
特徴的な黒いシルクのドレス。
細い地味な顔を鮮やかな朱色に染め、じっとこちらを見ている。
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そして、その隣には、、、
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─!?
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薄いピンクのトレーナーにジーンズスカート。
あの事故の時のままのアカリが白い手すりの間から悲しげな目で、じっとこちらを見ている。
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その場に自転車を倒すと、わたしは駆け出した。
西洋調の白い鉄の門を乱暴に開くと雑草だらけの荒れたポーチを走り、玄関の重厚な白い扉の前に立つ。
扉には「売家」と書いた紙が貼ってある。
随分と月日が経ったかのように紙は汚れ、ぼろぼろになっていた。
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─ここには誰も住んでないの?
でも、でもあれは間違いなく、アカリだった。
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「開けて下さい!お願いだから開けて下さい!」
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わたしは固い扉を何度も叩いては、力付くでノブを引っ張るのだがびくともしない。
それでもわたしは声を枯らしながら何度も何度も扉を叩く
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「お願いします、お願いしますから、アカリを、アカリを返して下さい!」
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だが何の返事もない。
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………………
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それから、どれくらい経っただろうか。
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あれからわたしは建物の裏手に回り、カーテンの閉められたサッシ戸を開けようとしたり横手に回り窓等も見たが、ダメだった。
いつの間にか辺りは暗くなっていて、わたしは扉にもたれかかりぐったりとなって座りこんでいる。
薄暗い玄関の踊り場でわたしは一人目を閉じ考えていた。
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─果たしてあの女はこの世の者だったのだろうか。
もしそうではなかったのならば、アカリは今あの世であの女と幸せに過ごしているのだろうか?
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泣き疲れたわたしはよろめきながら立ち上がると、お尻を叩き草だらけのポーチに一歩を踏み出す。
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その時だった。
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カチャリという鍵の開く音が背後から聞こえた。
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Fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう