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中編6
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媛那さん

 不意に風が吹き抜けて、白い影が視界に入り込んだ。隣のブランコに、白い巫女装束の少女の姿があった。ショートカットの髪は以前と同じに黒光りして、大きめの瞳を前に向けていた。

 あの頃と寸分違わぬ姿だ。彼女はブランコを揺らすでもなく、両手を緋袴の上に行儀よく載せて、ただ静かに座っていた。

 長い間、どれほど彼女と会いたかったことか。六十年、いやもっとか。ずっと抑えていた思いがこみ上げて、涙が溢れるのを止められなかった。

「相変わらず泣き虫やな、坊」

「…………酷えよ、媛那さん…………ずっと、ずっと、会いたかったのに…………」

涙ぐむ俺に、静かな声が返ってきた。

「ずっと、見とったよ」

媛那さんの口から、小さなため息が漏れた。

「ずっと、坊のこと見ておった。いいこともわるいことも、みんな見ておった」

「なら分かるよね。僕は必死に生きてきた。離婚はしたけど、妻子もいた。会社も潰れたけど、日雇いで稼いでしのいできた。でも、もう疲れたよ。何かに追われるような生活はもう嫌だ。もういい加減、そちら側に行っても構わないだろう?」

 媛那さんはそうやね、と小さく呟いて夜空を見上げた。朧月が綺麗な夜だった。

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「おい、坊。そこで何をしとる?」

 半泣きの僕がいじめっ子グループに奪われたものを探していると、若い女の声が降ってきた。見上げると巫女さんが御神木の枝に腰をかけて見下ろしていた。巫女さんのくせにショートカットかよ、と思ったが、それは胸にしまい込んだ。どこにでもいそうな、中学生くらいの活発なお姉さんという雰囲気だった。

「習字セット、探してるんだけど」

泣き顔を見られまいとして顔を拭いながら説明する。

「習字セット?」

頷く僕に、彼女は首を傾げ黒目をくりくりさせた。そして枝からさっと飛び降りて、

「もしかして、あれのことか?」

と、境内のすぐ外側を流れる用水路を指さした。

「あ……あった」

貸してくれた熊手を使って取り戻すことはできたものの、ずっぽり泥水で汚れていた。

「字が汚いって、いじめられたんだ」

「ほう、そうか……試しに、地面に何か書いてみな」

『正』

の字を砂利の上に指で書いてみた。ミミズがのたくったような、無様な字面だった。

「坊の字は、何かこう、根本に問題があるみたいだな」

 巫女さんは媛那(ひめな)と名乗った。彼女の提案で、放課後に習字の手ほどきを受けるようになった。謝礼は幾らか尋ねたら、来た時に五円玉を賽銭箱に入れてくれればいい、と軽く笑っていた。習字なんか大嫌いだったのに、いつしかみるみる上達した。しまいには、習字コンクールで優秀賞を取った。もう僕を馬鹿にする者はいなかった。

 

 嬉しくて嬉しくて、小躍りしながら媛那さんに報告に行った。だが、神社には誰もいなかった。何度呼んでも木枯らしが吹き抜けるばかり。それどころか、いつも出入りしていた社務所がぼろぼろになっていて、何年も人が入っていないみたいだった。

 家に帰ってから親にそれとなく尋ねると、「あんなぼろ神社に巫女なんざいねえよ」と笑われてしまった。程なく神社は取り壊され、スーパーができた。

 さらに数十年経った今────。

 潰れたスーパー跡地は公園になっていた。人生の全てに疲れ切った僕は、鮭が生まれた川に帰るように、この公園に戻っていた。指には皴が寄り、かつて筆を取った手は悪筆に戻ってしまっていた。そうだ、最後に筆を握ったのはいつだったろう。

 ブランコの上でぼんやりと虚空を眺めていると、自然と媛那さんのことを思い出していた。ほっそりとした指が優雅に筆を掴み、白地に墨水を塗り付けていく様は、形のないものがそこに縫い留められていくような不思議な感覚をもたらしてくれた。あれは紛れもなく、真正の「書」だった。習字なんていう子供だましじゃない。書き上げられたものを見ていると、「書」という形を与えられた何かが、この世に生を受け喜んでいるようにすら感じられたものだ。

 彼女からほのかに漂う甘い香りや、真剣な眼差しで半紙に向かうその姿を、今でもありありと思い出すことができる。すべてが輝きに満ちていたあの美しい時が、永遠に続けば良かったのだ。

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「坊……昔、私が書いた字を覚えてる?」

不意に媛那さんが静寂を破った。

「もちろん、もちろん覚えてるさ。忘れるわけがない」

 彼女が最後に僕に書き残したのはただ一文字。

『慈』

「他者をいたわり、情けをもって接すること……きっとそれは坊自身を幸せに導くから…………」

 僕に渡しながら、小学生にも分かりやすい言葉で説明してくれたっけ。あの時、いつになく彼女の瞳が黒光りしているように感じられたのは気のせいではなかったのだろう。

「きっと、忘れてはなんねえよ」

 それは彼女からの、最も大事なメッセージだったのだ。それにも関わらず、僕はあの見事な書を失ってしまった。────いや、そうじゃない。あの媛那さんそのものを象徴するかのような書はいつしか、僕にとって少年時代の輝ける思い出から重い枷へと変化していったのだ。

 

 だから、僕はそれを────たった一つの、僕の人生で唯一の、最も大事な宝物を────燃やした。実家の庭で、百円ライターの安っぽい火を点けた瞬間、媛那さんの潤んだ瞳が脳裏をよぎった。だが、その時には火は赤々と薄く脆い半紙を燃やし尽くしていった。その情景は僕の心の一部が燃え尽きていくような錯覚を僕にもたらした。僕は震える拳を握りしめながら、空虚な心持のまま炭と化した半紙をその場に残して部屋に戻った。

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 不意に、夜風にも似た声が寒気を震わせた。

「こっち側で、みんなも待っとるよ」

「みんな?」

 不審に思い視線を向けると、媛那さんの周囲に、見覚えのある少女たちの姿が浮かんだ。目を潰された者、胸を抉られた者、手足を切り落された者、等々。血生臭い姿で、僕を恐ろしい目で睨んでいた。その誰もが、ある人物に似ていた。

「みんな、坊を恨んじょる」

媛那さんは深いため息をついた。

「おまんが猫を殺しまわっていて、それがいじめの原因だということは知っておった。ほんでもまだ幼いし、我が氏子じゃからな、坊を救いたいばかりにわしが手を貸したのがあかんかった。却って悪い癖に拍車がかかってしもうたな」

淡々と語りながらも、その声はどこか滲み出るような感情のさざ波を感じさせた。

「どの道、坊には無間地獄が待っておる。望み通りこちら側で永遠に苦しむがええ。警察に渡さんのは、せめてもの恩情じゃ」

 憐れむような眼が、別れた妻の視線に似ていた。ただ、怯えではなく、悲しみが混じっている点だけが異なっていた。その瞳に宿る光が、僕の中の何かを弾けさせた。

「放っておいてくれれば良かったのに……そうすれば僕はこんなにはならなかった!! あなたの姿を追い求めることもなかった!! 僕が歪んだのはみんなあなたのせいだ!!」

 叫びながら僕はナイフを振るった。彼女の巫女服が血に染まり、痙攣して動かなくなるところを見届けさえすれば、そしてその動かなくなった血まみれの体を思うさま嬲りものにできれば、僕は永久に満足できるはずだった。

 だがそんな思いも虚しく、刃は彼女をすり抜けていった。予想してはいたが、やはり落胆を禁じえなかった。勢い余り地に転がる僕を見て、媛那さんは首を振り、無言のまま背を向けた。決して届くことのないその姿が闇に溶けていくのを、僕はただ見送るしかできなかった。そして鬼の形相の少女たちが僕を取り囲んだ。血飛沫と絶叫が僕の喉から迸った。

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